5月 20 2005
これぞハリウッド映画の神髄
「キングダム・オブ・ヘブン」という映画を観て来た。別に観たかった作品ではない。うちの奥さんがイスラム好きなので、何の気なしに同行しただけだったが、得てして、こういうときには面白い作品にブチ当たるものなのだろう。この作品、びっくりした、とまではいかないまでも、なかなかいい映画だった。
作品自体は十字軍とサラセン軍の戦いを中心に展開する歴史スペクタクルものなのだが、何よりも、グラディエーターで再びハリウッドに歴史絵巻ものブームを作ったR・スコット監督の映像手腕が見事だった。主人公の心理描写や、作品の主題の表現には難があったが、この作品は純粋にスペクタクル作品として楽しむべきだ。やはり、R・スコットはこの手のものを撮らせたら今はピカ一な監督だろう。ヴォルフガング・ペーターゼンの「トロイ」やオリバー・ストーンの「アレクサンダー」よりも数段、素晴らしい出来映えだった。こういう巨費を投じたハリウッド大作の逸品は是が非でも映画館で観るべきだろう。特に後半のサラディン率いるサラセン軍が聖都エルサレム奪回に向けて攻撃を仕掛けるシーンは超圧巻。今までに観たどの歴史スペクタクルものよりも迫力があったように思う。
物語の筋を説明すると長くなるので控えるが、とにかく、この映画を観る前に十字軍の歴史について少し調べておくのが賢明。映画の舞台は第2回十字軍と第3回十字軍のちょうど間の時期が設定されている。あと、イスラムの英雄サラディンについても少しチェックしておくといいかもしれない。個人的には主人公のバリアン(十字軍の勇敢な騎士ゴッドフリーの息子)よりも、サラディンの方がはるかに存在感があった。あとライ病に冒されたエルサレム王の役をエドワード・ノートンが演じているのだが、映画を見終わってgoogleで検索をかけるまでそれに気づかなかった。ノートン恐るべし。
ヌース的なネタはあまりないが、台詞のやり取りで二ケ所ばかり印象に残る部分があったので少し触れておこう。一つはこの映画の主人公であるバリアンがサラディンに問うシーンだ。「あなたにとってエルサレムとは何か。」サラディンは答える。「それは無だ。」さらに、少し間を置いてから付け加える。「そして、すべてだ。」と。このシーンのサラディンが無茶苦茶カッコいい。「無でありすべてだ。」と一気に言わないところがニクイのだ。もう一つは、同じくバリアンと恋に落ちるエルサレム王の娘シビラがバリアンをベッドに誘うときの言葉がなかなかだった。「東洋では光は人と人の間を遮るものと言われているのよ。」そう言って、ろうそくを吹き消し、バリアンに腕を回す。西洋では光は神だが、東洋では光はむしろその逆の性格を持っている、ということだろう。光を対象として見ているうちは、西洋の神しかいない。光が見ることそのものになったとき仏が現れる。そこから合体が始まるってか。まっ、そういうことかな。
最後に余談だが、バリアン(オーランド・ブルーム)に弓を一切引かせなかったのは正解だった。指輪物語の第四部ではない。
5月 21 2005
サージウスの死神
さっちゃんの本が出た。いや、もう作家の仲間入りをしたのだから、「さっちゃん」ではいくらなんでも失礼だ。敬意を込めて「ヤツ」と呼ぼう。
ヤツの本が出た。去年、群像新人文学賞優秀賞を受賞した「サージウスの死神」が単行本になって発売されたのだ。小説はここ三十年まともに読んだことはなかった。久々に読んだのがこの作品だ。正直、かなりの衝撃を受けた。身内評で言ってるのではない。ひさびさに重金属を感じさせる文章に触れた。いや溶けた重金属というべきか。そんな気がする。わたしは文学には疎い。しかし、この本を満たしている危険な熱は十分感じ取ることができる。この本は、ヘタに読むと脳が焼けただれる。憤怒や情熱などといった人間的な熱によってではない。聖なる悪が帯びた冷熱が一面を覆っているからだ。
暴力には二つの種がある。一つは「神話的な暴力」と呼ばれる。神々は世界を創造し世界から立ち去った。その不在を在の痕跡として、この種の暴力は人間の生の中に刻み込まれる。戦争、殺人、強姦、監禁……、世界の大半の悪はこの神話的暴力によって引き起こされてきたと考えていい。もう一つは「神的な暴力」と呼ばれるものである。この暴力は言葉の中から言葉を喰い破るようにして出現してくる。それは普段は表面には顔を現さない。人間の仄暗い意識下で、それこそ蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、ひとたびそれが動き出すや、たとえ神話的暴力の力を持ってしても制止させることはできない。なぜなら、それは自然そのものに抗う生命の力だからだ。
一つ例を挙げるとすれば、それは革命である。革命には戦いはつきものだ。しかし、その性格は国家VS国家のそれとは大きく異なる。革命は国家VS個体という場所から始まる。その意味において、革命とは、有機体が自己自身を刷新していくために自己の内部で生起させる戦いである。こうした自己変容に関わる力が神的暴力だと考えていい。その意味で、神話的暴力は種の保存に関わり、神的暴力は種の刷新に関わる。神話的暴力は科学に関わり、神的暴力は芸術に関わる。また、別のいい方をすれば、神話的暴力は律法の神の力であり、神的暴力は詩の神の力である。これら二つの暴力の淵源はともにゾーエーにあるが、このゾーエーの制御と解放こそがエゼキエルの車輪を回す動力となっているのだ。
さて、現代に神的暴力というものが存在するや否や——いや、気恥ずかしいが、ここはなるべく分かりやすく言い換えておこう。このワンワールド体制に果たして革命というものが起こりえるか否か——。「ヴァリス」に記されているごとく、確かに帝国を滅ぼしてきた者もまた帝国であったわけだが、この資本主義帝国を終焉に至らしめる者は決して帝国とは呼ばれることはないだろう。それは個体でしかあり得ない。徹底した孤独の中で死に向かって直立することのできる個体でしかあり得ない。人は徹底した個体化の中に初めて真の他者を見いだす。天使的結合はそこでしか起こり得ないのだ。死せる神が貨幣に姿を変えているならば、わたしたちは、それらをすべて焼き払い、その灰の中から立ち上る火の精霊を見いださなければならない。この神聖な火によって初めて鉄の精神は聖なる剣となって精錬される。その聖剣を持って現れるのがソドムの天使である。
「サージウスの死神」とはそんな書物である。本屋に行けばその所在はすぐに分かるはずだ。赤く焼かれた鉄の色。ダビンチの神聖幾何学。グルジェフのエニアグラム。そして、その上に配された擬オカルト的な記号。分裂症患者の数字。この鉄の中に潜む聖なる悪と邪なる善は今や境目をなくし、一体に解け合おうとしている。サージウスの赤褐色が黒と組めば本当の死がやってこよう。白と組めばそれは復活である。ルーレットは回っている。重要なのは頭に飼われた数字ではない。蛇である。ヤツの心の中の蛇が眠らないことを祈る。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 1