2月 25 2006
ミュンヘン
スピルバーグの最新作「ミュンヘン」を観に行く。一言で言うと、計算され尽くしたリアルで覆い尽くされたウソ映画の傑作。つまり、この映画はフィクションとして観るならば満点に近い。しかし、ファクション(事実をもとに再構成した物語)として見るならば欺瞞に満ちた作品である。彼の映画作りが天才的なのは誰の目にも明らかなのだから、もちろんこの批判はかなり次元の高い位置での批判である。
全く個人的な意見だがスピルバーグにはこうした政治的な作品は似合わない。「シンドラーのリスト」然り。「プライベート・ライアン」然り。自由、平和、愛。。彼がどのようなメッセージを出そうとも、映画がうますぎてわたしにはすべておとぎ話のようにしか感じられないのだ。いや、おとぎ話ならまだいい。ヘタすると罪悪に見えてくることもある。可哀想だが、これはビッグネームが背負わなければならない宿命だ。かつてのP・マッカトニーもそうだったなぁ。
一流アーティストは政治問題に関わることはできない。関われば殺される。それがわたしの持論だ。政治に口を出せるのは二流、三流。理由は簡単。影響力がないからである。冷静になって考えて見ればすぐに分かる。イスラエル-パレスチナ問題をテーマにした映画を、今、世界で一番売れっ子の監督が本気印で撮れるはずがない。スピルバーグだって命は惜しいし、人間関係だってある。当然、意見を自重するところや表現を曖昧にするところが出てこざるを得ない。実際問題として、この映画には米政府関係者やイスラエル当局がかなり口を挟んでいるだろう。イスラエル本国の公開ではシャロンの参謀が宣伝担当になっていると聞いた。シャロンだよ。シャロン。映画は一見すると、ニュートラルスタンスで撮られているかのように見えるが、裏では極めて計算高い構成が張り巡らされている。例えば、テロリスト側の殺戮シーンは何度なく出てくるがイスラエル側の殺戮シーンは1シーンも出てこない。数では圧倒的にイスラエル側が勝っているにもかかわらず、だ。
スピルバーグの政治的信条は知らない。しかし、芸術的行為というものは情動を制御したその瞬間に全生命力を失う。作る側の人間にはそういう覚悟が必要である。才能や技量はその次に来るものだ。一方、政治的行為とは無意識のコントロールである。だから、本来、政治と芸術は真っ向から対立する類いのものだ。神的暴力を絶えず飼いならそうとする神話的暴力。そして、神話的暴力から絶えず逃走しようとする神的暴力。それが政治と芸術の健全な関係というものだ。結果、政治に飼いならされた芸術はもはや芸術的なものではなく政治的なものとなる。その意味でこの作品は極めて政治的な作品なのである。
さて、最終的にこの映画からどのようなメッセージが出されたか——皆さん、殺し合いはよくありません。報復の連鎖は止めましょう。これだけだ。もちろん、それが悪いというのではない。問題は世界一流の表現者がイスラエル-パレスチナ問題に関してこの程度の批判しか行えないという、そのいかんともし難い文化状況なのだ。本作品は早くも本年度アカデミー賞受賞候補に上げられている。スピルバーグさん、受賞式では黒いタキシードを来て、奥方と一緒に赤い絨毯の上をフラッシュライトを浴びて歩くのかい?そりゃないだろう。
スピルバーグには徹底した娯楽作品を作って欲しい。個人的には「激突」のような作品を望む。頼むから政治から手を引いてくれ。ヌース理論を映画化してくれよぉ。。
3月 1 2006
ゴジラよ、蘇れ!!
昨日の話。場所は東京有楽町。毎月仕事で訪れるS博士のクリニックが入っているビルの前に昔懐かしのゴジラ像が立っている。背丈1メートル強ぐらいのブロンズ像なのだが、なんでもっとでかいのを作らなかったの?というくらい目立たない。S博士のクリニック内は禁煙なので、訪問する前にわたしはいつもこのゴジラ像とにらめっこしながら一服するのが慣例である。
ところが、今月訪れてみると、このゴジラ像いつもと様子が違う。ん?何じゃありゃ。。誰かのイタズラか?と思って近づいてみると、な、なんと、丸の内消防署の火災予防運動の一環ということで、デカデカと「火災予防運動実施中」というタスキがかけられている。ありゃりゃのりゃ。ゴジラが火災予防運動の音頭取り?勘弁してくれ、消防庁さんよ。わたしの世代の子供心に残っているゴジラの崇高なイメージを汚さんでくれよ。ゴジラの原点はガメラとは違うんじゃ。人間の都合などこれっぽっちも考えていない破壊の帝王なんじゃぞ。海の中に潜み、どこからともなく神出鬼没に現れては、都市という都市を片っ端からぶっ壊して行く。それがゴジラたい。だいたい、デビュー作でこの銀座を火の海にしたのがこのゴジラじゃないか。それが何で火災予防運動のタスキをかけて有楽町に再び現れんといかんのじゃい!!
ゴジラが誕生したのはわたしが生まれる2年前、昭和29年=1954年。第二次世界大戦後の冷戦構造の中で米ソの核開発競争が激化する中、太平洋上での米の水爆実験による放射能を浴びて、海底深く秘かに生息していた巨大爬虫類が突然変異によってゴジラという怪獣に変態した(確かそんな生い立ちだったような……)。つまり、ゴジラとはテクノロジー批判の産物として天才・円谷英二の無意識が創造した神的暴力の結晶体だったはずだ。科学が作り出した兵器をものともせず、殺されても殺されても何度もよみがえり、人類に生命存在のまさにゾーエー的力を見せつけるために創造されたアンチ人間の象徴的存在だったはずだ。。何で、それが火災予防週間なんだょぉぉぉ〜。
常識的には自然と文明の対立軸は自明とされているが、人間が自然の範疇である限り、文明は自然の延長と見なされるべきではないのか。その意味では、自然界が持っている暴力と人間が科学テクノロジーによって作り出す暴力は、biolence=violenceとして、同類のものと見なされなくてはいけない。ゴジラは自然の神としてのモスラをも敵に回したことを思い出して欲しい。ゴジラという記号はこうした自然=科学連合に対するアンチとして、つまり反自然的な力の象徴として機能していたのだ。
今や、反自然的なレジスタンスは至る所で鎮圧され、世界は一つの巨大な自然帝国動物園になろうとしている。ここは科学崇拝と動物愛護が疑問の余地無く両立してしまうような自己欺瞞はなはだしい世界でもある。文明と自然の調和。。。そんな調和が帝国の描く理想郷なのだ。しかし、宇宙的ノモスにはそのような調和の体制はおそらく存在しない。
ゴジラよ、もう一度火を吹いたれや。このふうたんぬるい帝国の諸都市を、反自然の火力によって焼き尽くしたれや!!
By kohsen • 09_映画・テレビ, 10_その他 • 6 • Tags: ゴジラ