8月 28 2005
定食屋「ふらごはん」
3日前より、トーラス氏とチョコボ氏が事務所に滞在している。昼間は仕事があるので一緒に遊べないが、夜は毎日、おいしいものの散策に出かけている。初日はお気に入りのイタメシ屋に行き、昨晩は自宅に招いてうなぎ、今日は一昨日の昼間に食べた定食屋が感動的に旨かったというので、再び、その定食屋へと足を運んだ。
二人がいたくお気に入りのこの定食屋,名前を「ふらごはん」という。ヌースコーポレーションのオフィスから歩いて4〜5分のところにある。わたしも時々、昼食に利用しているのだが、かつて食べたどの定食屋よりも圧倒的に旨い。メニューは定食のみで、鳥の唐揚げからハンバーグ、焼き魚、豚肉とナスの味噌炒めなど、メインディシュが14〜5種類揃っている。しかし、何と言っても最高なのは、すべての定食にサイドディシュとして付いている総菜の盛り合わせである。このつけたしだけで何と12種類ぐらいの味覚のコンビネーションを楽しめるのだ。それもみんな素材の味を生かした京仕立ての薄味。しかし、一品一品、丁寧な仕込みをしているようで、同じ煮物でも微妙に味が違う。素材はすべて有機野菜。お米は魚沼産のコシヒカリ。ごはん、みそ汁、おかわり自由。これで1.000円ぽっきり。ファミレス当たりで、1200〜1500円はたいて食べるより、はるかに安上がりで、かつ、ごはんのおいしさを満喫できる。
写真はこの日、チョコボ氏がオーダーした「鳥の唐揚げのしぐれ煮」定食だが、写真中央がサイドディッシュの総菜つけたしである。メインのしぐれ煮は写真右上。いかにこの「ふらごはん」がサイドディッシュに力を入れているかが分かるはずだ。ちなみに、この日のつけたしは、おくらの煮物、卵焼き、こんにゃくの煮付け、ゴーヤのごま油炒め、おから、冬瓜の煮物、キュウリとニンジンの和え物、たけのこの煮物、揚げ出し豆腐、ポテトサラダ、レタスとトマト、知らない名前の野菜の和え物が2種類。なんと、これらのすべてがみんなたまらないほど旨い。ほんとうに奇跡的なぐらい旨い。写真だと今ひとつその旨さが伝わらないかもしれないが、基本的にあまり野菜好きではないわたしが、毎回毎回、あまりのうまさに皿を舐め上げるほどきれいにたいらげてしまうのだ。その旨さは定食屋のおかずの域をはるかに超えている。
トーラス氏とチョコボ氏は明日、博多を後にする予定だが、帰る前にもう一度、この「ふらごはん」に寄っていくと言っている。わたしもここはつきあうしかあるまい。
9月 2 2005
否定的種子
えび茶色のビロード地のうえに白い斑点がポツポツと見える。これは何なのだろう。そこからはいつも暖かい臭いが漂ってくる。いや、臭いじゃない。何か心地のよい響きを持ったもの………声だ。ふわふわとした綿菓子のような声だ。ゆらゆらと揺れる斑点に合わせて、もわんもわんと、暖かい声が漂っている——。何を隠そう、これはわたしが思い出せる範囲内での最初の記憶である。えび茶のビロードに白い斑点…、当然、後になって知ったことだが、これは2歳のわたしをおんぶするために母親が使っていた子守帯(おんぶひも)の絵柄だった。言うまでもないことだが、わたしが最初に記憶したものは、このわたしではなく、えび茶と白の斑点だったのだ。
そのときそれ以外のすべての世界はいまだ目覚めぬ微睡みの靄の中にあった。他の記憶を辿ろうにも記憶はない。像の記憶も、音の記憶も、臭いの記憶も。それらはすべて肯定されていたのだろうか。肯定は存在を無に帰す。その意味では、わたしとはその大いなる肯定の中からこぼれ落ちてきた、ささやかな否定の種子である。
雨ににじんだ水彩画のように心もとないまだら模様の輪郭で縁取られた世界の原風景。世界はゆっくりと、ゆっくりと、どこからやってくるとも分からない力によって凝結し始める。世界の凝固とともに、わたしという種子もまたその輪郭を浮き上がらせてくる。わたしの起源が世界にあるということ、それは当たり前のこと。大いなる肯定の流れの前で軽いチック症にかかっているのがわたしなのだ。一瞬の瞬きが瞬きとして意識され、唇を走る痙攣がかすかに頬を震わすのを感じる。否定の種子の発芽はこうしてやってくる。
世界の起源は今は問うまい。ただ、わたしは、世界とともにここに出現し、世界とともにここから立ち去って行く。わたしは世界の後に何かを目撃することになるのだろうが、それを目撃したときには、すでにわたしではないものになっているのだろう。だから、わたしがわたしでいるこのほんの束の間の宇宙的な種子の時間を精一杯生きたいと思う。わたしでないと経験できないものがこの世界にはいっぱいある。それはあなたにとっても同じだ。あなたでなければ経験できないもの、それをあなたは経験している。
良い感情の流れ、悪い感情の流れ、不安や恐怖で淀むときもあれば、意味付けされない情動がただ激流のように流れ去っていくこともある。流れていくものの中に確かなものなど何一つない。わたしはやっぱり種子なのだ。
日々、死して蘇る——種子である間は、そんな人生を送りたい。
By kohsen • 10_その他 • 0