11月 8 2005
広告記事を書くというお仕事
新著のアイデアを練り始めたものの、早速、仕事の方の広告原稿の締め切りが迫ってきた。日常的な作業をやりながら、宇宙や形而上に思いを馳せるのはかなりしんどい。使う脳みそが全く別々だからだ。しかし俗と聖を同等の価値として見ることができなければトランスフォーマーとは言えない。俗にたっぷりと浸かって、聖空間を恋しがり、聖空間の中を思う存分遊び回ったら、今度は生活のために一生懸命汗を流す。こうした振り幅の広い反復があってこそ生きることが輝いてくる、と言いたいところだが、やはり頭の切り替えはなかなかスムーズには運ばない。さて、どのようにこの難所を乗り切るべきか。
現在、わたしが担当しているのは某雑誌に毎月連載している2Pの広告ものだ。ヌーススピリッツでお世話になっている精神科医のS博士へのインタビュー記事を要領よくまとめるのがメインなのだが、インタビュー内容が詰められてないせいもあって、テープに収録された内容はいつも「破壊された器」のような状態である。これらを一字一句書き起こし、S博士の発言意図と会社サイドの広告効果のどちらも損なわないように再構成して編集すること。これはある意味、異なった言語間の翻訳作業に似ている。最近読み出したベンヤミンの影響もあって、わたしはつねづねこうした編集の仕事を「器の再生」の疑似体験として楽しまなければならないと考え始めた。ベンヤミンの翻訳論には次のようにある。
すなわち、ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自分の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのではなくてはならない。
「翻訳者の使命」
ベンヤミンはこうした概念をカバラの「シェビラート・ハ=ケリーム(容器の破壊)」から想起している。自社の広告記事の編集ごときにカバラまで持ち出して来るとは、何とも大げさな話だが、事の本質は外していないはずだ。編集作業を行って常々感じるのは、このベンヤミンの言葉が、翻訳という異国語間のトランスレーションのみならず、自己の語りと他者の語りの間のトランスレーションにおいても十分に言えるのではないかということだ。インタビューでも対談でもよいが、それが一つの記事としてまさに思考の中で編集されようとするとき、そこで話し手と編集者(書き手)の世界は必ずぶつかり合い、ガチャガチャと必ず音を立てて互いの形を触感覚で模索しようとする運動が起こっているのが分かる。結果的に明瞭な意味伝達は、それら両者の凸凹がピタッとはまったときに起こる。この張り合わせが不十分だと、印刷された文字さえもぼけて見えるのだ。そうした奇跡的な接着面の形成は、やはり対岸で呼びかけている他者への愛情がなければ難しい。果たして、わたしに愛はあるのか。。うーむ、難しい問題だ。とにかく、どんな仕事もまた、天上的作業となり得るのだ。フレキシブルになること。
11月 10 2005
バタフライ-エフェクト
広告制作の仕事を終えて、久々のDVD鑑賞。今日は「バタフライ-エフェクト」というやつを選んできた。
タイトルになっている「バタフライ-エフェクト」とというのは、本来は、カオス理論から出た言葉で、初期条件のわずかな違いが挙動の大きな違いを生み,その予測が困難化する現象のことをいう。その法則性を発見した気象学者のローレンツが「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで大竜巻が起こるか?」と講演の中で語ったことから有名になった言葉だ(その変化を図で表すとローレンツ・アトラクターと呼ばれる蝶々の羽のような形になることからの由来とする説もある)。
まあ、タイトルに惹かれてついつい借りて見たのだが、全く先が読めないという意味では、かなり面白い作品だった。ネタバレになるので、ストーリーの詳細は省くが、簡単に言えば、「あのときああしていれば、今はこうだったに違いない」という過去修正もののSFスリラーサスペンスものと思ってもらえばいい。
面白いなと思ったのは、途中、この物語自体の時系列というか、主体軸(語り手の位置)が完全に溶け去ってしまうところだ。過去が変更される度に主人公の現在も大きく様変わりして行く。変更すればするほど、現在は惨憺たるものになっていくのだが。最後の方ではどこが物語の原点としての時系列だったのかがよく分からなくなってしまうのだ。これはなかなかの快感である。。おっと、喋り過ぎ。とにかく、見ている間、一体、このストーリーをどうやって落とすのかが気になってくるのだが、意外にも、なかなか渋めのエンディングだった。個々の細かい部分にはいろいろと文句を言いたい部分もあるが、タイムトラベルもののアイデアとしては極めて斬新。原作者はエライ。DVDで借りて観て損はない作品である。
ヌース的にはどうかというと、もちろんなってない(笑)。時間についてちょっと一言。僕らは、時間を空間と一緒であまりに客体的に見すぎている。もちろん、「今,ここ,永遠」というお決まりのニューエイジ的無時間論もアリだが、そこに一気に跳ぶ前に「主体の秘めたる時間」というものもじっくりイメージしてみるのも面白い。
主体の秘めたる時間。それはささやかな反抗を持っている。というのも、このささやかな歴史の中では、過去は必ず未来からやってくるからだ。何も難しいことを言ってるのではない。たとえば、僕は6歳の頃、日本が戦争で負けたことなど知らなかった。いや、僕が日本人であるということすら知らなかった。僕が使っている言葉が日本語であるということも、そして、父と母が愛し合って僕が生まれたということも知らなかった。日本や父と母との出会いは、この世界に生まれて来た後で知ったのである。このように、主体の時間の中では、過去というものは、必ず未来からやってくる他者によって告げ知らされる。その意味で、歴史というもの、もっと言えば、過去という概念の詳細は、主体の中で開示されていく主体自身の未来の中に育っていくものでもあるのだ。
おそらく、まだ多くの過去がやがてやってくる未来の中で眠っていることだろう。この未来の中に眠る過去が、過去の中に眠る未来と出会うとき、時間は本当の意味で終わりを告げることになる。さぁ、向こうからやってくる一人の美しい女性を見るといい。僕らは、やがて未来のある日に、彼女の過去の全貌を露にすることになるだろう。そうした結ぼれが聖なる結婚というものだ。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 1