2月 12 2006
シンデレラマン
「シンデレラマン」という作品をDVDで観る。実をいうと、この作品で主役を張っているラッセル・クロウとレネー・ゼルウィガー、双方ともわしの好きな俳優ベスト5に入る。作品の内容は、ハリウッド作品お決まりの家族愛ものというのは十分に承知していたが、二人の演技を観たかったので、借りることに。
物語は1920から1930年代にアメリカに実在したプロボクサー、ジム・ブラドックの半生を描いたものである。この時代はご存知の通り大恐慌時代で、アメリカ国内の失業者数は1000万人以上にも上り、多数の人が理由もなくホリエモン状態を食らっていた苦節の時代であった。体調不良や度重なるケガのため、試合で生彩を欠くジムは、ある日突然にプロボクサーのライセンスを剥奪される。波止場で日雇いの荷役夫として重労働の日々を送るものの、愛する妻と幼い3人の子供たちとの生活は極貧を極める。そんなジムにある日、再度、リングへのお呼びがかかる。果たして、ジムはこの千載一遇のチャンスを見事ものにできるかどうが——物語はそのように進んで行く。
監督のロン・ハワードは多作の老練監督で、最近ではTV映画「24」の製作に参加したり、同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」でアカデミー賞監督賞を受賞したりもしている。まっ、いわば一流さんだ。若かりし頃の作品には「コクーン」や「バックドラフト」等の話題作はあったが、どちらかというと、最近の作品の方が質が確実に上がってきている感じがする監督さんである。この夏の話題作「ダヴィンチ・コード」もこの監督さんだったんじゃないかな。。。
さて、こうしたベテラン監督さんの作品であるがゆえに、作品自体は実によくできていた。落ち着いたカメラアングル。しっかりとした心理描写。それに見合った役者さんたちのケチのつけようのない演技。泣きのツボを1mmと外さない脚本と演出。もちろん、わたしも製作者たちの術中にはまりウルウル、ウルウルのしっぱなしだった。ラストシーンも「ロッキー」のような「えいどりわぁ〜ん」のような決めの一発があるわけではなく(笑)、実話らしくごく自然に淡々と編集されている。それでいて泣けるわけだから、作品の充実度についてはケチのつけどころはない。が、しかし、がしかしだ。やっぱり何か物足りない。これだけの役者とセットと物語の実在性を使って、どうして、今もなお、アメリカン・ドリームなの?という素朴な疑問が脳裏から離れんのです。
今の時代、映画は言うに及ばず、音楽やコミックやゲームなど、エンタメカルチャーは至るところに氾濫していて、僕らのナルシシズム回路はもうすり切れるほどピストン運動させられてしまったじゃないの。。ハリウッドだってそんなことは百も承知のハズ。しかし、ハリウッドはやっぱりいつもハリウッドなんだよな。ハリウッドにハリウッド以外のテイストを期待しようとているわしもアホだけど、わしは大学の映研が作るような安っぽい実験映画は実のところあんまり好きではなくて、制作費たっぷりの、ゴージャスでグラマラスで、かつブットビの逸品を期待しとるんだよね。
嗚呼、今となっては「2001:space odyssey」や「時計仕掛けのオレンジ」や「地獄の黙示録」がほんま懐かしいです。最近のハリウッドは、どうして、あの手の変化球を投げてくれんのだろ。「イージーライダー」以来、根っからの映画好きで、中学生の頃からハリウッドを追いかけてきたわしだけど、そろそろ潮時かもしれんね。。アメリカ製品には、もう何を見てもブッシュの演説と同じ嘘臭さしか感じなくなってしまったよ。。ごめんなさいね。ラッセル&レネーさん。
でもハリウッドの名誉のために言っておくと、連中はバカじゃない。無茶苦茶優秀。大衆に受けなければならないという制約の中で、いかに実験的なことをやるか。。やっぱり、これって大事なのかも。。エンタメの中にいかに規制の価値を揺さぶる劇薬を仕掛けるか。。アカデミズムの中に閉塞した学者の先生たちにはこうした観点が皆無だからなぁ。。やっぱ、エンタメは捨てるべきじゃないな。。
2月 14 2006
理解することを理解するといふこと
ふうさんがカフェ・ネプで「理解すること」の本来性について書いてくれていた。世の中ではいつも、相互理解や相互了解という言葉だけが決まり文句のように一人歩きして、理解という「行為」そのものに対して真の理解を促す人はあまりいない。僕の「理解」に対する触感は一言でいうと、次のようなものだ。
——「理解」とは宇宙の血流であるべきである。
「事物が織り成す意味はそれを眺めるのではなく事物のうちに棲み込むことで理解される」と言ったのはポランニーだけど、こと相手が人間だけではなく、あらゆる対象に対する理解の在り方はその中に「棲み込む」ことじゃないかと思う。棲み込む、というからには、理解とはその対象と同一化するということでもある。つまり、知を「モノにする」ではダメで、知として「モノになる」じゃないとダメなのだ。僕が君を理解したというとき、僕は君になる。僕が動物を理解したというとき、僕は動物になる。そうした変身の技が理解本来の意でなくてはならないと思う。でないと、知に一体何の意味があろう。
そうした理解本来の意味の在り方を最も象徴しているのが、英語のunder-standという綴りなんじゃなかろうか。over-standではなく、under-stand。上からモノを見ていては理解にはほど遠い。何事も下から、事物の最もボトムから世界を見なければいけないということだ。これは事物のうちに棲み込むというポランニーの表現を彷彿とさせる。この下部への接続はヌース理論の文脈で考えても極めて興味深い。というのも、ヌースでは最もマクロなもの(時空=自我)が最もミクロなもの(電子=主体)へと同化することが、潜在的なものから顕在的なものへの変身、つまり、エラン(跳躍)と見るからだ。ヘーゲル的な視座からライプニッツ的な視座への一発逆転。アインシュタイン的な視座からベルクソン的な視座への一発逆転。これが理解/under-standに倫理的な創発-行為としての意味作用をもたせることになる。
ちょっと固い言い回しだが、これは、僕らの本性=魂は実はモノの最も奥深い内部に棲み着いているということを意味する。モノに住み着くことのできないマクロな魂は、物を所有したいという欲望と、物を理解したいという知の欲望に取り憑かれる。しかし、そうした欲望は本当はモノに棲み着いているはずの魂が、モノの上に立っていると錯誤していることによって生じているものだ。マクロの魂はコギトの亀裂を埋め合わせようと必死にもがいているのだが、こうした魂が持つ理性は、思考の諸表象をモザイクのように組み合わせて、それが体よく整理整頓されることを理解と思い込み、モノの屍骸の陳列だけで満足してしまう。知のコレクターとはそういうネクロフィリアのことだ。大学という旧い体質の中で囲われている学問はどのジャンルにせよ、こうした屍体愛好症の域を出ていないと思う。
森羅万象を彩るあらゆる事物は、その一つ一つの外面で自らの個別性や特殊性を開花させ、何物にも代え難いクオリアのアウラを放っている。これらのアウラを一つの花束にして、事物の根底にあるミクロの魂へと運んで行くこと。それが人間の生に与えられた使命である。人間の目の前に展開されている有り難い此のもの性のすべては、わたしという生ある場で、多様な他の此のもの性と相互に浸透し合い、その有り難さの意味を互いに強化させてはいくが、そこで創造のすべてが花開いて終わるというわけではない。そこからまた、一つの新たな命の流れとして、意識の一体化の潮流の中に溶け込んでいき、再び未知のアウラを形作るために存在の内面性へと回帰していく。こういう万物流転の中に僕らの「生」の意味づけをなすことが必要だ。相互理解はそうやって一つの生き物としてのエランへと変身していくことができる。だからこそ——理解が必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ベルクソン, ライプニッツ