2月 3 2006
シリウス革命、再版!!
拙著「シリウス革命」が再度、版を重ねるという報告をT出版から受ける。これで第4版目だ。初版、第2版とたしか3000部づつの増刷で、第三版が2000部だったので、この第4版目で累計1万部を突破したことになる。よく頑張ってくれているシリ革ちゃん。時間はかかってはいるものの、3200円という本体価格、650に上らんとするページ数、内容も決して大衆的と言えるものではない。そうしたハンディをかかえて1万部とは。。セールスという観点からすれば、低次元でのつぶやきだが、実にうれしい。
少数のオタクマーケットが乱立するポストモダン市場においては、こうした売れ方もアリなのだ。版元のT出版によれば、「シリウス革命」はコンスタントにロングセラーを続けているとのこと。初版が1999年。第二版が2000年。第三版が2005年。第四版が2006年。2001年から2004年までの間は、T出版側の諸事情もあって、再版が控えられていたが、いざ再版してみると着実に売れていっているらしく、今後もこのペースは衰えないだろうという予測だった。これからも全国書店のT出版の書籍コーナーには「シリウス革命」が常備されていくことになるだろう。
トンデモ本というレッテルが貼られてはいるものの、自著がロングセラーになるというのはとても嬉しいものだ。たとえ年間1000部の売れ行きでもいい、それが20年間続いていくことの方が、いきなり数万部のベストセラーを出すよりは遥かに価値があることだと自分では勝手に思っている。
今の時代、情報の消費されるスピードは驚異的に早い。情報が言語で記されるものである限り、いかなる情報も「語り」の範疇にある。言葉や文字の羅列を他者の「語り」として置き換えてイメージできた時にこそ、情報の本当の価値が見えてくる。他者の語りには「語ること」と「語られたこと」の二つの種族がある。それが僕の持論である。
「語られたこと」とは、意味が言葉そのものに託されているような平面的な語りのことである。この場合、語りは一つの商品のようにして消費され、図書館や公文書やデータベースの中を賑わしている他の知とともに知の履歴として、言葉の博物館に所蔵されることになる。ただ、語りの履歴として保管されるだけだ。
「語ること」とは、それとは全く次元の違う行為である。語ることそのものにおいて宇宙の生成が為されるような語り、それが「語ること」だ。ヌースにとって、宇宙とは自己と他者の間にある無限の距離を持つ回廊空間のことである。語りはこの回廊に言霊を響かせることがなければ何の意味も持たない。「語られたこと」はこうした実存の場には何一つ触れられず、ただただデータベースの中で記録として残るだけだが、「語ること」は、そのまま生命の内奥の中に入り込み、宇宙の生成の律動に微量ながらも永遠の糧を補給する。
僕なりに思うのは、長い間売れ続ける本には、こうした糧が多少なりとも含まれている。ただの流行や情報の集積本などに一体どれほどの価値があろうか。あらゆる知識が言葉から成立するものであるのならば、知識は新たな命の種子であるべきだ。収穫は別に100年後だって1000年後だって構わないのである。ただただ生きる「今」を種子として、言葉を紡いでいくこと。そういう書物がもっとたくさん出てきて欲しいものだ。
2月 5 2006
スピノール中毒
寝ても覚めてもスピノール。スピノールの服用のし過ぎで熱が出そうだ。とは言っても、ドラッグの副作用ではない。
スピノールとはSU(2)の作用によって変換される複素2成分の物理量のことをいう。厄介なのは、このスピノールというやつ、数学的な定義は明瞭だが、問題はそれが同時に回転という感性的な描像とつながりを持っているということである。ベクトルは360度回転すると元の位置に戻ってくるが、このスピノールは720度回転しないと戻ってこない。人間の知の欲望として、それって何じゃらほい?という突っ込みを入れたくなるのは自然だろう。
とりあえず、次のようなことを考えている。群SU(2)は以前ご紹介した3次元球面S^3と同相とされている。つまり、4次元空間に4次元球体が浮かんでいたとして、それが地球のようにグルグル自転していたとしよう。そのときの回転軸に当たるものがスピノール↑と↓ではないかと睨んでいる。3次元球面と3次元空間の違いは無限遠が一点で同一視されているかされていないかの違いだが、これは言い換えれば、3次元球面上の一点が3次元上の無限遠点でもあり、かつ、無限小点ともなっているということでもある。もちろん、この重複には0=∞*、0*=∞という捻れが用意されている(2次元平面上の原点と無限遠の関係が球面S^2上の対極点に対応すること同じ)。
ヌースでは、奥行き方向の直線はすべて一点で同一視されたものと見る。つまり、無限遠は同時に今ここに視野空間として張り付いていると見るわけだ。これは「わたし」が光速度状態に入ることに等しい。この視野空間は他者サイドから見れば、3次元上での「点」でもあるので、これが、∞=0*のヌース的意味となる。このことから類推すれば、3次元球面とは視野空間を持つ自他が互いに主体の位置を点と見なしているような3次元空間と考えてよいことになる。つまり、単なる物理的な3次元空間の一点一点に、観測者の認識という意味で、SO(3)=視野空間が張り付いていると解釈すれば、それは3次元球面に近いものとなるのである。実際に空間にはたくさんの瞳孔が浮遊しているではないか。
このイメージで、4次元空間内での3次元球面の対極点を結ぶ回転軸の意味を考えると、それは(0,∞*)と(0*,∞)を結ぶ線となる。ここに観測者の意味を付与すれば、この軸は個体意識の決定軸となる。というのも、この二つの極点の交換によって見つめ合いが起こるからだ。視野空間は見つめられることによって、点となり、その点を見つめる他者の眼差しを拝借するところに真の主体の位置が生まれることになるからだ。ふたつの双対スピノールが捩じれ合うことによって客観が生成される。おそらく、このことがツイスターの本質である。
となれば、720度回転もナゾではなくなる。モノをぐるりと大勢の観測者が囲んでいるとしよう。普段、僕らはモノ側に認識の重点を置いているので、モノが360度回転すると元に戻ってくると思い込んでいる。しかし、それは一人の観測者にとっての閉ざされた世界の中の出来事にすぎない。そうした回転がさらにもう一回りの回転の群を作っている。それが観測者の群である。モノの回転で一回転、次の観測者の視点を移動していく回転で一回転。合計2回転。これがSU(2)の実態に違いない。4次元における回転とは観測の視座の変換なのだ。SU(2)対称性。これがヌース理論における位置の変換の数学的定義となる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: スピノール, 無限遠