1月 8 2006
本日閉店
どうしても深夜に現金が入り用になって、近くのコンビニに現金を下ろしに行く。キャッシュデリバリーにカードを入れたはいいものの、画面にどでかく「お取り扱いできません」という表示が出る。何ぃ〜!! どうやらわたしが使用している銀行口座はローカルなので、大手都市銀行とは違って、取り扱い時間が限定されているらしい。N銀よ、君は一体何をやっているんだ!!とここで罵ってもお金が出てくるわけではない。寒風吹きすさむ中、とぼとぼと肩を落として淋しく引き上げた。
文明依存症。便利な要素が増えてくればくるほど不満が募るという悪循環。資本主義経済とはまさに人間をそういう生き物ににする挙国一致体制である。即甘経験-あなたもわたしもポッキー。出会い系サイトでセフレ作って即エッチ。クリック一つでお買い物。おまけにポイントも付きますよ。。生きることの効率をよりよくテンポを上げさせているかのようには見えるが、実際のところ、人間を衝動性という檻の中に閉じ込めて行く現代資本主義社会。ここには刺激-反応という条件反射による反復活動しかない。論より証拠。ためのない会話。長続きしない商品。しなりのない人間。それゆえに爆発できない文化。
脳には報酬系という分泌機能がある。苦痛に耐えていると「よく我慢しましたね」ということで、苦痛を和らげる物質が脳内に分泌されるのだ。ご存知、エンドルフィンやセロトニンである。苦痛は精神落下による位置エネルギーの減少によるその差異が引き起こすもので、脳内物質とはこうした差異を無効にする引き戻しの作用を持つ。要は一つの変換なわけだ。この変換の上昇力が人間には快感と感じるわけで、快感自体が精神に何らかの新しい価値、つまり、精神をよりよきものにするための力を与えているわけでは決してない。その意味で言えば幸福とは人間のイニシャライズ化であり、その初期状態を保つことが人間の幸福の指標なのである。それは誰しも子供時代の無垢を思い出して見ればすぐに分かる。
こう考えると、人生とは−1と0との間の限りない反復のようにも見えてくる。何者も+側への侵入を禁ず——まずはこのことをしっかりと自覚したい。人間はつねに−1という苦痛を背負って生きる。幸福とは0への引き戻し作用としてある。これは常識だ。よって、つかのまの幸福感を得るためには苦痛の中へとを自らもって飛び込む必要がある。苦悩や苦痛から逃避している限り、幸福をもたらすセロトニンは分泌されない。もし逆に、−1が常に0を求めて動けば、つまりセロトニンの取得だけを目的として生きるなら、再び−1に引き戻されるのがオチだ。下がる力には上がる力。上がる力には下がる力。それが宇宙のコントロールというものだから。幸福を求めると苦痛が増すという悪循環もそのからくりからくる。一億総幸福中毒症。先進国社会とはそういうものたちで埋め尽くされた巨大病棟だ。
セレブに憧れるのも糞。下流社会におびえるのも糞。下流なら下流でいい。徹底して下流でいい。運良く上流なら上流でもいい。そんなこと知ったことか。真の重荷を背負おうことはそういうこととは全く関係ない。要はこの反復を重荷と感じること。やがて到来するであろう精神の0と+1の間の反復活動に適応する新しい身体は、おそらくこの重荷に対する反発力として登場してくる。徹底して堕ちろ。そして徹底して上がれ。その間の反復運動の加速度に気持ち悪くなったやつが勝ちだ!!
1月 10 2006
死の哲学
久々にいい本を読んだ。哲学の本なので晦渋な表現が多いが、狼のパワーとダンディズムがある。江川隆男著「死の哲学」(河出書房新社)。帯にはスピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリらが渦巻く大地からうまれた衝撃の〈実践哲学〉とある。一口で言えば、死を実践すること——これがこの本のテーマである。いかにもわたし好みの本なのだが、本当にいいことがたくさん書いてあるので、ヌース理論の裏本として硬派の読者におすすめしたい。
江川氏自身はドゥルーズの研究者らしいが、たぶんドゥルーズよりも、ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」で盛んに引用していたA・アルトーにかなり傾倒しているのではあるまいか。友人である河村悟もそうだったが、アルトー好きの人には近寄り難い不気味な迫力が漂っている。この人の文体にも同じような圧を感じる。死を生きること。死しても尚、器官なき身体として生きること。彼らの口からは、霊魂などといった甘っちょろい夢想的な語句は決して出て来ない。死は一つの身体を持っている。それは少なくとも宗教者が口にするようなふわふわとした正体不明の何物かなどではない。それは今在るこの生の身体の今在る分身でもある。その分身を死を生きることによって我がものとしていくこと。死後の世界は同時にここにあり、それを自らの欲望によって、生きながらにしてここに顕現させること。それが死の実践哲学の内実である。
しかし、「死を生きる」とは具体的にどういうことなのか?それは仏教の修行僧のように煩悩を絶って心を空にして生きることでもないだろう。また、ユダヤ教徒のある一派のように徹底したストイシズムを貫いて生きることでもないはずだ。死後の魂のためにこの世で善行を積むなどというのは言語道断、それは信仰心を持って世界に臨むことなどでは決してないのだ。
——潜在的なものの変形。非物体的なものの変形。別の身体との接続。否定なき無能力。。。作者は「生きる死」をこうした様々なタームで綴っていく。それがドゥルーズ風のイデアを語っているのは明らかなのだが、他のドゥルーズ解説者の言葉よりも艶かしく、より強度を持って心に響く。力強さと流麗さを持った秀逸な文体である。とても才能がある人だ。
ただ言えることは、スピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリ(これにニーチェが加われば鬼に金棒だが)、彼らの哲学を日常の生活の中で実践しようとすると、必ず体制と衝突するということは覚悟しなければならない。ここでいう体制とは別にイデオロギーが作る体制などではない。生活の体制、つまり、人間世界全般の常識そのものと激突してしまうハメになるのは必死である。まぁ、死の哲学を標榜するからには、それは当たり前のことでもあるだろうが。たとえば、
「犬や猫を愛する者たちは、すべて馬鹿者である」。こうした者たちは、間違いなく人間を単なる道徳の動物にするだけでは飽き足らず、動物を人間化して道徳存在を増大させようとしているのだ(p.93)。
なんてことが当たり前のように書いてある。嫌われる。確実に忌み嫌われる(笑)。うちのかみさんは猫=命なので、思わず笑いがこぼれてしまったが、彼らの生き方を突き通すには、かみさんのみならず、ほぼ人類の全体を的に回す覚悟がなければ無理だ。死の哲学へと参入するには、まずもって、そういった孤高の精神を持って、人間世界の中で暴れ回る覚悟が必要なのである。
ちなみに作者が傾倒するアルトーもシリウスやマヤ文明に魅せられていた。シリウス派にはいろいろいる。ニューエイジ、ポストモダン、伝統的オカルティスト、UFO信者、さらにはアシッド狂いのジャンキー。人間はこれだから愉しい。幅広くシリウスを語りたいものだ。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, スピノザ, ドゥルーズ, ニーチェ, ユダヤ, 河村悟