1月 6 2006
ポスト・ヒューマンボディーズ
NHK衛星放送で立花隆最前線報告「サイボーグ技術が人類を変える」という番組をやっていた。去年放映された番組の再放映である。カフェ・ネプの方でも話題になっていたやつだ。第一話は「人体と機械の融合」、第二話は「脳をどこまで変えるのか」というタイトル。昨日と今日の二日にわたって興味津々でTVを見た。
第一話では、落雷事故で両腕を失った男性に装着された人工の腕や、病気で完全に視力を失ってしまった女性が人工の眼で光を取り戻す様子が紹介されていた。身体の一部を機械で代替するいわゆるサイボーグ技術は、一昔前ならSFの世界の話だったのだろうが、近年のITとロボット技術の驚異的な進歩もあって、ここ4〜5年で突然変異的な発展を遂げてきているらしい。こうした技術が今、現実にあるということに想像していた以上の驚愕が走った。
第二話はある意味もっとすごかった。こちらは身体改造ではなく、意識改造である。脳への電気刺激によるメンタルマニュピレーション、感情操作技術の紹介だっだ。番組ではうつ病患者の脳に電極を埋め込み、そこに微弱な電流を流すことによって悲しみの感情を抑制する現場が紹介された。研究者の話では、近い将来は、神経強迫症、統合失調症といった精神病の治療のみならず、食欲中枢やその他の感情中枢への適用も可能になるだろうということだった。cg25——それが悲しみの中枢の登録名である。
コンピューターが登場してきた時点で、身体と機械の境界が曖昧になっていくことは予想していたが、ブレイン-マシン・インターフェイスのテクノロジーがこれほど早く実現しようとは。。しかも、この分野にはおそらく軍事技術への応用を先頭に豊富な研究資金が流入してきているはずだ。今後の進歩は分刻みと言っても大げさではない。立花隆はこういった一連の技術を目の当たりにして、それを「人間の進化」と言っていたが、確かにそれは今までの人間のイメージを劇的に変化させる事件には違いない。
人間主体はいままで宗教、哲学、思想など、いうなれば人間の中に組み込まれたソフトウェアが人間を変えるものだと信じてきた。しかし、この番組を見る限り、ソフトウェアの進化に見切りをつけ、ハードウェア自体を別のものに入れ替えようとしているように思える。この先にあるのはやはり身体、総入れ替えの技術なのだろうか。身体と機械の境界をまずは曖昧にし、それから一気に機械的身体への変身を図る——ポストヒューマンボディーズ。未来社会はクローン人間とサイボーグが二大種族としてこの地球上を闊歩する。そんな破局的イメージが脳裏をかすめる。
番組の中でも多少触れられていたが、こうなるとますますわたしたちの心の在処が問題となってくるのは必至だ。身体脳と心の脳とは言うものの、心は本当に脳の中にあるのか?いや、もっと別の表現で言い換えよう。未来は本当に脳の中にあるのか?いや、そもそも、こんな世界の実現が本当に未来と呼べるものなのか?人類まるごと、揃って存在の外部へ出ようとしてなはる。。こんな恐ろしい世界、うち、はっきり言って、ようつき合わんて。
1月 8 2006
本日閉店
どうしても深夜に現金が入り用になって、近くのコンビニに現金を下ろしに行く。キャッシュデリバリーにカードを入れたはいいものの、画面にどでかく「お取り扱いできません」という表示が出る。何ぃ〜!! どうやらわたしが使用している銀行口座はローカルなので、大手都市銀行とは違って、取り扱い時間が限定されているらしい。N銀よ、君は一体何をやっているんだ!!とここで罵ってもお金が出てくるわけではない。寒風吹きすさむ中、とぼとぼと肩を落として淋しく引き上げた。
文明依存症。便利な要素が増えてくればくるほど不満が募るという悪循環。資本主義経済とはまさに人間をそういう生き物ににする挙国一致体制である。即甘経験-あなたもわたしもポッキー。出会い系サイトでセフレ作って即エッチ。クリック一つでお買い物。おまけにポイントも付きますよ。。生きることの効率をよりよくテンポを上げさせているかのようには見えるが、実際のところ、人間を衝動性という檻の中に閉じ込めて行く現代資本主義社会。ここには刺激-反応という条件反射による反復活動しかない。論より証拠。ためのない会話。長続きしない商品。しなりのない人間。それゆえに爆発できない文化。
脳には報酬系という分泌機能がある。苦痛に耐えていると「よく我慢しましたね」ということで、苦痛を和らげる物質が脳内に分泌されるのだ。ご存知、エンドルフィンやセロトニンである。苦痛は精神落下による位置エネルギーの減少によるその差異が引き起こすもので、脳内物質とはこうした差異を無効にする引き戻しの作用を持つ。要は一つの変換なわけだ。この変換の上昇力が人間には快感と感じるわけで、快感自体が精神に何らかの新しい価値、つまり、精神をよりよきものにするための力を与えているわけでは決してない。その意味で言えば幸福とは人間のイニシャライズ化であり、その初期状態を保つことが人間の幸福の指標なのである。それは誰しも子供時代の無垢を思い出して見ればすぐに分かる。
こう考えると、人生とは−1と0との間の限りない反復のようにも見えてくる。何者も+側への侵入を禁ず——まずはこのことをしっかりと自覚したい。人間はつねに−1という苦痛を背負って生きる。幸福とは0への引き戻し作用としてある。これは常識だ。よって、つかのまの幸福感を得るためには苦痛の中へとを自らもって飛び込む必要がある。苦悩や苦痛から逃避している限り、幸福をもたらすセロトニンは分泌されない。もし逆に、−1が常に0を求めて動けば、つまりセロトニンの取得だけを目的として生きるなら、再び−1に引き戻されるのがオチだ。下がる力には上がる力。上がる力には下がる力。それが宇宙のコントロールというものだから。幸福を求めると苦痛が増すという悪循環もそのからくりからくる。一億総幸福中毒症。先進国社会とはそういうものたちで埋め尽くされた巨大病棟だ。
セレブに憧れるのも糞。下流社会におびえるのも糞。下流なら下流でいい。徹底して下流でいい。運良く上流なら上流でもいい。そんなこと知ったことか。真の重荷を背負おうことはそういうこととは全く関係ない。要はこの反復を重荷と感じること。やがて到来するであろう精神の0と+1の間の反復活動に適応する新しい身体は、おそらくこの重荷に対する反発力として登場してくる。徹底して堕ちろ。そして徹底して上がれ。その間の反復運動の加速度に気持ち悪くなったやつが勝ちだ!!
By kohsen • 10_その他 • 1