1月 22 2006
夢見るヌース2
ヌース理論の話が続いて申し訳ないのだが、思考を整理するためにここを利用させてもらう。
現在,考えているのは太陽系空間と原子空間を同等に見る分かりやすいロジックについてだ。太陽を中心とする内惑星空間の構造はおそらく原子番号26の鉄原子の生成までに対応している。その情景が少しづつだが見えてきた。
このロジックの重要な媒介項となるのは身体だ。身体と言っても肉体のことではない。肉体は身体の屍である。ミクロ=マクロの宇宙に入るためには、まずは、僕らにおなじみのこの物質的肉体を放棄しなければならない。何も死ねと言ってるのではない。世界の中でちょこちょこと動き回っているイメージの自己像を捨てましょ、ということだ。。そうした自己像はナルシス的なリビドーの所産であって、実際の自己ではない。実際の自己とは自身の知覚とは切り離すことができない存在であるがゆえに、それは身体の内部にある。もちろん、肉体の内部ではない、身体の内部である。ここが大事なところ。
肉体とは何度も言うように、虚構された外部から見た身体のことだ、だからそれはほんとうの身体ではない。ここでいう身体の内部とは、自身の内部から感じている身体と考えればいい。自身の内部から感じる身体とは普段,僕らが世界と呼んでいるものに他ならない。自分自身が自分自身を中心として「前後、左右、上下」と呼んでいる方向。これが真の身体の骨格だ。
前後は視覚に関係し、左右は聴覚に関係し、上下はその統合に関係する。加えて、前後は左右を観察し、左右は前後を観察し、上下はそれら両者の関係をさらに観察する。人間は世界からのアフォーダンスによってこうした観察連合としての意識的身体を獲得してきた。見ること、聞くこと。立つこと。そして、歩くこと、手を広げること。跳ぶこと。前後、左右、上下—前後、左右、上下と、この三軸に多重の襞を形成していくことで精神は自らの身体の次元の一つ一つを開示させていく。実は、物質の生成活動はこの開示の履歴と深い関係にある。
こここでは面倒な説明はしない。一言で言えば、身体が身体自身を意識している空間とは4次元の空間である、とだけ言おう。4次元空間であるからには、ここには物理学的な時計は存在しない。記憶は同時にこの球形状の身体に重畳させられている。過去は身体の中では今現在として同時に併存しているということだ。その意味で言えば、地球上で生きている一人一人の人間の身体は4次元空間に穿たれた球状の無数の穴としてイメージできる。4次元球体。それは魂の別称でもある。
これら一つ一つの球体にはそれぞれ固有の「前後、左右、上下」という方向があるが、ヌースがいう精神とは、それらの球体すべての「前」を集合させた力のことを言うと思っていただければよい。すなわち、全人類における見ることのすべて——これはヌースの用語でいうと「表相」の全集合体のことと言っていい。
実は、こうした固有の前が奇跡的な一致を見せている「有り難い」一点というものがこの宇宙に一つだけある。これが精神の正体である。ここも説明はしない。皆さんでゆっくり考えてみるといい。その奇跡の一点が真実の点、と呼んでいいものなのだ。この点の力がわれわれの思考にユークリッド的点を提供している。われわれの意識に浮かぶ茫洋とした点のイメージは、その真実の点の亡霊と言ってよいものである。
ここでいう真実の点のことをヌース理論では「形質」と呼ぶのだが、まもなく、この形質が人類の意識に目覚めはじめる。いや、もうすでに目覚めているのかもしれない。その力は水素原子核と地球中心から同時に放たれる。一つは元素生成の空間へと、もう一つは太陽系空間へと、それぞれ新たな土地の創造に向かって活動を開始することになるだろう。その活動の26段階目までの道筋をお見せするのが次回の本、ということになる。原子と太陽系は間違いなく同一のものである。
1月 24 2006
光の固有値
前回のブログで複素平面上の十字とは身体の空間であると書いた。科学通の方にはさぞトンデモと響いていることだろう。まぁ、それはそれでいい。論理的なことは全部、次回の本の中で書こう。問題はいかにして量子の存在をわたしたちの生と結びつけるかだ。そうでなければ、物質の内破力は生まれない。物質を内側が食い破ること。それがヌースの目的なのだから、そのためには情動の強度を伴わさなければならない。
身体には、それこそ無数のベクトルが潜在化している。このベクトルには五感を通していろいろなものがあるが、ヌースはとりあえず「視覚」に焦点を絞っているので、ここではそのベクトルのことを「眼差し」と呼んでおこう。
君が世界に対して何かを指向するとき、その眼差しはその何かに向かう。街をぼっーと歩いて、あっ、あの娘、美人だ!!おっ、いい男。とかいうときにハッとして意識が一本の矢印となって他のものが一切見えなくなる、あの瞬間を思い出して欲しい。ヌース理論ではこうした実存の眼差しのことを「ベクトル」と呼ぶ。物理学者たちがベクトル波動関数やベクトルポテンシャルと呼ぶものは、こうした眼差しの潜在性(ぼーっとした状態)のことをいうのだ。意識がぼーっとした状態とベクトルのグルグル。これらはヌース的文脈では同じものだ。
さて、ベクトルは回転群の3次元表現でもある。つまり、一つの対象がグルグル回ってこそ、一つのベクトルが生まれるのだ。かわいいあの娘子のことを追いかけるとき、君の眼差しは彼女を捉えて離さない。そこには横顔が見えたり、肩のラインが見えたり、後ろ姿になびく長い髪が見えたり、形のいいお尻が見えたりするだろう。〈ううっ、俺はストーカーか?〉。その一つの眼差しの中に彼女の全身から発するエロスが充満する。まぁ、そういうことだ。
しかし、「わたしが対象を見るとき、対象もまたわたしを見ているのだ」というラカンのテーゼを使えば、彼女のエロスもまた、僕の眼差しを弄ぶかのように、一つの眼差しを向けている。見るものと見られるものの間には、こうして、絶えず二つの眼差しが交差を行っていると考えるべきだ。物理学的に言えば、これがスビン1と−1というやつである。
さて、光子にはもう一つスピンの固有値0というのがある。これが僕らをヌースでいう人間の内面的現実に導く。つまり、僕の眼差しと彼女の身体からのエロスの語りかけが相殺を起こし、そこに事物という物質像が結ばれるのである。彼女を一生懸命見つめていたところ、「おい、半田、おまえこんなところで何やってんだよぉ〜。この間貸した千円返せ。」と顔見知りの友人に突然,声をかけられたときなどがそれに当たる。眼差しの中に充満していたエロスは一瞬で吹き飛ばされ、通りの向こうでウィンドウショッピングをしている彼女の姿は、普通の街行く女性へと一変してしまう。そこには、人間の内面認識の空間、すなわち、——ボクノイチカラ、カノジョノイチマデ,ヤク20メートルアリマス——という量的な空間が現れるのだ。しら〜とした覚めた空間。。これが物理学がスカラー場と呼ぶものだ。ここでは、僕自身の眼差しさえもが、秒速30万kmという早さとして物質化される。堕ちた光の土地である。
光の固有値1、0、-1の場。僕らはこの三つの場所をまずは一つの出来事、事件として生きている。
※この描写はフィクションであり、あくまでも実在の半田とは関係はありません。。。ほんまか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ラカン