3月 1 2006
ゴジラよ、蘇れ!!
昨日の話。場所は東京有楽町。毎月仕事で訪れるS博士のクリニックが入っているビルの前に昔懐かしのゴジラ像が立っている。背丈1メートル強ぐらいのブロンズ像なのだが、なんでもっとでかいのを作らなかったの?というくらい目立たない。S博士のクリニック内は禁煙なので、訪問する前にわたしはいつもこのゴジラ像とにらめっこしながら一服するのが慣例である。
ところが、今月訪れてみると、このゴジラ像いつもと様子が違う。ん?何じゃありゃ。。誰かのイタズラか?と思って近づいてみると、な、なんと、丸の内消防署の火災予防運動の一環ということで、デカデカと「火災予防運動実施中」というタスキがかけられている。ありゃりゃのりゃ。ゴジラが火災予防運動の音頭取り?勘弁してくれ、消防庁さんよ。わたしの世代の子供心に残っているゴジラの崇高なイメージを汚さんでくれよ。ゴジラの原点はガメラとは違うんじゃ。人間の都合などこれっぽっちも考えていない破壊の帝王なんじゃぞ。海の中に潜み、どこからともなく神出鬼没に現れては、都市という都市を片っ端からぶっ壊して行く。それがゴジラたい。だいたい、デビュー作でこの銀座を火の海にしたのがこのゴジラじゃないか。それが何で火災予防運動のタスキをかけて有楽町に再び現れんといかんのじゃい!!
ゴジラが誕生したのはわたしが生まれる2年前、昭和29年=1954年。第二次世界大戦後の冷戦構造の中で米ソの核開発競争が激化する中、太平洋上での米の水爆実験による放射能を浴びて、海底深く秘かに生息していた巨大爬虫類が突然変異によってゴジラという怪獣に変態した(確かそんな生い立ちだったような……)。つまり、ゴジラとはテクノロジー批判の産物として天才・円谷英二の無意識が創造した神的暴力の結晶体だったはずだ。科学が作り出した兵器をものともせず、殺されても殺されても何度もよみがえり、人類に生命存在のまさにゾーエー的力を見せつけるために創造されたアンチ人間の象徴的存在だったはずだ。。何で、それが火災予防週間なんだょぉぉぉ〜。
常識的には自然と文明の対立軸は自明とされているが、人間が自然の範疇である限り、文明は自然の延長と見なされるべきではないのか。その意味では、自然界が持っている暴力と人間が科学テクノロジーによって作り出す暴力は、biolence=violenceとして、同類のものと見なされなくてはいけない。ゴジラは自然の神としてのモスラをも敵に回したことを思い出して欲しい。ゴジラという記号はこうした自然=科学連合に対するアンチとして、つまり反自然的な力の象徴として機能していたのだ。
今や、反自然的なレジスタンスは至る所で鎮圧され、世界は一つの巨大な自然帝国動物園になろうとしている。ここは科学崇拝と動物愛護が疑問の余地無く両立してしまうような自己欺瞞はなはだしい世界でもある。文明と自然の調和。。。そんな調和が帝国の描く理想郷なのだ。しかし、宇宙的ノモスにはそのような調和の体制はおそらく存在しない。
ゴジラよ、もう一度火を吹いたれや。このふうたんぬるい帝国の諸都市を、反自然の火力によって焼き尽くしたれや!!
3月 5 2006
不連続的差異論
最近、トラックバックを張っていただいた「不連続的差異論」というサイトに先日、初めて顔を出した。好意的にヌース理論を紹介してくれていて、ヌース理論と現代思想の擦り合わせの場としてはかなり参考になるサイトである。
不連続的差異論のサイト
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000234525.html
ヌース会議室の方にも書いたが、ヌース理論をヌース理論の土俵でヌース理論独特の用語で語る時期はもう終わったのかもしれない。最初の頃はわたし自身、ヌースが持った目新しい意識分析の視座の紹介に自然と力みが入り、「位置の交換」や「位置の等化」といったヌース用語自体の特殊性に自己満足していたふしがあった。しかし、これからはこうした態度は改められるべきなのだろう。それはそれで持論の中で保持しながら、より、既存の学問の範疇の中での概念との接点を模索する必要がある。
スピリチュアル世界を含めた既存の哲学や宗教思想などの延長線上で、ヌース理論の立ち位置を再度、確認し直すこと。こうした地道な作業が必要とされる。その意味で、わたし自身、自分の理論の枠内に止まってそこに閉じこもって構えるのではなく、様々な思考の現場に自ら赴いていって、様々な人たちと意見を交わらせることが大事だと思うに至った。でなければ、単なるカルトに終わってしまう。
「不連続的差異論」はイデア創造論である。ドゥルーズ哲学の中では明確にされなかった潜在的イデアと顕在的イデアの差異を、哲学・思想史の俯瞰的位置から指摘し、その絶対的な差異の直立の必要性を提唱している特異な論である。
ざっと一覧した限りではあるが、少なくともイデアなるものの絶対的差異を説いている意味においては、ヌース理論と極めて近いものを感じ、親近感を感じる。ヌース理論の思想・哲学的側面に興味がある方は是非、この不連続的差異論のサイトの方も覗いてみることをおすすめしたい。不連続的差異論においては、世界の成り立ちを、現象界・メディア界・イデア界という三層構造で見ており、これら三層の諸関係性を模索している。不連続的差異論とヌース理論を対応させて見るときは、これら三つの領界をヌース理論に登場する次のような概念とオーバーラップさせてみると分かりやすいのではないかと思う。
現象界………人間の内面の意識総体/体系観察子Ω1
メディア界………人間の外面の意識総体/大系観察子Ω2
イデア界………顕在化としての対化/Ω3〜Ω4、もしくはそれ以上の観察子領域
不連続的差異論においては、イデアが持つ不連続的差異の具体的な構造性についてはまだ論は進んでいないようだが、イデアを潜在的なものと、顕在的なものに区別して思考するという着眼点で展開している。そこがヌース理論と極めて相性がいいのだ。この理論はまだ自他関係が持つ双対性の、イデア構造への適用については触れてはいないが、これから、具体化していくにつれて、論の中に組み込まれていくことになるやもしれない。わたしの方は、現代思想に登場する諸概念のヌース的配置を確認していく上でも、しばらく擦り合わせを続けていってみようと思う。
ヌース理論の理論内容をヌース用語を使用せずに、既存の哲学用語でどこまで説明することができるのか、その限界点を見極める上でも積極的にコメントを出していきたいと思っている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: ドゥルーズ, 位置の交換, 位置の等化, 内面と外面, 大系観察子