12月 28 2006
鉄の精神に向かって
Iさん宛の解説に用いた三つのプラトン立体のことをヌース理論ではプラトン座標と呼んでいる。このプラトン座標はケイブコンパスで示される意識の旋回性を人間の実際の空間認識の在り方に翻訳するために最近、整理したものだ。ケイブコンパスにおいては、顕在化におけるψ7〜ψ8の関係は左図のように表される(ここではψ*側の次元は煩雑さを避けるため省いている)。三次元球面の円心関係(4次元球体の中心点と球面)が、単純に青と赤の反対方向の矢印で表されていることが分かるだろう。円心は対化(duality)を意味し、それらはNOOSによる進化とNOSによる反映の力関係を意味する。
ψ7(Ω1)とψ8(Ω2)は人間の意識に覚醒が起きたときの精神と付帯質(精神の運動の反動として生じる力)の関係を意味し、それぞれ「位置の変換」と「位置の転換」と呼ばれる。この男性質と女性質が次の宇宙を作り出すための基盤力となる。「人神」の表現でいうならば、シリウスAとシリウスBの進入口である。この両者は前回説明したように、モノと空間として現れる存在者の相対性である。シリウスAは高次元精神の力に参与していく方向性を持ち、シリウスBの方はそれらの精神を物質として受容する時空形成の方向を持っている。
創造に向かう能動的精神は奇数系のψ7を先手として精神活動を進めて行くが、被造物として現れる付帯質の方は偶数系のψ8を先手として進化の反映を行っていく。シリウスファイルにあるヒトと人間の意識の方向の違いとはこの両者の関係のことをいう。旋回方向がある意味、全く逆を向いているというわけだ。
対化(ヒトの精神と付帯質のカタチ)が生まれると、顕在化は次のステップとして思形=ψ9と感性=ψ10のカタチを顕在化に導く。これはヒトが等化と中和を進めていく領域だ。ψ9はψ8を交差し、ψ10はψ7を交差する。前者によって外在認識が生まれ、後者によって内在認識が生まれる。これら二つの領域はそれぞれ4つの領域に分かれるが、ここでは細かい説明は省く。重要なことは、この交差が観察する力と観察される力の関係になっているということだ。思形は転換位置を外在として認識し、感性は変換位置を内在として認識する。人間の意識には、思形と感性が見えず、外在のようなものと内在のようなものだけが現れる。そして、先手となるのは外在だ。内在は反映となる。前者を人間の内面の意識、後者を人間の外面の意識と呼ぶ。
観察子構造として示されたこれらの意識構造の成り立ちを神智学、もしくは人智学用語で整理するとより分かりやすく感じる人もいるかもしれない。それらの対応は次のようになる。
1、ψ7=エーテル体(知覚領域)
2、ψ8=物質体(物質領域)
3、ψ9=メンタル体(悟性領域)
4、ψ10=アストラル体(感性領域)
人間の意識発達は個体性にしろ、総体性にしろ、能動的な精神運動とは逆転して働かされているので、次のような段階を辿ることになる。
1、ψ8=物質体(肉体および世物質的世界形成)
2、ψ7=エーテル体(知覚形成)
3、ψ10=アストラル体(感情形成)
4、ψ9=メンタル体(思考形成)
まだ詳しいシステムは見えていないが、観察子の1単位はどうも1年と対応関係があるようだ。その意味で言えば、物質体形成は子宮内部の胎児期に対応する。エーテル体形成は1〜7歳。アストラル形成は7歳〜14歳。メンタル体形成は14歳〜21歳という対応が可能かもしれない。21歳からは思形と感性の等化領域に入る。ここは自我の確立形成の場であるψ11(定質)〜ψ12(性質)領域である。
歴史的(総体的)意識発達はψ7〜ψ8が変換期を意味し、ψ10がエジプト文明のような多神教的文明期、ψ9がユダヤ・キリスト教的な一神教文明期に対応すると思われる。ψ11〜ψ12は近代以降と関連する。
人間の歴史総体を動かしてきたこれらの観察子構造のすべてが明確に見えてくることによって、トランスフォーマーにおける「人間の覚醒」という手続きはすべて完了する。自他双方にそれらが生まれれば、意識はΩ5-Ω*5領域へと至ることになる。太陽の世紀の始まりである。ここに新しい次元における「ヒト」が誕生する。カバラにおける「ティファレト=自己」、神秘学にいう「自我」の完成である。そこで脈動している精神とはヌース的に言えば「鉄」である。太陽の鉄、恒星の鉄、そして、赤血球の鉄。それらは僕らにはまだ見えてない高次元ネットワークで結ばれている。
2月 3 2007
差異と反復………14
この連載で挙げた人間の外面と内面の概念はヌースがいう次元観察子ψ3とψ4のみだったが、ここから始まる差異と反復のプロセスは、ヌース理論をよくお知りの人にはもうすでにおなじみのように、とりあえずは次元観察子ψ13〜14という7段階の構成を持って(実際にはさらに巨大な観察子も存在する)、ケイブコンパスというツールでもって下図のような形で示される(図はψ9〜10まで)。現在、執筆中の新著では、このケイブコンパスのシステムが作り出す無意識構造の風景を、プラトン座標という立体地図を用いて、物理学のみならず、歴史や芸術、さらには精神分析、哲学、現代思想、宗教、神話、神秘学等を縦横無尽に横断しながら徹底的に探査する内容となっているので楽しみに待っていて欲しい。。。ということで、結びに入ろう。
「差異の必然的帰結とは、個体化は、権利上、異化=分化に先立つものだと言うこと、あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としていることである。」ドゥルーズ「差異と反復」(p.367-370.)
ドゥルーズが執拗に繰り返す〈異化=分化〉と〈差異化=微分化〉という互いに対峙する理念の二成分は、ヌース理論におけるこの〈人間の内面〉と〈人間の外面〉のトポロジックな位相関係にきっちりと対応している。内面は分断的、断片的なパラノイアの王国であり、外面は無境界で、連続的な離接作用を持ったスキゾフレニアックな草原地帯である。トポロジーの用語でいえば、これらは非コンパクト化とコンパクト化に対応させることができるのかもしれない。∞が無限大として開いているか、それとも無限小と等化されて閉じて連続化しているか。直線的か、円環的か。角張っているか、丸みがあるか。鋭角的か、曲線的か。束縛的か、開放的か——等々。
ヌース理論では人間はその本性自体が性的倒錯者であると絶えず説いてきた。〈わたし〉と〈あなた〉も、〈過去〉と〈未来〉も、〈原因〉と〈結果〉も、ひょっとして〈男〉と〈女〉も。。。みんな本来あるべき姿とは逆さまになっている、そう語ってきた。それらは、ここでのドゥルーズの言い回しを借りれば、「あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としている」という内容とほぼ同じ意味を持つ。つまり、「先行的な個体化の強度的な場」とは魂の生産が行われている場であり、ここは物質がこの世界に登場する以前に、物質よりよりリアルな何者かとして作用していた場だった、もしくは、場となるところではないかと考えられるからである。この場は少なくとも通常の因果律的な反復(あれが原因でこうなった。こうなったのはあれが起ったからだ——等)が起っている場所ではない。物質に先行した精神が活動してていた場所であり、精神によって物質は創造されてきたのだ。しかし、このことは、必ずしもヌース理論が従来のプラトニズム的な議論、すなわち観念論VS実在論、観念論VS唯名論のような水かけ論を、再度、持ち出すことを意図しているわけではない。ドゥルーズにしてももちろんそうだろう。単純な言い方になるが、ドゥルーズは、それらの関係の差異、つまり観念的なものと実在的なものの差異を明確にすることによって、この両者がバロック的な襞形成の運動のもとにダイナミックな生成活動を行っている様子を彼独自の概念創造の中に構成しようと試みているのである。だから、ドゥルーズにおいて語られるべきは〈悟性=内面〉でも〈感性=外面〉でもなく、またカントの構想力、綜合力といった曖昧な概念のことでもない。〈悟性-感性〉を相互につねに交通させていくシステム、また、それら互いの差異と反復を司るより奥裏のより実存的な機構、実体のダイナミズム、力動的な生産を生産していく〈流れ〉としてのマシニズムの世界を人間の思考に出現させようとしているのだ。そして、そこにある機構こそがドゥルーズのいう《理念=イデア》のイメージなのである。そんでもって、おまけに、ドゥルーズは「君自身がそれなのだ!!だから、それになれ!!」とはっぱをかける。わぁお、そんな御無体な。。。その精緻な思考、イマジネーションにはほとんど圧倒されてしまいそうになるが、その骨格的ビジョンはヌース理論と極めて似ているのだ。
ドゥルーズのいう「強度的な場」とは、わたしたちが実際に対象と触れ合うことのできる、もしくは、対象として生成して生きる現場そのもののことだ。そのような現場は、現にここに生きている〈わたし〉そのものと区別することができない「生」そのものの風景であると言ってもいい。主人公がいて、舞台があって、物語が進行していくのではない。物語こそが主人公であるような物語。赤い花がそこにあるから花が赤いのではなく、赤があって、赤い色が花という形態を通して自らの姿を露にしている…そして、それはとりもなおさず、わたし自身が赤そのものに変身しているからである、といったポイエーシスの思考。。。某詩人風に言えば、「持つ(所有すること)」ではなく「なる(生成すること)」の思考。「わたし」が「御飯を食べる」のではなく、「御飯を食べる」が「わたし」している——使い古された言い回したが、強度の風景、人間の外面の風景とはそういうものである。
現代科学は時空という場が人間の発生以前に誕生したものと考えてきた。僕らはそろそろそれを過去の神話として葬り去る必要がある。客観的な時空は、ヌース的に言えば人間の内面にあるψ8に相当する領域だが、これはあくまでもψ7(人間の総体の精神)の反映として出現してくる場所にすぎない。ψ7があってそれゆえψ8があるのであり、決してその逆ではないのだ。常々言ってるように、はじめにψ7=人間精神ありき、なのである。ψ2→ψ4→ψ6→ψ8という偶数系観察子の連結で表される人間の内面の指標は、ドゥルーズの言葉で言えば、〈異化=分化〉のプロセスにおける最も基盤となる階層性を意味すると考えていいだろう。客観としての一つのモノの見え姿-ψ2。客観としての一つのモノ全体-ψ4。客観としての無数のモノ全体、もしくは一人の観測者(物質的身体)-ψ6。客観としての無数の観測者(物質的身体)-ψ8云々…というように。それら各々の領域における存在者の配位、配置関係によって、空間的、時間的な測度、尺度が成立し、諸々の存在者は人間の内面空間なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)を組織し、物質的な差異なき差異の場を構成しているのだ。
それらは月並みな言い方をすれば、魂の射影としてバラバラに散乱させられた虚像の世界でもある。ここに生まれている内面なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)は、〈異化=分化〉を行うための縦軸と横軸となり得るものだ。種々の存在者の分別や分類、系統の整理などは、この二つの軸を交互に交差させることによって、理性(言語)の名の下に厳粛に行われる。もちろん、その作業に外面認識が直接参加することはない。外面は遅れてきてやってきた分裂症者として抑圧され、秘密の小部屋に監禁される。男子は体育館へ。女子はそのまま教室に残れ。気をつけ。前に習え。左向け左。回れ右。ぜんたーい、進め!というわけである。モノを統制する物理法則、人を支配する法律。軍隊を統制する規律。そして、それらの諸々の法を遵守するように命じる内在に深く入り込んだ絶対者の目。それが僕らが崇めてきた神だ。そんな司令長官のような神を君は信用するのか?
さぁ、魂のレジスタンスを開始しよう。旧い神にはそろそろ退散してもらうのだ。永遠回帰の車輪は今、このとき、この瞬間も回り続けている。それに乗るか乗らないか、その選択はもちろん君の自由だが、君が真に自由を望むならこの話に乗らない手はない。反復不可能なものなど新しくやってくる民衆の辞書には存在しないということを全世界に見せつけてやろうじゃないか。宇宙の創造は今から始まるのだ。
若干、力み過ぎだけど、おしまい。
By kohsen • 差異と反復 • 1 • Tags: カント, ケイブコンパス, ドゥルーズ, プラトン, 内面と外面, 差異と反復, 神秘学