12月 8 2005
Doo bee night
実は、前回紹介したデモ・テープだが、このテープはエバシラという相棒抜きでは存在しなかった。彼はわたしのソングライティングのパートナーであり、このデモテープ計画のプロデューサー兼スポンサーでもあった。エバシラは当時,まだ高校2年生。ニキビづらのあどけない17歳の少年である。ヤツとの出会いは今思い出しても、実に衝撃的だった。いつも行くスタジオに顔を出すと、ビートルズの「マーサ・マイ・ディア」を弾いている小柄なガキがいる。おっ、フルコピじゃん。
「君、ビートルズが好きなんだ?」
「好きっすよ。全曲できます。」
「じゃあ、何か弾いてみて。」
すると、いきなり、カム・トゥゲザーが始まった。驚いたのはそのままアビー・ロードのアルバム全曲を最後まで弾いちまいやがったことだ。それもコードを叩くだけでなく、ポールのベースラインをすべてフルコピーして左手で弾いちまいやがった。何やこいつ。。空いた口が塞がらなかった。これだけで驚いちゃいけない。たった17歳のガキである。そのガキがプログレだろうが、R&Bだろうが、モータウンであろうが、50年代のロックンロールであろうが、UKメインストリームだろうが、パンクだろうが、日本のロック全般だろうが、挙げ句の果ては歌謡曲だろうが、全ジャンルにわたって聴き込んでいたことだ。いや、聴いていただけじゃく、片っ端からコピーしまくっていたのだ。こんなやつ、プロにだっておらんだろう。
ハイセンスなポップ音楽をやりたかったわたしとエバシラは意気投合し、ソングライティングのコンビを組んだ。「おまえがポールでオレがジョンね」とか勝手にほざいていたのだが、最初に二人に与えられた課題は、ティーンズ向けの楽しいノリノリのナンバーを作ることだった。ライブのときにオープニングで一発ブチかます曲が必要だったのである。派手な曲でポップセンスを出すのはムチャクチャ難しい。できれば、モット・ザ・フープルかウィングス、ELO当たりのテイストが出れば最高なのだが、と若気の至りとはいえ空恐ろしいことを考えていた(笑)。案の定、作業は難航した。
イントロとAパターンのリフはわたしが以前から作っていたパーツを使うことに。しかし、問題はサビだ。なかなかいいコード進行が出てこない。そんなとき、奴が「半田さん、これどうですか?」と言って、ピアノの鍵盤を叩きながら、Come on ! Como on ! と歌い出した。決定的だった。
わたしのアイデアで、途中、ビートルズをもっとパロちゃおうぜ!!ということになり、イントロはBack in the U.S.S.R風に飛行機の着陸音を、サビの部分は「Magical mystery tour」の歌詞を無理矢理入れこんでみた。それがバッチリはまり、今度はエバシラがそれに即座に反応。「生っぽくやるとダサイっすよ。それなら、レスリー・スピーカーを使ってサイケに行きましょう、あと、シンセでラッパも入れましょう」 うーむ、こいつはジョージ・マーティンか。スタジオにハモンドオルガンがおいてあったので、ボーカルのマイクを無理矢理そやつにぶちこむことに。あわわ、スタジオの人が怒り出しちゃって、もう無茶苦茶である。しかし、この奇策が見事に成功。曲名のDoo Bee Night(クスリでギンギンの夜)にふさわしく、キラキラした感覚の、小気味よい、かつ、スケールの大きな楽曲に仕上がった。
今頃、エバシラはどうしているだろうか。今考えれば、この50年近い人生の中でわたしが最も影響を受けた人物はヤツだ。ヤツがいなかったらヌース理論もなかった。ヤツとの変わらぬフレンドシップに乾杯。くしくも今日は、わしら二人の永遠のアイドル、ジョン・レノンの命日。この思い出の曲を公開するにふさわしい。(バンドのメンバーにも感謝)
Doo Bee Night (1980)
(Music by Y, Ebashira & Hironobu Handa、Words by Y, Ebashira &Hironobu Handa)
この曲はできればボリュームフルで聴いて下さい(笑)。
試聴されたい方はココをクリック→Doo_bee_night
12月 10 2005
汝、我、物
さて、いつまでも昔の思い出に浸ってるわけにはいかない。今年一杯に新しい本の企画書をあげなくてはならないからだ。曲作りのときもそうだったが、わたしは本を書くときはまず最初に全体のグランドデザインをじっくりと練ることにしている。もちろん、書き始めてから,途中、その構成プランが変更を余儀なくされることもあるのだが、いずれにせよ、構成という問題はわたしの表現活動にとっては生命線のようなものである。
——新しい本では何をやるべきか。焦点はすでに一つに絞られている。現時点でのヌース理論の体系をできるだけ簡潔に読者に伝えること。これである。ヌース理論の根本は霊的構造を高次元の空間構造として説明することにあるので、当然のことながら高次元空間なるものを2次元という紙媒体を通じて表現しなければならないわけだから、かなり大変である。サイト上でいろいろと試行してきてみたが、やはりまだまだ強度が足りない。強度とは感覚に訴えるものであるから、自らの感覚が体験していなければその伝達は絶対に不可能だ。
ヌース理論は、「理論」と名のつく範囲では、確かに宇宙構造を観照し対象として俯瞰するものだが、頭で「あっ、なるほど、ペンターブ・システムとして拡張していく空間に秘められた対称性の構造が、〈見る〉というモナドとしての基底空間に折り畳まれていることによって、この物質世界が現象化しているわけね。」と頭だけで納得したところで、その真の醍醐味を味わうことはできない。何より重要なことは、理論が展開している無意識構造の内部そのもの中に自らの身体を投げ入れることができるかどうかがカギになる。無意識構造の中に広がる風景を読者に文字度通り一種の身体感覚として「腑に落ち」させなければいけないわけだ。だから、数学や物理の知識は必ずしも必要ではない。宇宙創造の行為においては、ロゴス(論理形式)はあくまでも予習の役割しか持たないのであって、本質は、そうした論理のルーツと目されるイデアを自らの身体として再現させることにあるからだ。このイデア形成の母胎となるものが「汝と我」という、いわゆる「対化」の関係である。
哲学でこの「汝と我」の実存的関係に深く言及していくものは極めて少ない。わたしが知る限りレヴィナスとブーバーぐらいのものである。ヌース理論もまた彼らの哲学同様、「汝と我」がいなければ何も始まらない。知覚もない。概念もない、一切の物理現象も存在しない。もちろん数も幾何学も存在しない。「我と汝」とは、そのような「根源的2なるもの=線なるもの=磁場なるもの」として解釈されなければならないのだ。それは、いわば神にとっての「二つ」と言っていい。
天上と地上とそれら両者を媒介する中間領域。ヌースではこの三者関係をオリオン、プレアデス、シリウスと呼んでいるが、何のことはない、これらは、汝、我、物のことに他ならない。われわれが神的なものへと変身を遂げるためには、まずは「我」を獲得し、そこから「物」自体へと至り、そこを突抜け彼岸たる「汝」の世界へと入ることが必要である。秘教的なもののすべては、この3段階のプロセスの中に集約されている。そのルートを一つの身体感覚として明確に読者に追体験させることができれば、次回の執筆は成功と言えるだろう。しつこいかもしれないが、あなたとわたしともの。。この三つの観念としての支点からすべての創造が始まるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: オリオン, プレアデス, モナド, レヴィナス, ロゴス