6月 15 2005
鉄の音楽
久々にロックのアルバムを購入。ナイン・インチ・ネイルズの「With Teeth」というアルバムだ。前に買ったのがレディオヘッドの「Hail To The Theif」というアルバムだったので、実にCD購入は2年ぶりの珍事ということになる。
【1】トレント・レズナーのサウンドはメタリックなギターサウンドやハードコアなビートが売りになっているようだが、サウンドの重量感に対して曲作りの構成はとても繊細で明快だ。アンサンブルを聞けばすぐに分かるが、徹底的に考え抜かれた贅肉抜きの音作りをしている。かつてのプログレの雄、ツェッペリンやクリムゾンやイエスなどは別として、ロックの優れた楽曲というのは、コピーするのはさほど難しくない。つまり、各パートはあまり大したことはやっていないのだ。しかし、ドラム、ベース、ギター、ボーカルというようにそれぞれの音が重なり合ってくると、4倍どころか無限大にそのサウンド世界は広がっていく。これはシンプルでカッコいい音楽の絶対的な要素である。トレント・レズナーの音楽もそこが実にしっかりと押さえられているから素晴らしい。だから、やたらに音色だけ真似てもレズナーサウンドは生まれない。残念ながら。。そこに要求されるのは、リフのセンス、ビートのセンス、そして、歌詞を含めたアンサンブルのセンスなのだ。
【2】技術論的なことはさておいて、彼のサウンドのカッコよさのバックグラウンドには、ブリティシュ・メーンストリームの魂がしっかりと息づいているような気がする。今回のアルバムで言えば、一曲目「All The Love In The World」のピアノの匂いは、まるでWhoの「Who are you 」だし、シングルカットされた「The Hand That Feeds」のイントロのリフは、ほとんどKinksの「You Really Got Me」の乗りだ。WhoやKinksに共通するのは、「不良のダンディズム」である。それは、もちろん、ビートルズやストーンズにもあったものだ。不良と言っても、グリースの匂いをまき散らしながら、キャデラックのオープンカーで通りを突っ走るアメリカン・ロックン・ロールのチンピラたちのことではない。もちろん、こうしたティーンズ・ロックンロールがなければブリティッシュ・ロックも生まれなかったわけだが、60年代後半に向けて花開いたあのアバンギャルドなロックカルチャーは、ロックンロールの精神というよりも、あのケルトの深い森の神秘性が多大な影響を与えている。レズナーはもちろんアメリカ人だが、彼からはミスタードーナツの匂いも、ジェームス・ディーンの匂いもしない。
【3】良質の哲学や思想が常に古代の呪いから解き放たれていないように、良質のロックには常に60年代の呪縛がかかっている。それは、彼がシャロン・テート事件がおきた館をスタジオとして買い取ったことからも十分に想像できる。モダニティが解体を露にしたあの時代、ビートルズが「ヘルター・スケルター」を歌い、チャールズ・マンソンがそれに触発され猟奇殺人を犯す。ビートルズに凄まじい劣等感を抱いていたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン。その彼と親交があったチャールズ・マンソン。彼らの意識がどう絡み合ったかは分からない。ただ言えることは、そこに生きるすべての人名、地名、曲名、事件名といった種々の記号が、まさに乱数表のようなつながりを持ちながら、時代の中のあらゆる出来事が動いているということだ。無関係なものなど一切、存在しない。すべてが一つであるが故に。この出来事の盲目的な増殖、成長はそれこそリゾーム状の組織を形成しながら、日の当たるところにも向かえば、より地中深くへも潜行する。閉鎖した時代の壁の爆破を常に試みるロックという野生の生き物。そして、その生き物の雄叫びを実際の社会的暴力へといとも簡単に転化せてしまう仄暗い狂気。希望へのベクトルは絶えず絶望へのベクトルを生産し、すべてが何も無かったかのようにリセットされる。ナッシング、そう、レズナーがレーベル名に掲げているように、世界はまさにいい意味でも悪い意味でもナッシングなのだ。この二つのナッシングに挟まれて、わたしたちの魂は夥しい血を流す。ひねり潰される心臓。この血を好む生き物がいる。この発狂ギリギリの苦痛を糧とする生き物がいる。そうした生き物と真正面から向かい合うタフさがレズナーの音楽には感じられる。鉄の音楽。赤く錆びれた鉄。灼熱に溶け出す鉄。人体を切り裂く鉄。頭蓋骨をたたき割る鉄。巨大なビル群を支える鉄。そして、何よりも、われわれをいまだに狭苦しい空間に磔ているナインインチネイルズの鉄………。カン、カン、カン、カン……。世界は今だにゴルゴダの丘である。恒星を破裂させる音楽が欲しいのはわたしだけか?。
6月 20 2005
講演会というもの
昨日は、久々の講演会だった。NPO法人の「福岡気功の会」という団体の年度総会にゲスト講演者として招かれたのだ。最近は、講演依頼が舞い込んでも全部お断りしていた。というのも、ヌースの話を一般の人に分かりやすく説明する、という行為に底知れない難しさを感じていたからである。今までの経験から言えば、一般向けには、どうしてわたしがこんな理論を作るのに一生懸命になっているのか、つまり、その動機についての話の方が好まれる。要は、発狂体験、チャネリング体験の話である。まぁ、確かにこれらの体験は強烈で、常識では考えられないような異次元話のオンパレードなので、聞き手も身を乗り出して、固唾をのんで、一心不乱に聞いてくれる。さらに言えば、自分自身が経験している話なので、感情移入も自然にできるし、話のリズムも取りやすい。結果、講演会は大盛り上がり、会場は爆笑、はたまた感涙アリの情動のロゴスの坩堝と化す。はっきり言えば、この手のネタ話に関する限り、あの夜回り先生の講演にだって負けない自信はあるのだ。事実、最初の頃は、そのネタで全国各地をいろいろと回り、あちこちから講演依頼が殺到していた。
しかし、しばらくして、体験を売りにして講演して回っている自分に嫌気がさしてくるようになった。わたしは漫談師ではない。そんな話をして観客を楽しませたところでそれが一体なんぼのもんや?という疑問が次第に襲ってくるようになったのだ。霊界の話。OCOTの話。オリオン星の話。動物や植物たちとのコミュニケーションの話。日蓮やイエスの話。そして、最後に出会った自称、神と名乗る「闇」の話。。。確かに、物語のネタとしてはそれらは面白い。しかし、自分のやっていることは他者にとってはもちろん娯楽であっていいのだが、自分の中で娯楽になどすることはできない。それは人生の中で唯一、生死を賭けた真剣さを持って取り組むべき作業でなければならない。
そのうち、わたしは体験主義とはキッパリと縁を切った。体験をいくら伝えてもそれらは一時的な共感か、もしくは、不可思議ネタでとどまるだけだ。消費されるだけの商品でしかない。Fuck!!である。それ以降、講演はあまりやらなくなった。自分で自分のしたい話だけをする、そういうわがままな場の方がヌース理論には合っている。そう考えて、いわゆる全国のヌースレクチャーを定期的に自身の手によって展開するという手法を取ったのだ。もちろん、理論の話は講演会のように客は集まらない。集客はあったに越したことはないが、別に啓蒙活動をしたいわけではないので、ヌース理論を面白いと思った人たちだけが集まってくれればそれでよい。今でもその考えは変わらない。自分のやりたいようにやる。それが一番である。
今回は講演の開催場所が地元の福岡であること、依頼者が日頃から懇意にしているY氏であることも手伝って、久々に講演というスタイルを取って話をしたのだが、やり終えた後の感想は、やはり私の話は講演には向いていないということ(笑)。少なくとも今回集まっていただいた聴衆の皆さんは全員、気功をやっている人たちだ。その意味で、一般の人よりは見えない世界についての興味はそれなりに持っている。しかし、それでもヌースの話は少し難しかったのだろう。。不覚にも、お年寄りと若者の何名かを熟睡させてしまった。。もっとも、これは通常のレクチャーでもよくあることなので、大して気にはならないのだが。。。
ヌースの話を分かりやすく、しかも、エキサイティングに、クオリティを保ったまま、お年寄りも若者も眠らせることなく、最低2時間ぐらいは話せるようになること。。それがわたしの今の一つの課題なのかもしれない。いやはや、大変である。
By kohsen • 02_イベント・レクチャー • 2 • Tags: オリオン, ロゴス