10月 30 2013
即自的時間と奥行き
存在の本質は空間(3次元)でなく時間だと考えなくてはいけません。存在とは「あること」をいいますが、「あること」とはあり続けて初めて「あること」になるのであり、この「あり続けること」は単なる3次元の空間では描写することができません。空間は瞬間でしかないのです。
しかし、僕らが普段、意識化している時間はあまりにも手荒く扱われています。というのも、過去はすでに消え去った古い現在として今はもう存在していないものと考えられているからです。つまり、僕らの普段の意識は「存在すること」を現在中心に見ているのです。
「現在」とは瞬間の異名でもありますから、これは「存在すること」の感覚が空間側へと偏っていることの証でもあります。ですから、僕らが存在の本質に触れるためには、時間に向き合うときの感覚をその根底から変える必要があります。
つまり、「かつて過去があった」と考えるのではなく、「今、過去がある」「今、過去があり続けている」と感じ取らなくてはならないのです。要は、存在とは過去だということです。この過去の深みに向かって自分の根を下ろすこと。それが生命として生きる自分を感じ取るための絶対条件です。
さて、この「あり続けている」自分の中の過去ですが、これは物理学が時間と呼んでいるものの中には存在していないと言っていいと思います。なぜなら、物理的時間は直線的なものであり、その瞬間、瞬間に穿たれる現在としての点時刻はすべて一様に均質的で、どこを切っても金太郎飴状態だからです。
わたしたちの「今=現在」は全く違ったものです。「今=現在」はあり続けている過去をつねに包括しており、そのつど変化、変容していきます。このように時間をイメージしていくと生きているのは現在ではなく、過去だという感覚がわき起こってきます。
こうした過去のことを哲学は即自的過去と呼びますが、わたしたちは過去が存在として生きているこうした即自的過去の場所をありありと描像できるようにならなくてはなりません。わたしたちにおなじみの4次元時空というのは、この即自的過去の上を覆っている薄い薄い皮膜にすぎないのです。
そして、この即自的過去が息づく場所が実は「奥行き」なのです。「奥行き」はわたしたちの即自的過去の現れです。日頃慣れ親しんでいる時空という場所に対して、この即自的過去としての「奥行き」をそのまま幅の無限収縮と見なしましょう。そこに天使として生きる素粒子たちの世界が展開しています。
11月 5 2013
時空から出たくてしようがない老いた幼児の手記
「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためであるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」(ドゥルーズ=ガタリ)。東京オリンピック狂想曲を見ていて浮かんできた言葉。
僕はこうした理不尽な欲望の在り方が、人間が持った「時空」という空間認識の体制に源泉を持っていると考えている。それは同時に言葉の体制とも繋がっているし、科学的理性の体制とも、貨幣万能主義の体制とも深く関係している。アマノジャクな僕としては時空解体作業にますます意欲が湧いてきました。
ヌーソロジーが「時空」を想像的自我の温床として捉えた契機はそもそもOCOT情報にいう「人間型ゲシュタルト」という概念にあったのだが、その考え方は1990年代後半から知った大森哲学や、ベルクソン哲学、さらにはドゥルーズ哲学を横断していってより強固なものとなった。
大森哲学はいう。「われわれの視覚経験は『何が見えているか』、『何を見ているのか』という観点から根本的に二つの答えに分かれる」と。見えているものは3次元の立体だが、見ているものは2次元の平面である。大森哲学はこうした空間認識における二つの分岐を「面体分岐」と呼ぶ。
そして、ここでいう「面」とは主観の原型としての心であり、「体」とは客観の原型としての世界の意味だと。つまり、「心とは見えている世界そのもののことである」と言ってるわけだ。この言明は僕的にはとても重要な示唆なのだが、あまりにザックリとしすぎているせいか、大森さんの弟子たちの誰もこの哲学を継承していないようだ。残念でならない。
OCOT情報は当初、ここで大森哲学のいう「面体分岐」を〈人間の外面〉と〈人間の内面〉という彼独自の言葉で表現してきた。つまり、「人間の外面」は面的であり、「人間の内面」の方は体的であると。そして、それは本来、4次元の双方向から見た3次元の表裏関係であるとも言っていた。
大森哲学は時間を加味していないので、「面対分岐」という素朴な表現になるのだが、OCOTの助けを借りて、四次元の働きを補足するならば、内面は4次元時空であり、外面は3次元射影空間(4次元空間において第四の次元への直交性を一点同一視して3次元空間上の点と見なすということ)といったようなものに化ける。つまり、第四の次元とは、実のところ世界に対する観察の視線を意味しており、その四次元を延長的に見れば時間となり、即自的に見れば「点」としての認識になるといったような意味だ。つまり、大森哲学の「面対分岐」の表現には「観察(認識)」のための第四の次元が割愛されている。
このように、認識の視線を単に4次元方向に見立てるならば、客観的視線と主観的視線の関係は4次元時空と4次元空間とを隔てる第四の次元の計量の符合の違い、という関係になるが、経験上、主観側は自己/他者というように二つに分離している。そこで4次元空間側の認識視線を二つに分離し、二本の虚軸にすれば話の辻褄が合うのではないか、というのがヌーソロジーの発想だった。
しかし、そうなると、もはやわたしたちの主観的な視線は時空上には存在してはいないということになる。では、一体どこにあるというのか——偶然にも、そのような数学的形式で表現できる空間が自然界に厳然と存在している。それがミクロの極小世界にある素粒子空間だったというわけだ。しかし、ここで当然、問題が起こる。主観的視線(虚軸)がなぜミクロに観察されるのかという問題だ。
しかし、これは問題の立て方が本末転倒していることが分かってきた。奥行きは常に射影線(ray)であるのだから、むしろ、量子論的状況(ψであれ、cψであれ同じ状態として扱われる。cは定数)に符合している。大森哲学が見え姿を「面」と呼んだように、本来、奥行は一点同一視されている。この一点同一視された状態そのものが実はダイレクトにミクロ世界になっているなのだと考える方が実は自然な思考だということが分かる。
とは言うものの、この感覚はなかなか腑に落ちない人が多いかもしれない。それが自然に感じないのは、たぶんわれわれが客観的時空という「体」側の思考にことごとく毒されているからである。われわれは今一度、ニーチェように髭のある幼児となって、世界と再対面しなくてはならない。時空は発生論的契機を欠いているのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ニーチェ, ベルクソン, 大森荘蔵, 素粒子