12月 23 2005
複素平面と十字架
以前、砂子氏に送っていただいた「波動関数の解釈の解釈」という論文をヌース会議室の方へUPした。→sunako_Meaning_of_wavefunction.pdf
僭越な言い方にはなるが、少なくとも今までわたしが読んだ量子解釈ものの中では、この砂子氏の解釈の切り口はダントツに優れているという感想を持った。というのも、量子存在自体をイデアと目する視座が文面の至る所に見られるからである。
ヌース理論では量子を「見るものと見られるものの間の関係性のカタチ」として常々説明してきた。そして、これからの時代はその関係こそが実在となり、わたしたち自身の思考対象となるのだと。見るもの=主体、見られるもの=客体として簡略化すれば、この〈主体/客体〉間の関係性自体を、まさに見るものとして見るような新しい主体性が登場してくることになる。それはわたしたちの歴史を今まで支配してきたようなマクロの視座を持つ巨大な主体とは違う。ミクロもマクロも同等に見る視座を持つ未知の異邦の生き物である。それは常に流動的な知性を携え、あらゆる存在者へと自らの身体を変身させていくことのできるような主体性である。神学的に言えば聖霊ということになろうか。ヌース理論が「トランスフォーマー」と呼ぶものもこうした聖霊体のことだ。
ヌース理論は稚拙な表現ながらも、常に量子解釈の問題を最重要課題としてきた。それはなぜか。理由は簡単だ。量子構造そのものの中に、特にその種子である光子構造の中に創造のαとωの連結する場があると直感しているからに他ならない。創造のω(オメガ)はマクロ空間に記され、α(アルファ)はミクロ空間に記される。ωとαが存在の円環の継ぎ目として結節しているとするならば、このωとαの間には最短と最長という二種類の測地線が存在することになる。最短は深淵、最長は実在と呼ばれる。人間は創造を知らないがゆえに、創造のすべてをその最短の測地線の中でしか見ることができない。そこではマクロとミクロは融和を果すことが出来ない。それが重力と他の3つの力との統合を難しいものにしている真の原因なのだ。最長の側にある測地線を見出すこと。すなわち、ミクロとマクロの間にある本当の距離を見出すこと。そこにはβ(ベータ)〜ψ(プサイ)という神名としての23文字が並んでいる。その文字列こそが楽園の異名となるわけだ。
その意味で、「ω」を楽園への扉の鍵だとすれば、「α」とはその鍵穴となるものでもあるだろう。ヌース理論は、この接合箇所に神と人間という関係、さらには汝と我という対化関係の本性を見るわけだが、当然のことながら、このωとαはその二重性故にともに双子でなければならない。現代物理学を支配する複素平面上に描かれる十字架とは、実のところ、それら双子の神存在と人間存在の間における未来永劫にわたる絆を表す徴表(しるし)なのだ。
砂子氏が論文の中で語っている対象(表現)と観測(知覚)との相互関係は、このωとαの結節に深く関わっている。言葉が分かりにくければ、客体世界(物質)と主体世界(精神)の一致と言い換えてもいい。あるいはヌース理論風に人間の内面と外面の等化と表現しても構わない。存在の雄性と雌性が融合を図る聖婚の祭壇。わたしたちはその未知なるゾーンへと今や侵入を果しつつある。楽園の扉は開きつつあるのだ。
くしくも、砂子氏はM・ポンティの「意味の意味は存在である」という言葉の転用から「量子解釈の解釈は量子の存在である」と語った。全く言い得て妙である。一体、量子とは何であるのか——われわれの思考がその意味の輪郭を描けたときにこそ、まさに、その輪郭は量子存在そのものとなる。思考がそのまま実在へと転化していく奇蹟。プラトンはこうした奇蹟に永遠不滅の称号を与え、それを「イデア」と呼んだ。プラトンの血を引くプロティノスの発出論においては、神たる「一者」は「純光」に喩えられる。存在の運動が「純光」へと至ったとき、その純光は地上世界にヌースの灯を点火させる。ここに個別の能動知性が発動するのだ。この能動知性こそが光本来の光、すなわち複素平面上の十字架の建立なのである。とにもかくにも、イデアの顕現は近い。
12月 25 2005
亡国のイージス
「亡国のイージス」という日本映画をDVDで観る。うぅぅぅ………絶句。この映画の内容についてはもう何も言う気がおこらない。聞くところによれば、原作者の福井晴敏氏には若い世代に熱狂的なファンがいるという。小林よしのり氏の「戦争論」にしてもそうだが、あの9.11の事件以降、日本にも実にキナ臭い言論が増えてきた。イラクへの自衛隊派遣。平然と進む憲法改正論議。国家意識の希薄を自分ごとのように嘆く国家マニアの連中は、今の軟派な国状がよほど気に入らないらしい。
わたしは日本語しか話せないコテコテの日本人だが、日本国民としての自覚はほとんどと言っていいほどない。もちろんご先祖様や日本人が築いてきた文化には心から敬意を払うが、日本という国家にはケツを向ける。日本人と日本という近代国家は別物だ。平和ボケ日本。国歌斉唱、国旗掲揚もままならない学校教育。結構なことじゃないか。こうした日向ぼっこのような平和を獲得するために皆一生懸命働いてきたんだろうから。人と人が殺し合う世界よりはいくらかはマシだろう。この際だから、この平和ボケの余勢をかって、国歌も国旗も全面リニューアルして太陽系歌、太陽系旗を日本人の手で作ったらどうだろうか。そして、あらゆる行事でその歌を歌い、その旗を振るのだ(できれは「てのひらに太陽を」のようなメロと歌詞がいい)。これは間違いなく世界規模のニュースになる。ボケボケ日本人。ついに末期症状か!!ってね。そうすれば、韓国も中国も少しは気の毒に思ってくれるかもしれない。
なぜ、国家にはケツを向けるのか。理由は簡単だ。国家は個体化を疎外するものだからだ。どのような大義、名目があろうと国家権力による統治は人間の抑圧を生む。国家主体とは個体主体を生み出すための原器ではあっても、決してそれらを再統合させるための役割を持つものではない。国家主体とは、個体主体に成りきれない、つまり、個体化への中途段階にある意識を保護する役目がその本来の仕事ではないのか。個体同士における本当の絆は市民的生活の中にあるのであって、政治的生活の中になどない。また、国家はその市民的生活を守るためのものではあっても、決して統括すべきものではない。
バクーニンやマルクスといったかつてのアナーキストたちは、国家を「おめでたい痴呆状態の画一化」として定義していた。国家は自由と能動と独立心を疎外する。国家民主主義もまたしかり。完成された真の民主制においては国家などは必要ない。だから、政治家や政党が口走る「日本国の民主主義」などといった言葉を決して信じてはいけない。民主主義とは個体化の宣言なのだ。議会制度もまったく同じである。それこそ「痴呆状態の画一化」のいい見本となっているじゃないか。時はすでに21世紀。そろそろ国家という幻想から離れたいものだ。となると、目指すべきは「霊性の道における和合」ということになるのだろうが、残念なことにスピリチュアルな世界にも国粋主義者を宣言してはばからない連中がたくさんいる。霊と国家が結びつくとロクなことはない。かつての日本国然り。ドイツ国しかり。今のアメリカ国だってある意味そうだ。旧い父の呪いはどの国家にも及んでいる。それは国家自体が旧い父の亡霊だからだ。いい加減で旧い父には勇退してもらいたい。——お父さん、さようなら。
この映画の冒頭で、「イージス」とはギリシア神話に出てくる無敵の盾のことであるというナレーションが入る。この盾とは、元々はゼウスがアテナに与えたものである。アテナとは芸術と建築と聖戦の女神でもあり、その語彙そのものは「自ら生まれ出し者」の意だ。要は「イージス」とは、個体化からやがては存在自身の母胎へと回帰していく魂に与えられた知の盾なのである。決して国家を守るための盾などではない。むしろ国家を消滅させていくための戦いにおいて用いられる盾だ。真の意味での「亡国のイージス」とは何か。僕らはもっと思慮深く考えるべきだ。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 1