11月 25 2005
新羅の金冠
そもそも九州国立博物館に足を運んだのは、慶州の天馬塚古墳から出土した新羅の金冠を見るためだった。わたしの出張中に、うちの奥さんが見に行ってすごかったというので、それならわしも、ということで出かけたのだ。東洋の歴史にはほとんど興味の無いわたしだが、新羅という国だけにはなぜか昔から惹かれる。かつて新羅には「花郎」と呼ばれる青年貴族の部族集団があって、弥勒信仰を持っていたと言われている。仏教における弥勒信仰はミトラ教から来たものだいうのが定説だが、実際、6世紀までの新羅の文化は、漢字も使わず、中国の暦も用いず、茶碗にも把っ手がついていたりと、ローマの影響を色濃く受けている。有名なミトラ教の祭祀である「殺牛祭祀」も行われていたらしい。ミトラ教の話はレクチャーなどでも紹介したが、ローマ帝国がキリスト教化する前の国教で、全盛期は世界宗教と言っていいほどの勢力を誇っていた。映画「グラディエーター」で前帝マルクス・アウレリウスが戦場で祀っていた祭壇もミトラ教のものである。ミトラ教はヘレニズム時代に、シリアやバクトリアなど当時のシルクロード沿いの国々を通って、チベット経由で新羅に達したと考えられる。
まぁ、そんなかんだで、新羅に古代東方世界の叡智がダイレクトに伝わっていても全く不思議ではないのだが、予想通り新羅はなかなかイカしていた。新羅の金冠を見て何に驚いたかと言うと、その形状デザインだ。金冠は樹木の形態をとった丈の長いデザインになっているだが、これが何とルーリア・カバラの「生命の樹」にそっくりではないか。ルーリアが「生命の樹」を表したのは16世紀なので、この金冠にあしらわれた生命樹はそれよりも1000年ほど古いものということになる。しかし、何度見てもそっくりなのだ。ルーリアはここから「生命の樹」のヒントを得たのではないかと思えるほどである。左右方向に3本の柱が立ち、上下方向は4段階に分かれている。そして、それら12箇所の交差場所には翡翠で作られた勾玉がつり下げられ、生命樹のトップには別個に一つの勾玉がはめ込まれている。合計13個だ。勾玉とはセフィラー(セフィロトの単数系)のことだったのか、と一人短絡的にニンマリとしながら、新羅の高度な文化と美意識に思いを馳せた。
私事で何だが、半田家のルーツは出雲だったという話がある。出雲の埴輪作りの血を受け継いでいるというのだ。その後丹波に移り住み、関ヶ原の戦いの後、九州各藩に対する監視的役割として有馬豊氏が徳川から九州に派遣されたときに、ひょこひょことその殿様についてきたというのだ(有馬藩は現在の福岡県久留米市当たりに当たる)。そうした言い伝えもあって、わたし自身は半田家の大本のルーツは新羅から出雲へと渡って来た帰化人ではなかったのかと勝手に想像している。そして、おそらく、あの超エリート集団「花郎」の一員ではなかったのかと。中国や韓国の歴史に何一つ興味のないわたしが、新羅にだけこうも魅了されるのもDNAに深く刻み込まれたその記憶のせいなのだろう。しかし、そうは言っても気になることが一つある。「花郎」はミトラ(幼少の神)を意識してか美男子集団であったとも言われているからだ。うーむ、ここはなかなか直視し難い要素ではある………。そっか!!前世は「花郎」だった、ということにしておこう。ひひ。
11月 28 2005
アートではなく芸術を!!
カフェ・ネプ(ヌースアカデメイアの掲示板)に書いたコメントだったけど、もっと長く書きたくなったので、こっちに移動——日本で芸術という言葉がアートというカタカナ言葉に置き換えられ頻繁に用いられるようになったのはいつ頃からなのだろうか。1960年代のカウンターカルチャー当たりからなのか、それとも70年代の高度成長期における企業のマーケット戦略からなのか、よくは分からない。だが、個人的には芸術とアートには明確な区分をつける必要があると思っている。
以前もブログに書いたが、芸術とは、知覚や情動といった生きる人間に固有の実存的体験、もしくは現実的経験を他者へと伝達、伝播させるための非言語的なコミュニケーションの手段と言える。たとえ文学においてもそこで表現されているのは言語の奥に秘められた非言語的な何物かである。芸術は言語として開示した世界から、再び言語を乗り越えて展開、転回していく人間の無意識の突端に息づく生あるものの顕現であり、それゆえに、芸術それ自身は自然からつねに超出し、自然なるものの始源への回帰を絶えず試みようとする存在の原型的営みである。O・ワイルドは「芸術が自然を模倣するのではなく、自然が芸術を模倣する」とまで言い切った。要は芸術は人間世界に現れた神の欲動なのだ。だからこそ、芸術は宗教や哲学をある意味軽く超えているのだ。いや、そうしたものでなければ所詮、芸術とは呼べない。
果たして、現在、アートと呼ばれているものの現状はどうか?はっきり言って「クソばかり」と言いたい気分はある。クズのような芸術作品を指してジャンク・アートという言葉があるが、実際のところ、アートという呼称自体がジャンクと化した芸術の別称なのだ。その証拠に、小説にしろ、詩にしろ、絵画にしろ、音楽にしろ、現在メディアに送り出されているほとんどの作品がナルシシズムの中に耽溺した自我表現に終始してはいないか。自然回帰も結構。君の物語も結構。抽象も結構。退廃も結構。脱構築も結構。しかし、それは君のごくごく表層で生起している近視眼的風景にすぎない。存在はそう簡単にその本性を見せはしない。もっと潜らなくてはだめだ。自身の生の根っこを全部引き抜いて、その奥で蠢く地下水脈の巨大な流れに触れるのだ。
芸術作品から発せられる光は黄金の輝きを持つものだ。なぜなら黄金のみが唯一、闇を経験した光を持つものだからである。自然の光は人為が及んでいないという意味において闇を知らない。芸術が自然よりも偉大な理由は、それが一度闇を経験し、その闇の中から再び、光の中へと立ち上がる術を心得ているからにほかならない。芸術が黄金的価値を持つ所作であるとすれば、アートは紙幣的価値しか持たない。つまり、それは黄金を偽装する偽金作りなのである。その意味で、アートという言葉は、もはや真の芸術を提供できなくなってしまった作家たちの自己正当化のための逃避のジャンルとも言える。似非錬金術師たちよさらば。アートではなく今こそ芸術を僕らの手に奪回しよう!!
By kohsen • 08_文化・芸術 • 5