10月 10 2005
「知の欺瞞」
カフェネプでトーラス氏が話題にしていた「ウィングメーカー」を本屋に探しに行ったが見つからず、そのままふらふら科学哲学書のコーナーへ。以前から読まないといけない本としてリストに上げていたアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの書いた「知の欺瞞」を購入。
この「知の欺瞞」は、ヌース理論でもおなじみのドゥルーズ=ガタリ、ラカンを始め、クリステヴァやヴィリリオ、ボードリヤールといったポストモダン思想の論客たちの数理科学的知識の濫用、誤用を、専門の物理学者の立場から手厳しく批判した書として、数年前に欧米や日本で話題になった本である。この本の内容についてはインターネット関連の情報でちょくちょく見かけていたので、レベルはかなり異なるが、同じく数理科学的知識の濫用で、時折、やり玉に上がるヌース理論の展開にとっても無関係とは思えず、それなりに気になっていた本でもあった。
で、読んでみた感想だが、最高に笑える本である。これは言い換えれば「あちら版ト学会もの」だ。ト学会の連中と同じく、ソーカル=ブリクモンのコンビは予想していたほどガチガチの理科系頭ではなく、謙虚で、かつ、ギャグセンスがかなりいかした人物のような印象を持った。性格的には、少なくともラカンよりは好感が持てる。彼らのギャグセンスの精妙さは引用しないと分かってもらえないと思うので、長文になるが少し抜粋させてもらう。
まずはラカンの1960年のセミナーからの引用を挙げ、
このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また、心像としてでもなく、欲求された心像に欠けている部分として、快の享受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現のの欠如の機能、つまり、(-1)に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の享受の、前に述べられた意味作用の√-1と比肩しうるのである。(Lacan 1977b,pp.318-320、佐々木他訳 pp.334-336)
続いてこう記す。
正直にいって、われらが勃起性の器官が√-1と等価などといわれると心穏やかではいられない。映画「スリーパー」の中で脳を再プログラムされそうになって「おれの脳にさわるな、そいつはぼくの二番目にお気に入りの器官なんだ ! 」と抗うウッディ・アレンを思い出させる。
うーむ、かなり洗練されたギャグセンスである。しかし、ただ残念なことに、ソーカルには精神分析一般についての基礎知識が欠如しているように思われる。勃起というとすぐにもろオチンチンを想像するのは致し方ないことではあるが、ラカンがファルス(男根)と言えば、それは言語の機能のことであって、別に、実際のオチンチンのことなんかではない(まぁ、こんなことは知っているかもしれないが)。さらに、どうして言語機能に対してファルスという名称が与えられているかと言えば、そこには、古来よりユダヤ教の中に受け継がれている言葉と神の関係に関する対する深い洞察があるからなのだ。こうしたユダヤ的ロゴスの伝統が分からなければ、ラカンがここで何を語ろうとしているかなど、まず分からない。
ラカンの書く文章は、確かに、その博覧強記も手伝って、謎の呪文のように見えるときもある。しかし、何しろ相手はフロイトとソシュールを結合させた、無意識構造の語り部としては世界最強の達人なのである。それこそ、圧縮や隠喩や換喩はお家芸なのだ。それにここに引用されているセミナーでの講義内容も別に一般人向けに行っているものでもない。あくまでも精神分析に興味持つ生徒たちを相手にしたものだ。故意にナゾかけのように話し、その謎解きはそれぞれの出席者に任せる。そういったスタイルをとったところで何ら不思議はない。ラカン自身、「主人の語り」「大学の語り」「分析家の語り」「ヒステリーの語り」という四種類の言語の在り方を模索している。
その意味で、数学的知識の枠の中のみから、つまり、「大学の語り」の中からのみ、ラカンの数学的知識の濫用を批判してもあまり意味あることではないようにも思える。ドゥルーズ=ガタリもそうだったが、語り方自体、さらには書き方自体の中でも、彼らは自己同一性の解体作業を試みているのだ。科学が啓蒙を旨とする具体的説明の方法をとるのに対し、ポストモダンは啓蒙についてはあまり関心がない。すでに思考が旧い器から溢れているのである。
はてはて、ヌースはどっちの方法論を取るべきか。。未だ迷うところではあるが。ぶつぶつ。
10月 13 2005
φの貨幣
楽天によるTBSの株式買収が世間を騒がせている。ライブドアとフジテレビの時とはパターンは違うが、TBS側の困惑は隠せない。昨日の会見でも、もともと自分たちの縄張りである放送メディアにどうして新参者の青二才が金にものを言わせて首を突っ込んでくるんだ、というムカつきの表情が見て取れた。
新参者は熱意を持って言う。あなたがたの体質はもう古いのですよ。わたしと組めば、もっと儲けられるのだから協力しませんか。しかし、旧体制側はそう簡単には首をタテに振ることはできない。もちろん、そこには彼らの自我防衛が働いているだろうし、放送メディアを構築してきた自負とそれを支えてきた社内史への敬意もあるだろう。しかし、彼らのムカつきの本質はもっとシンプルな感情にあるのではないかと思う。記録された歴史のウラには必ず記録されていない歴史があり、記録された歴史よりも記録されなかった歴史に彼らは価値を感じている。ざっくばらんに言えば、諸先輩と徹夜で討論したこと。同僚たちと飲み屋で夢を語り合ったり、愚痴をこぼし合ったりしたことなどなど、過去のこうした、職場内でのたわいのない日常的な感情のやり取りが、彼らに一つの共同体としてのかけがえのない価値を感じさせているのだ。確かに、そこには金銭には換算できない「聖なる何ものか」がある。しかし、資本の力は、そうした資産表に上がらない、つまり外延量として弾き出すことのできない価値を価値として見なすことはない。たとえ「いっしょうけんめいやりました。」と言っても、「いっしょうけんめい」という想いや行為は消去され、財として何が残ったのかだけが換算されるのだ。資本にとっての価値とは、土地、建物、所有株式、銀行預金、他の資材全般等に付けれられた価格なのだから。こうして、資本の運動の名のもとに「聖なる何ものか」は跡形もなく棄却されて行く。
さて、問題は、こうした資本の力が持ったすべてを一様の数字ではじき出す欲望と、人間が持った情動的な欲望との間に横たわっている相容れないギャップである。この先資本主義がより発展して行けば、このギャップはますます大きくなっていくだろう。これはヌース的に言えば、オリオン(象徴界)とプレアデス(想像界)との間に生まれているギャップにひとしい。いや、より正確に言えば、そのギャップこそが僕らに「心の価値」とか「共同体の価値」とかいったものを生起させているものなのだ。そう、このギャップとはほかでもないシリウス(現実界)のことである。貨幣の力が猛威を振るえば振るうほど、心の中に何か大事なものを失っていく感覚がわき起こり、僕らは真の価値の復活を必要以上に標榜するようになる。しかし、それは容易いことなのだ。単に不在に対して不在を泣き叫ぶだけのことなのだから。オリオンとプレアデスの関係はこうした転倒した愛のかたちのもとに今やSM的な関係にあると考えていい。貨幣は常に勃起し、それによって喪失させられていく価値を嘆くことによって人間は濡れる。全くあほらしい。これでは存在のオナニーじゃないか。確かに、サディストとマゾヒストが出会って恋に落ちれば、それなりの快と幸福はあるだろう。これはこれで一つのバランスの在り方には違いはないのだが、いつまでもSM的な関係で愛し合っていては体が持たない。真の愛を達成するためにはこうした性愛ではなく、別のスタイルの性愛を持たねばならない。
神は真の能動者である。その意味で言えば、人間は無知な受動者だ。神は自らが作り上げた世界を人間に純粋贈与として捧げたはずなのだが、いつの間にか人間に信仰という見返りを要求するようになってしまった。神からの一方的な愛の告白と、愛されるがままで、愛することを能動として返せない人間の愛。しかし、しかしだ。ときに愛される者が突如として愛する者に変貌することがある。そのとき受動的なものは能動的なものに変身するのだ。ラカンはこれを「奇跡」と呼び、そこにあのナゾの記号「φ(ファイ/黄金比)」を置いた。一体どうして愛される者が愛する者へと変容できるのか。それは果実に手を伸ばそうとしたとき、果実側からもまた手が出てわたしをつかもうとするようなものだと——。
奇跡が必要である。地上を這い回る貨幣ではなく、空へと舞い上がるφの貨幣の登場が必要である。そのとき、今まで女とされた大地は男になり、男とされた天空は女になるだろう。女が空からやってくる日は近い。あのゲブとヌートの交わりが始まるのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: オリオン, プレアデス, ラカン, 貨幣, 資本主義