1月 15 2006
有頂天ホテル
昨日は息抜きに街に出た。「有頂天ホテル」という映画を観賞。2〜3ケ月前に「笑いの大学」という作品をDVDで観て、日本映画界にもしっかりした脚本家がいるんだなぁと思っていたら、何とこの人、今や超売れっ子の三谷幸喜さんだということ。で、三谷さんの新作が封切られるというので、昨夜の観劇とあいなったわけである。
わたしはいつも映画館に足を運ぶのはナイトショーなのだが、今回は1800円の正規料金を出しての入場。つまらんかったら映画館のシートにはなくそでも付けて帰ってこようと思ったが(失礼)、幸い作品は素晴らしく他人に迷惑をかけずに済んだ。三谷幸喜という監督さん、好きなジャンルではないが、とても才能があるんだなぁ。と改めて感心した。ポスト伊丹十三候補だな、こりゃ。
この映画、普通の日本映画と違うのはカメラがよく動くこと動くこと。それも長回しのシーンがやたら多いということ。ワンカットワンカットが長く、その上、ストーリーの流れの中でいろいろな登場人物が絡み合うので、役者さんたちにかなりの緊張感が漂っているのが分かる。しかし、そのテンションが作品全体にピカピカした艶を与え、それぞれの役者さんたちの演技にもとてもいい影響を与えているように思えた。ただ、ウェイター役の川平慈英だけがチト力み過ぎ。普段から力んでいるキャラなのに余計力むものだから、台詞がカラ回りしていて芝居の流れにうまく乗れていない。でも、後の俳優さんたちの演技はおおむねみんなよかった。脚本や演出がいいとほんと役者も皆よく見える。役所広司は言うまでもないが、大物演歌歌手の役をやった西田敏行の存在感が結構すごかった。わぁ、こいつ、うまいわ。。登場して来て、台詞の第一声だけでそれが分かる。あと、オダギリジョー。いい味出してます。随分と笑わせていただきました。
この作品は、あるホテルの大晦日の夜の数時間の出来事をコミカルタッチに描いたものだが、ほぼリアルタイムで23人の登場人物をめぐる物語がメリーゴーラウンド方式で展開されていく。様々なシーンにきめ細やかな伏線がほどこされており、こんな凝った構成は日本映画には本当に珍しい。三谷談によれば、かの米映画の名作「グランド・ホテル」を下じきにしたというが、テンポの早さとパースペクティブの切り替えの手法は、わたしの好きなポール・T・アンダーソンの「マグノリア」にヒントを得たのではないかと思われる。あと大ヒットTVドラマ「24」も少し入ってるかもしれない。23人の登場人物、誰が主人公というわけでもない。一人一人がすべて主人公であり、また脇役でもあるような、まさにモナドロジー・ムービーと呼べる作品である。欲を言えば、最後に何か仕掛けが欲しかった。画面のテンションが最後まで張りつめているので、あっと驚くようなドンデン返しがエンディングにあったならば、作品終映後ももっと余韻が残ったかもしれない。しかし、しかし、よく作ったものだ。。劇場にまた足を運びたくなるようなパトス的磁力に溢れたコメディ作品である。何はともあれ、日本映画が好きな方は是非、ご覧あれ。
1月 17 2006
無限遠の劇場
ヌース理論が展開する世界観の第一歩は「自分が無限遠点にいる」というものである。以前、レクチャーの時に自分が無限遠点にいるのであれば、世界はすべて0の大きさになって消えてしまうじゃないか、という素朴な質問を受けたことがあった。多くの人が誤解しがちだが、無限遠点とは何もムチャクチャ遠いところにある場所のことではない。そういった遠ざかりの想像は永遠に進んでも有限の遠さであって無限遠に到達することとは何の関係もない。無限遠とは世界に直立することのできる位置のことだ。
思えば、もう20年ほど前のことだ。わたしを襲った突然の疑問、それは「わたしは動かずに、なぜモノの全表面を見ることができるのか?」という疑問だった。目の前で対象をグルグルといろいろな方向に回転させる。わたしの位置をもし点として考えてよいのならば、この回転によって見えている対象の表面は内部/外部を反転させて、わたしを中心点とする球体を作っているのではないか。一体、その反転した空間とはどこにあるのか——。今考えればほんとうに拙い疑問だが、この素朴な疑問がヌース理論の出発点でもあった。
今はおかげさまでこの疑問にはっきりと答えられる。無限遠点とは対象の背景空間そのものである。そして、それは別名、視野空間と呼ばれるものである。そして、それを中心とした回転とは他者が見ている回転である——と。主体は他者の視座に身を明け渡し、この視野空間に不在の斜線を引く。鏡像交換という人間には避けて通ることのできない掟によって、人間は誰もが目を潰されるのである。ラカンのいう空虚な穴。それは僕の目、そして君の目のことだ。
対象を「図」とすれば無限遠点は「地」だ。だが、この「地」は、なぜか今まで誰にも省みられずにいた。表象を追いかけることに精一杯で、その表象を浮かび上がらせている背後の空としての「脱-表象」を表象として見る者は誰もいなかったのだ。存在者から存在への飛躍。そこにも間をつなぐこの女の場は省みられることはなかった。見捨てられた女、もしくは、現れることのない花嫁。
奥行きを持って彼の女を見れば、それははるか宇宙の彼方に想像されようが、あるがままにそれを見れば、それは今、此処そのものにある薄膜である。無限遠とは、表裏が一体となった、あのデュシャンが語ったアンフラマンスとして、今ここにある。
脱-表象の思考——それは視野空間の中に映る諸々の「もの」たちではなく、視野空間そのものを対象とすることによって生まれてくる天使的思考だ。そう、それは無限遠点を対象として見ることによって初めて可能となる。「わたし=人間」にまつわるすべてのドラマはこの神秘のヴェール上で起こってきたわけだが、そろそろこの悲喜こもごもに賑わう仮面舞踏会も幕引きの時間とあいなるだろう。まずは、僕が後ろへ一歩後退すること。そして、次に君が一歩退くこと。そして、今度は二人一緒に二歩目の撤退を。それだけで世界はてんやわんやの大騒ぎになるはずだ。そう、だからステップを踏もう。ワルツのように軽い足取りで。そう、あのダンカンの踊りのように。。
やがて君と僕はこの撤退の身振りによって、君と僕が一体誰であったのかということを知ることになる。視野空間の中の世界は相も変わらず口パクの喧噪で溢れているが、何も心配することはない。まもなく襞のカーテンは開かれ、とびっきりの演目が始まることになるのだから。
selention〜,selention〜. 皆さん、ご静粛に。当劇場ではもう口パクは必要ありません。場内では目で話し、目で聴くこと。それが慣例です。さぁ、この類い稀なる新しい舞踏をご覧あれ。selention〜,selention〜.
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ラカン, 無限遠