9月 26 2016
物理学の話は人気がないので、もう一度!!
(何事においてもそうだけど、一番大事なことは常に隠蔽され、人々をそこから遠ざけるように人間の体制というものは仕組まれているということ)
持続意識が持った時間的自由度というものにまずは注意を向けてみよう。意識は持続意識の中で過去を想起することもできれば未来も予期(予知ではないよ)することができる。だけど、持続意識だけだったら「いま・ここ」という現在が極めてあやふやなものになってしまう。
そこで意識は「いま・ここ」を固定するために、持続意識の働きを打ち消して潜在化させる仕組みをその内部にセットしている。持続意識は無意識化するということだね。これがヌーソロジーでいう等化と中和の関係のようなものだと思うといい。等化が無意識(持続=非局所)、中和が意識(継起=局所)。
物理学がゲージ理論の中で対称性と呼んでいるものは、この局所性を保証するためのシステムだと考えるといい。局所的U(1)変換対称性であれば、持続意識が時間的に自由に動き回るとき、その動きの中で現在を見失わないように、絶えず意識の位置を現在に戻そうとする働き。そういうものだ。
局所的SU(2)変換になると、その意味で今度は時間領域が二つ出てきて、さらにそれを統一しようとする領域も出てくる。U(1)に対して時間領域の自由度がまぁ3倍になると思えばいい。この三つの自由度が、自己、他者それぞれの主観的時間性、さらには客観的時間性という位相に当たると考えるといい。
この変換が局所的対称性を持つというのは、持続意識がその領域を自由に移動できるのだが、それだけだと統合失調症的状況に陥ってしまうので、それをまた、「いま・ここ」へと戻し、等化を中和に持って行くというイメージだ。
そういえば、NOMI体験のとき、NOMIはこう言ってきた。「今からあなたを霊的世界へと案内しますが、それによってあなたは気が狂ってしまうかもしれません。その危険性を避けるための合言葉を教えておきます。」その合言葉は次のようなものだった(笑)
―いつもいつもとは、いつのことですか―
―はい、それは今のことです―
結局、僕は案内の途中でたびたび繰り返されるこの合言葉に答えられなくなり発狂してしまった(笑)。「現在」とは言ってみれば、人間の意識のアンカーのようなものなのだ。
このアンカーの役割を果たしているのが物理学者たちが言っている局所的ゲージ対称性の本質的意味だと思うといい。標準理論に倣うなら、僕らの持続意識の領域は大別すると、U(1)領域に始まってSU(5)領域まで五つある。その広大な領域を無意識は巡る一方、「いま・ここ」に錨を下ろしてもいるのだ。
これらの対称性を持って力を媒介するとされるボゾンとは、その意味でいうなら、中和側が先行した、僕ら人間の意識を司っている構造そのものの物理学的表現と言えるだろう。
局所的意識が表面に出て、非局所側が潜在的なものとして沈み込む―これが人間の意識の在り方だとすれば、人間の意識の反転というその語義は、非局所的意識が表に出て、今度は逆に局所側が潜在的なものとして沈み込むスタイルを取る。これがOCOT情報のいう「人間の意識の覚醒」というものだ。
物理学的にいうと、これは超対称性変換というものに当たると思われる。ボゾンとフェルミオンの変換対称性である。
ヌーソロジーでいう人間の定質(等化の総体)と性質(中和の総体)の交替化がこれに当たると思うといい。
この作業は、シュタイナー的にいうなら、アストラル体の霊我への変換と言えるだろう。
10月 3 2016
瞬間の中にある永遠が開く時期が迫っている
意識は能動的なものと受動的なものの関係性が作り出している。だから意識の秘密を探るためには能動的なものが活動している場所と受動的なもののそれとをまずは見い出さないと無理。哲学的には持続と延長がその関係になってるのだけど、物理学ではそれが内部空間と時空の関係として表現されている。
人間が能動的なもの(持続)に無頓着なのは、記憶の重要性についてまだ気づいていないからだね。記憶こそ空間の非局所的性質がもたらしているものだよ。かつてのあそこも今ここに同時にある。記憶ってそういうものでしょ。それに対して外的知覚なんてものは一瞬で消え去ってる。ここんとこよく考えて。
外的知覚は幅化した奥行きの空間を通して入ってくるんだけど、それを記憶として保持しているのは持続としての奥行きの空間なんだ。だから、記憶は常に目の前で再現されてくるわけ。目の前に異次元が重なっているんだよ。この異次元がなけりゃ、外界なんて瞬間だけなんだからないも同然でしょ。違う?
そして、この異次元がダイレクトに素粒子と直結しているとしたら、自然界に出現しているすべての物質は実は外界に存在しているものではなく、持続体の運動のもとに段階的に組織化されている精神の歴史の瞬間的幻影ということになるね。鉱物も、植物も、動物も、そして他者も実はそういうものなのさ。
それらを時空上の存在物と見る思考は持続の力を無視した全くの虚構と言っていいんじゃないのかね? 科学的唯物論(素朴実在論)の胡散臭さはまさにそこにあるわけだね。だから、そんなのを常識にしていてはダメ。持続空間を思考していくための影絵のようなものとしてみないとね。
こんな当たり前のことを言うのに、哲学的にいろいろな言い回しを駆使しなくちゃいけないほど、僕らの思考は本当の宇宙的現実からズレているわけ。正気じゃないんだよ。誰もが空間を幅で覆っちゃって、奥行きを見てないから。奥行きこそが僕らの生命が働いている場所だよ。
つまりさ、瞬間の中に畳み込まれている永遠、それが僕らなんだ。これについては過去の神秘家や、宗教者や、哲学者たちがすでに多くを語っている。しかし、まだ僕らはこのパラドックス的共在を知性の域にまで上げれていない。だから人間は死に怯えることになる。死と重複して生きているにもかかわらず、だ。
死を開くためには力強い知性がいる。死を見えるものへと変えていく必要があるのだ。死とは生を経験可能なものにしている永遠の部分だ。そして、この永遠は永遠という別の時間の中で生きている。もちろんそれを魂と呼んでもいいのだが、そう呼んでしまうとその分かりやすさゆえに死は生から遠ざかる。
今までとは全く違った方法でこの死の空間を召喚すること。「奥行き」において空間を思考し世界をそこから再構成していくということは、死の視点から世界を描き直すことに等しい。地図はもうほぼ出来上がっている。あとは、奥行きを虚軸と見なす物理学者たちの決断だけなのだろうと思っている。
おそらく数十年後には現在、素粒子物理が展開しているゲージ対称性の世界は人間の魂の構造として理解される世の中になっているだろう。それが人間世界のすべてを変えていく。それが「次元の方向性がすべて見えるようになる」というOCOT予言の意味でもある。成就の年は2039年とされている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: OCOT情報, 奥行き, 素粒子