11月 23 2005
嗚呼!九州国立博物館
4日間の東京出張を終え、今日は太宰府に新しくできた九州国立博物館へ。いや、何ともデカイ建物だ。案内パンフを見ると、屋根部分は約160m×約80mもあるらしく、それが両端部の支持点と、中央の位置に設けられた2ケ所の支柱だけで支えられている。高さはゆうに10階建てのビルぐらいに相当するだろうか。空間容積は35万立方メートルもあるらしい。
この巨大な宝物殿の設計はご当地(久留米)出身の建築家、菊竹清訓氏によるものだそうだが、外観のデザインが何ともハンパな感じがしないでもない。。。写真でも分かるように、側面の外壁は今流行の全面ダブルスキンのガラスウォール。実は内壁側は竹籠のようにして編み上げられたバンブーで全面が覆い尽くされている。古代九州を象徴する太宰府ということで、プリミティブな感覚を表現したかったのだろうが、これは見事にはずしている。わたしには籐製品の化物にしか見えなかった。バンブーを内壁にあしらったせいで、建物内部からは、ガラスウォールの良さが何も伝わってこない。何とむちゃくちゃ暗いのだ。屋根は完全に遮光されていて、まあ、早い話、竹網で内壁を覆った成田空港のビルを思い出してもらえばよい。どうせこの手の空港ビルを真似るなら、ド・ゴール空港並みにもっとアバンギャルドにとんがって欲しかった。未来的なものと古代的なものを接合させようとして、完全にしくじった、という模範例である。
建物同様、展示物も今ひとつパッとしない。特に常設展示室の方は最悪だった。「美の国 日本」と銘打って様々な時代の工芸品や美術品が展示されているのだけれども、何の脈絡もなくただダラダラとこジャレたショーケースにディスプレイされているだけなのだ。外国の大博物館ならばほとんど十両クラスの扱いしか受けないような品が、ここでは横綱クラスとしてどうどうと展示されている。これじゃデパートの催し物と大した違いはない。ああ、これも九州の為せる業か。
帰りの車の中でつくづく思ったことだが、日本の文化遺産は、こうした巨大な建築物の中で展示して見せるようなスタイルは似合わない。博物館とは所詮、強国による戦利品の見せびらかしのための場所なのだ。諸外国を征服した際に持ち帰った宝物や略奪品が所狭しと飾り立てられてこそ一流の博物館としての風格が出る。だから、国内の細々とした美術工芸品が並べられても何ともピンとこない。こうした「大きいことはいいことだ」風の発想はそろそろ止めよう。仏像はお寺で見る方がよっぽど存在感はあるし、飾り屏風も質素な武家屋敷に置かれてこそ異彩を放つ。巨額の税金を投入して、こんな施設を作るくらいなら、いっそのこと太宰府にあったと言われる都府楼をアジア文化の交流の場の象徴として正確に復元させた方がよっぽど文化的な作業になったのではないかと思う。はっきり言って、この博物館は先行きが危うい。一体これから先何を展示しようというのか。。
11月 25 2005
新羅の金冠
そもそも九州国立博物館に足を運んだのは、慶州の天馬塚古墳から出土した新羅の金冠を見るためだった。わたしの出張中に、うちの奥さんが見に行ってすごかったというので、それならわしも、ということで出かけたのだ。東洋の歴史にはほとんど興味の無いわたしだが、新羅という国だけにはなぜか昔から惹かれる。かつて新羅には「花郎」と呼ばれる青年貴族の部族集団があって、弥勒信仰を持っていたと言われている。仏教における弥勒信仰はミトラ教から来たものだいうのが定説だが、実際、6世紀までの新羅の文化は、漢字も使わず、中国の暦も用いず、茶碗にも把っ手がついていたりと、ローマの影響を色濃く受けている。有名なミトラ教の祭祀である「殺牛祭祀」も行われていたらしい。ミトラ教の話はレクチャーなどでも紹介したが、ローマ帝国がキリスト教化する前の国教で、全盛期は世界宗教と言っていいほどの勢力を誇っていた。映画「グラディエーター」で前帝マルクス・アウレリウスが戦場で祀っていた祭壇もミトラ教のものである。ミトラ教はヘレニズム時代に、シリアやバクトリアなど当時のシルクロード沿いの国々を通って、チベット経由で新羅に達したと考えられる。
まぁ、そんなかんだで、新羅に古代東方世界の叡智がダイレクトに伝わっていても全く不思議ではないのだが、予想通り新羅はなかなかイカしていた。新羅の金冠を見て何に驚いたかと言うと、その形状デザインだ。金冠は樹木の形態をとった丈の長いデザインになっているだが、これが何とルーリア・カバラの「生命の樹」にそっくりではないか。ルーリアが「生命の樹」を表したのは16世紀なので、この金冠にあしらわれた生命樹はそれよりも1000年ほど古いものということになる。しかし、何度見てもそっくりなのだ。ルーリアはここから「生命の樹」のヒントを得たのではないかと思えるほどである。左右方向に3本の柱が立ち、上下方向は4段階に分かれている。そして、それら12箇所の交差場所には翡翠で作られた勾玉がつり下げられ、生命樹のトップには別個に一つの勾玉がはめ込まれている。合計13個だ。勾玉とはセフィラー(セフィロトの単数系)のことだったのか、と一人短絡的にニンマリとしながら、新羅の高度な文化と美意識に思いを馳せた。
私事で何だが、半田家のルーツは出雲だったという話がある。出雲の埴輪作りの血を受け継いでいるというのだ。その後丹波に移り住み、関ヶ原の戦いの後、九州各藩に対する監視的役割として有馬豊氏が徳川から九州に派遣されたときに、ひょこひょことその殿様についてきたというのだ(有馬藩は現在の福岡県久留米市当たりに当たる)。そうした言い伝えもあって、わたし自身は半田家の大本のルーツは新羅から出雲へと渡って来た帰化人ではなかったのかと勝手に想像している。そして、おそらく、あの超エリート集団「花郎」の一員ではなかったのかと。中国や韓国の歴史に何一つ興味のないわたしが、新羅にだけこうも魅了されるのもDNAに深く刻み込まれたその記憶のせいなのだろう。しかし、そうは言っても気になることが一つある。「花郎」はミトラ(幼少の神)を意識してか美男子集団であったとも言われているからだ。うーむ、ここはなかなか直視し難い要素ではある………。そっか!!前世は「花郎」だった、ということにしておこう。ひひ。
By kohsen • 08_文化・芸術 • 0 • Tags: DNA, カバラ, 九州国立博物館