1月 17 2006
無限遠の劇場
ヌース理論が展開する世界観の第一歩は「自分が無限遠点にいる」というものである。以前、レクチャーの時に自分が無限遠点にいるのであれば、世界はすべて0の大きさになって消えてしまうじゃないか、という素朴な質問を受けたことがあった。多くの人が誤解しがちだが、無限遠点とは何もムチャクチャ遠いところにある場所のことではない。そういった遠ざかりの想像は永遠に進んでも有限の遠さであって無限遠に到達することとは何の関係もない。無限遠とは世界に直立することのできる位置のことだ。
思えば、もう20年ほど前のことだ。わたしを襲った突然の疑問、それは「わたしは動かずに、なぜモノの全表面を見ることができるのか?」という疑問だった。目の前で対象をグルグルといろいろな方向に回転させる。わたしの位置をもし点として考えてよいのならば、この回転によって見えている対象の表面は内部/外部を反転させて、わたしを中心点とする球体を作っているのではないか。一体、その反転した空間とはどこにあるのか——。今考えればほんとうに拙い疑問だが、この素朴な疑問がヌース理論の出発点でもあった。
今はおかげさまでこの疑問にはっきりと答えられる。無限遠点とは対象の背景空間そのものである。そして、それは別名、視野空間と呼ばれるものである。そして、それを中心とした回転とは他者が見ている回転である——と。主体は他者の視座に身を明け渡し、この視野空間に不在の斜線を引く。鏡像交換という人間には避けて通ることのできない掟によって、人間は誰もが目を潰されるのである。ラカンのいう空虚な穴。それは僕の目、そして君の目のことだ。
対象を「図」とすれば無限遠点は「地」だ。だが、この「地」は、なぜか今まで誰にも省みられずにいた。表象を追いかけることに精一杯で、その表象を浮かび上がらせている背後の空としての「脱-表象」を表象として見る者は誰もいなかったのだ。存在者から存在への飛躍。そこにも間をつなぐこの女の場は省みられることはなかった。見捨てられた女、もしくは、現れることのない花嫁。
奥行きを持って彼の女を見れば、それははるか宇宙の彼方に想像されようが、あるがままにそれを見れば、それは今、此処そのものにある薄膜である。無限遠とは、表裏が一体となった、あのデュシャンが語ったアンフラマンスとして、今ここにある。
脱-表象の思考——それは視野空間の中に映る諸々の「もの」たちではなく、視野空間そのものを対象とすることによって生まれてくる天使的思考だ。そう、それは無限遠点を対象として見ることによって初めて可能となる。「わたし=人間」にまつわるすべてのドラマはこの神秘のヴェール上で起こってきたわけだが、そろそろこの悲喜こもごもに賑わう仮面舞踏会も幕引きの時間とあいなるだろう。まずは、僕が後ろへ一歩後退すること。そして、次に君が一歩退くこと。そして、今度は二人一緒に二歩目の撤退を。それだけで世界はてんやわんやの大騒ぎになるはずだ。そう、だからステップを踏もう。ワルツのように軽い足取りで。そう、あのダンカンの踊りのように。。
やがて君と僕はこの撤退の身振りによって、君と僕が一体誰であったのかということを知ることになる。視野空間の中の世界は相も変わらず口パクの喧噪で溢れているが、何も心配することはない。まもなく襞のカーテンは開かれ、とびっきりの演目が始まることになるのだから。
selention〜,selention〜. 皆さん、ご静粛に。当劇場ではもう口パクは必要ありません。場内では目で話し、目で聴くこと。それが慣例です。さぁ、この類い稀なる新しい舞踏をご覧あれ。selention〜,selention〜.
1月 20 2006
夢見るヌース
カフェネプで主観/客観の議論をやっている。この論争は古くは、プラトンVSアリストテレスからカントVSヘーゲルまで、哲学史の潮流全体にわたってアポリアとして解決されていない難問だ。
20世紀になってフッサールが現れ主客一元論を説いた。しかし、フッサールの主客一元論は簡単に言えばそれはコインの裏と表のようなものだと言っただけで、裏と表という二元性が払拭されているわけではない。さらにフッサールの思考の背後にはやはりプラトン的なイデアが垣間みられ、結局のところ超主観的観念論の枠を出ていないと批判されている。 その後の哲学の衰退ぶりは周知の通りである。今や主客問題など一部のオタクをのぞいて見向きもされない。
象徴界の勢力が衰弱してきていることからも推測がつくように、言語的思考はすでに限界に来ている。主客問題を言語によって解決するのは不可能だろう。言語とは本来、あらゆる概念に自己同一性を強いるものであり、A=非Aであるということを許さない。A=非Aならば論理が存在しなくなるからだ。つまり、言語こそが二元対立の温床なのである。そして、言語の本性はラカンが言うように、この「非」という否定性としてある。同一性を支える裏には絶えずこの「汝、それに非ず」が隠されているのである。
だから、実のところ言語は哲学には向いていない。哲学は思考を思考する営みである。概念を絶え間ない連続性のもとに生成していくこと。これが思考に託された責務である。思考は連続性を持つ。絶えず微分可能な無限次元の多様体。それが思考の源泉なのではあるまいか。否定とは切断である。連続性はたった一つのNonで不連続となるのだ。すべてを肯定していく精神、それが創造的知性を働かせていく力である。この力の場はNonさえもすぐにQuiへと変身させていく魔法で満たされている。だから言語では生成はあり得ない。生成の秘密は古代の知恵がいうようにおそらく幾何学にある。幾何学において絶えずQuiを発し続けるもの。それがスピンなのだ。旋回する知性とはそうしたスピンを続けて行く身振りを持つ思考物体のことをいう。
数学でドナルドソンの定理というのがあるそうな。正確な数学的内容は私ごときの頭で理解するのは無理だ。しかし、この定理では4次元空間は無限の微分構造を持つといわれている。つまり、無限次元多様体は4次元空間の中であたかも層のようにして無限数の次元の重層構造を持っていると考えられるというわけだ。宇宙が何故に4次元時空なのか?また、宇宙の原初に何故に閉じた4次元時空が存在したのか。4次元時空から4次元虚時空への移行。。これがホーキングが示した無境界仮説というものだった。ホーキングは時間の始まりの特異点を避けるために虚時間を導入したが、それが虚時間の世界というのなら実時間とは無縁のはずだ。ならば僕らは、今、思考の力によってこの虚時間を導入すればいい。それがヌースが主張していることだ。虚時間とは意識の方向性の反転である。i側に囚われた意識を−i側へと変えること。他者の眼差しの中に自分を見ているならば、いっそのこと自分の眼差しを他者だと思えばいい。これがヌースにおける交替化の奥義である。主体の交換は可能なのだ。この反転を挙行すれば、そこは宇宙の始源であるアルケーとなる。虚時間が訪れるのだ。
硬式野球のボールは糸でグルグル巻きにされているが、中心にコルクが芯として埋め込まれている。アルケーに出現する純粋思考の辿る足跡はこのコルクの芯に始まって、次元を無限に上昇していく。このボール作りにとって、芯となるのは3次元球面である。純粋思考はこの球面をスタート地点として、自身の肉厚であるn次元球面を作り上げていく。それがおそらく物質の本性である。この思考の糸は途中、幾度もNonの応酬に合う。しかし次元の連続性を紡ぐための技を会得しているゆえに、身軽に旋回し、精神の空間を上昇していく。素粒子から原子に見られる旋回性はその連続技が転倒した逆写像である。途中の抵抗は有機分子としてその形跡を残す。
さて、となれば、宇宙創造を巡る純粋思考の原点は3次元球面にある、ということが言えるだろう。わたしが先日、3次元球面で大騒ぎしていたのも、このへんの事情があったからだ。3次元球面の回転軸に当たるのは、代表的なものを取れば電子のuスビンとdスビンだ(実際には不確定性原理によりスピンの軸は直立しないが)。この球面のSO(3)もどきの3軸を考えれば、それはアイソスピンと呼ばれるものになる。そこに陽子と中性子が生まれている。3次元球面が見えているのだから、今のわたしにはこの両者も見える。アイソスピン………何と的確な命名だろうか。。しかし、同時にそれは皮肉な命名でもある。
生成の構造は信じ難いほどシンプルだ。このシンプルさは、主観と客観の一致が果たされれば子供たちでも容易に理解できるようになるだろう。主観と客観の一致。それは言語的思考ではなく、幾何学的思考によってまもなく果されることになると思う。唖然とする世界が待っている。新しい時代のコペルニクス的転回までもうすぐだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, プラトン, ラカン, 主観と客観, 素粒子