2月 23 2006
ヌーススピリッツCM制作
「ヌーススピリッツ」の有線放送用のTVコマーシャルを作ることになった。細々とした経営を強いられている我が社にとっては、創立以来の大きなギャンブルではある。ヌースの本を書き進めたいところではあるのだが、3月一杯はこのCM製作の作業に注意を集中させる必要がある。
「ヌーススピリッツ」を発売してから約5年になるが、爆発的とはとても言えないものの、おかげさまで多くの人に喜んでいただいている。精神科医として協力していただいているS博士のクリニックにも、全国津々浦々からヌーススピリッツの噂を聞きつけていろいろな問い合わせが舞い込んできているようだ。
そんなこんなで、徐々にその潜在能力を開花させつつある「ヌーススピリッツ」だが、この商品は、あくまでも健康補助食品であって医薬品ではない。健康食品はいかに効き目を持っていようが、基本的に効能や効果を広告媒体で謳うことはできない。薬事法の中で表現が厳しく制限されているからである。もちろん、この規制は広告媒体の大きさにもよる。例えば新聞、雑誌等の紙媒体の場合、発行部数数万程度ならば、その出版元の自主的な判断に任されている部分が多々あるが、数十万部クラスの発行物になると、公共性が極めて高いと見なされ、規制はより厳格さを極める。大手出版社、新聞社などはだいたい自社内に校正機関を持っており、そこで、違反する表現がないかどうか一字一句厳しい検閲を行っているようだ。特に健食関係のトラブルはあとを絶たたないため、何か問題が起きた場合、広告を掲載した方にも責任が問われてくるから、当然の対処策と言える。
このチェック基準は厚生労働省から毎年のように通達され、細かい指導書が媒体側には配布されている。そこには薬事法に抵触する「違反ターム」が一字一句網羅されており、広告原稿にそれらに抵触する文字があれば有無をいわさず即赤ペンが入る。例えば、効果や効能に見られる「効く」という文字はすべて御法度。もちろん、効果的、効能的などといった的をつけてもダメ。減少作用、軽減作用といった作用ものはすべてダメ。あと、いかなる文脈であってもコピーの中に病名を出すことは許されない。病名を出すことは、それが「効く」ことを暗示させるからというのがその理由だ。
さらに、最近では使用者の体験談も掲載禁止になりつつある。一部の良識ない業者による虚偽の体験談掲載などが摘発され、消費者に被害を与えているというのがその理由である。聞いての通り、まぁ、少々極端に言えば、健康食品のCM広告は商品名と原材料名と内容量の表示ぐらいしかできませんよ、ということになる。厳しい。。。効能、効果が謳いたければ、しかるべき手続きを通し薬品メーカーを作りなさい、ということをお役人は言ってくるのだが、しかし、資金力がないところがこれをやるのはほぼ不可能だ。まぁ、そういう状況だから、駆け出しの健食メーカーが大きく成長していくのはかなり厳しいご時世と言ってよい。
さて、肝心の有線TVのCM媒体に関する規制だが、実際のところ、これは雑誌等の刊行物よりももっと規制が強い。雑誌媒体は購読者の自主的なチョイスによるものだが、TVは一方的に媒体側が放送するものだ。それだけ、公共性が高いと判断されるわけである。そのため表現は徹底して制約される。高いCM制作費と放映料を考えると、CM効果がなければ途方もない損失になるのは必至だが、わたしとしては「ヌーススピリッツ」が健康食品としてとてもいいものだけに何とかして広げたいと思っている。もっと売り上げを伸ばして販売価格帯を下げること。それが当面の我が社の目標なのだ。さて、さて、どういうCMにあいなりますやら。。低予算だからなぁ。。。
2月 25 2006
ミュンヘン
スピルバーグの最新作「ミュンヘン」を観に行く。一言で言うと、計算され尽くしたリアルで覆い尽くされたウソ映画の傑作。つまり、この映画はフィクションとして観るならば満点に近い。しかし、ファクション(事実をもとに再構成した物語)として見るならば欺瞞に満ちた作品である。彼の映画作りが天才的なのは誰の目にも明らかなのだから、もちろんこの批判はかなり次元の高い位置での批判である。
全く個人的な意見だがスピルバーグにはこうした政治的な作品は似合わない。「シンドラーのリスト」然り。「プライベート・ライアン」然り。自由、平和、愛。。彼がどのようなメッセージを出そうとも、映画がうますぎてわたしにはすべておとぎ話のようにしか感じられないのだ。いや、おとぎ話ならまだいい。ヘタすると罪悪に見えてくることもある。可哀想だが、これはビッグネームが背負わなければならない宿命だ。かつてのP・マッカトニーもそうだったなぁ。
一流アーティストは政治問題に関わることはできない。関われば殺される。それがわたしの持論だ。政治に口を出せるのは二流、三流。理由は簡単。影響力がないからである。冷静になって考えて見ればすぐに分かる。イスラエル-パレスチナ問題をテーマにした映画を、今、世界で一番売れっ子の監督が本気印で撮れるはずがない。スピルバーグだって命は惜しいし、人間関係だってある。当然、意見を自重するところや表現を曖昧にするところが出てこざるを得ない。実際問題として、この映画には米政府関係者やイスラエル当局がかなり口を挟んでいるだろう。イスラエル本国の公開ではシャロンの参謀が宣伝担当になっていると聞いた。シャロンだよ。シャロン。映画は一見すると、ニュートラルスタンスで撮られているかのように見えるが、裏では極めて計算高い構成が張り巡らされている。例えば、テロリスト側の殺戮シーンは何度なく出てくるがイスラエル側の殺戮シーンは1シーンも出てこない。数では圧倒的にイスラエル側が勝っているにもかかわらず、だ。
スピルバーグの政治的信条は知らない。しかし、芸術的行為というものは情動を制御したその瞬間に全生命力を失う。作る側の人間にはそういう覚悟が必要である。才能や技量はその次に来るものだ。一方、政治的行為とは無意識のコントロールである。だから、本来、政治と芸術は真っ向から対立する類いのものだ。神的暴力を絶えず飼いならそうとする神話的暴力。そして、神話的暴力から絶えず逃走しようとする神的暴力。それが政治と芸術の健全な関係というものだ。結果、政治に飼いならされた芸術はもはや芸術的なものではなく政治的なものとなる。その意味でこの作品は極めて政治的な作品なのである。
さて、最終的にこの映画からどのようなメッセージが出されたか——皆さん、殺し合いはよくありません。報復の連鎖は止めましょう。これだけだ。もちろん、それが悪いというのではない。問題は世界一流の表現者がイスラエル-パレスチナ問題に関してこの程度の批判しか行えないという、そのいかんともし難い文化状況なのだ。本作品は早くも本年度アカデミー賞受賞候補に上げられている。スピルバーグさん、受賞式では黒いタキシードを来て、奥方と一緒に赤い絨毯の上をフラッシュライトを浴びて歩くのかい?そりゃないだろう。
スピルバーグには徹底した娯楽作品を作って欲しい。個人的には「激突」のような作品を望む。頼むから政治から手を引いてくれ。ヌース理論を映画化してくれよぉ。。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 2 • Tags: スピルバーグ