5月 19 2005
エゼキエル・シャフト
この数ヶ月、機械製作に没頭していたため、ヌース理論の思考作業の方がおろそかになっていた。ここ数日は、また、ロゴス(種子)をいかにして宇宙卵に受精させるかというヌースの直裁的なテーマを考えるのに躍起となっている。この場合のロゴスとは幾何学の論理。宇宙卵とは人間の実存の中に蠢く情動力のことだ。それもこれも、ヌース会議室の方にgnuさんという、数学が大変できる人が登場されたからである。正直、わたしは彼の豊富な数学的知識に直接訴える形で論を展開できないでいる。まぁ、そのへんはいずれ専門家がやってくれるだろうと暢気に構えていたが、やはり、ここは自力でやるしかないのだな、ということを痛感した。考えてみれば、種子が十分な発育を遂げていなければ、受胎される胎児もおそらくキメラ生物のような気味の悪いものでしかないだろう。そうした奇形は決して出産までこぎ着けることはできない。そうした経過もあって、ヌースのツインドライブ頭がまたグルグルと回り出したのだ。
ヌース理論は視線方向に四次元が重なっていると説く。その説明にはやはり複素数平面を使うのが一番いい。そのロジックはそれほど難しいものではない。今、目の前に左右に延びる一本の数直線をイメージしてみよう。それは「見える」という意味で「実」だ。次に、お約束通り、原点Oを中心として右方向に+方向を取り、左方向に-方向を取る。さて、ここで左右を入れ替える操作を考えてみよう。そのためには原点を中心としてグルっと180度回転させればよい。つまり、この操作によって+1は−1に変わり、−1は+1に変わる。つまり、この回転操作は代数的には−1を掛けるという演算の意味になるわけだ。
では、このときの90度回転とは一体何なのだろう。90度は180度の半分であるから、それを代数的な意味に置き換えれば、当然、二回の90度回転で−1が導き出されてくるわけだから、i×i=−1というように考えることができる。よって、実軸の原点を中心とする90度回転とは数直線的な意味の連関から「虚軸」である、ということが言える。ならば、複素平面でいつも目にしてるように、ヨコ軸が実軸で、タテ軸が虚軸かというとそうではない。なぜなら、目の前の空間においてヨコとタテは相対的なものにすぎないからだ。これといった差異がない。クビを横に向ければヨコはいつでもタテになる。ヨコもタテも「実」なのだ(※ヌース理論のさらなる先の展開では、このタテ/天地とヨコ/地平は全く違うものとなってくる)。
となれば、残る方向は一つしかない。つまり、奥行き方向である。この方向に虚軸が関わっているということだ。実際、奥行きは「虚」の名が示す通り目に見えないではないか。これはタテとヨコに対する絶対的差異である。
このような考え方をすると、三次元空間は二枚の複素数平面で構成されているのではないか、という考え方ができるようになる。つまり、二枚の複素数平面を直交させ、それらが十字の形に見えるように目の前に配置するのだ。タテ平面に通る奥行きとヨコ平面に通る奥行きは、当然、重畳し合い二本の虚軸としての意味を持っている。この重畳した二本の虚軸とは、自己と他者との眼差しの交差の場でもあるだろう。およそ宇宙に存在するすべてのものの生成はここで起こると考えるのがヌース理論である。すなわち、ここで交差している二本の虚軸がエゼキエルの車輪を回すシャフトとなるのだ。二組の「わたし」でもある(i、−i)のキアスムによって生まれる二組の「±」。鏡像交換の原理によって一組の±の軸は三次元という想像界へ、そして、もう一つの±の軸は4次元という現実界へと接続する。その意味で、ここは物質と意識が分離する分岐点でもある。もう一度言おう。奥行きには4次元が重なっている。奥行きを観じている者、それが四次元の君だ。。ブルトンの言葉が久々に聞こえてくる。。。そろそろ、エンジンがかかってきたようだ。前進あるのみ!!
そこから見ると、
生と死、
現実と空想、
過去と未来、
伝達の可能と不可能、
高さと深さなどは、
もはや対立とは思われない。
5月 20 2005
これぞハリウッド映画の神髄
「キングダム・オブ・ヘブン」という映画を観て来た。別に観たかった作品ではない。うちの奥さんがイスラム好きなので、何の気なしに同行しただけだったが、得てして、こういうときには面白い作品にブチ当たるものなのだろう。この作品、びっくりした、とまではいかないまでも、なかなかいい映画だった。
作品自体は十字軍とサラセン軍の戦いを中心に展開する歴史スペクタクルものなのだが、何よりも、グラディエーターで再びハリウッドに歴史絵巻ものブームを作ったR・スコット監督の映像手腕が見事だった。主人公の心理描写や、作品の主題の表現には難があったが、この作品は純粋にスペクタクル作品として楽しむべきだ。やはり、R・スコットはこの手のものを撮らせたら今はピカ一な監督だろう。ヴォルフガング・ペーターゼンの「トロイ」やオリバー・ストーンの「アレクサンダー」よりも数段、素晴らしい出来映えだった。こういう巨費を投じたハリウッド大作の逸品は是が非でも映画館で観るべきだろう。特に後半のサラディン率いるサラセン軍が聖都エルサレム奪回に向けて攻撃を仕掛けるシーンは超圧巻。今までに観たどの歴史スペクタクルものよりも迫力があったように思う。
物語の筋を説明すると長くなるので控えるが、とにかく、この映画を観る前に十字軍の歴史について少し調べておくのが賢明。映画の舞台は第2回十字軍と第3回十字軍のちょうど間の時期が設定されている。あと、イスラムの英雄サラディンについても少しチェックしておくといいかもしれない。個人的には主人公のバリアン(十字軍の勇敢な騎士ゴッドフリーの息子)よりも、サラディンの方がはるかに存在感があった。あとライ病に冒されたエルサレム王の役をエドワード・ノートンが演じているのだが、映画を見終わってgoogleで検索をかけるまでそれに気づかなかった。ノートン恐るべし。
ヌース的なネタはあまりないが、台詞のやり取りで二ケ所ばかり印象に残る部分があったので少し触れておこう。一つはこの映画の主人公であるバリアンがサラディンに問うシーンだ。「あなたにとってエルサレムとは何か。」サラディンは答える。「それは無だ。」さらに、少し間を置いてから付け加える。「そして、すべてだ。」と。このシーンのサラディンが無茶苦茶カッコいい。「無でありすべてだ。」と一気に言わないところがニクイのだ。もう一つは、同じくバリアンと恋に落ちるエルサレム王の娘シビラがバリアンをベッドに誘うときの言葉がなかなかだった。「東洋では光は人と人の間を遮るものと言われているのよ。」そう言って、ろうそくを吹き消し、バリアンに腕を回す。西洋では光は神だが、東洋では光はむしろその逆の性格を持っている、ということだろう。光を対象として見ているうちは、西洋の神しかいない。光が見ることそのものになったとき仏が現れる。そこから合体が始まるってか。まっ、そういうことかな。
最後に余談だが、バリアン(オーランド・ブルーム)に弓を一切引かせなかったのは正解だった。指輪物語の第四部ではない。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 3