7月 31 2006
こうした批判はとてもうれしい
不連続的差異論を展開しているrenshi氏の方からヌース理論に対してかなり激しい批判が出ているので、この場を借りて、最初の批判に関してのみ返事をしておきたいと思う。
不連続的差異論における位置の等化批判_ http://ameblo.jp/renshi/entry-10015189659.html
>半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム・全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。
1、位置の等化とは、同一性ではなく、差異化の幾何学的表現である。
「位置の等化」という概念は、無意識の主体の位置を見出す思考作業のことを言います。僕の表現、説明が至らないのかもしれませんが、「位置の等化」には、renshi氏がここでおっしゃっているような意味はありません。確かに言葉の響きの上では「等化」は「同一化」と似た響きを持ってはいますが、その本質的な意味は「差異化」です。主体と対象の差異が否定されている「同一化」という概念は、ヌース理論がいう「中和」の方に当たります。中和とは等化に反映されて生まれてくる対概念で、等化と中和はイデアにおいては相互補完的な関係にあります。
2、「等化」がなぜ「差異化」なのか?
ヌース理論の導入部は、現象学同様、世界という巨大な装置のスイッチを一度OFFにして、その配線について調べようというものです。この配線の思考に入ること自体が差異の思考ではないかと思います。ヌースの場合はそれを言語による思考ではなく、幾何学的なイメージの中にダイレクトに捉えようという試みです。この差異の最も単純な幾何的関係は大森荘蔵氏の言葉で言えば「面体分岐」です。このときの「面」とは知覚正面(視野空間そのもの)としての面を指し、体とは概念によって構成された延長としての三次元性を意味します。こうした還元から、主客概念がどのように成立し、その必要な条件を幾何学的に整理していくのがヌースの第一工程となります。
客体位置は、普通、僕らが慣れ親しんでいるように、0点的(正確には無限小的)な位置の措定として抜き出されます。問題は主体位置の方です。想像的自我が入りこめば、これは当然他者からの認識を通して構成されてくるものですから、主体位置は対象と同レベルの位置へと還元されてしまいます。これがrenshi氏の言われる主体と客体の「同一化」が起きている空間です。しかし、真の主体は、想像的自我が構成される以前の原光景(フロイト)としかいいようがないものなので、それは知覚正面そのもの、つまり、知覚の場そのものとしか言えません。ここで客体の位置と主体の位置の根源的な差異を幾何学的表象としてプロットすれば、それは円板とその中心点という関係になります。これが「対化」という概念になります。円板が等化(外面=主体位置)で中心点が中和(内面=客体位置)です。内・外という語義からも分かるように、外面は内面を含みもっていますが、内面は外面を含みもっていません。
さて、知覚正面上では、延長上の無限遠と対象中心としての0点は常に一点で同一視されています。そして、「見ているらしきもの(知覚正面)」が「見られているらしきもの(対象中心)」の周囲をグルリと回れば、この知覚正面もその軸を中心にして回転扉のように自転し、そこに等方的に出現してくるすべての無限遠方は対象中心である無限小点と同一視されていくことが分かります。このとき構成される空間が無限大と無限小が等化されている空間、つまり、「位置の等化」の空間になります。こここには対象世界が持っている延長としての広がりはどこにもありません。広大な空間の広がりは、「現象学的」に言って、対象中心とピッタリと一致しています。外部=内部という概念が無化された、もしくは、外部性が内部性の中に潜り込んだという言い方もできるでしょう。これが現時点での位置の等化の具体的なイメージです。ここには旧来の主客という概念は存在はしません。主客一体となった真の主体の素顔が露になっているだけです。
無限小領域と無限大領域が等化されるというのは、幾何学的に言えば。3次元球面の世界に一歩足を踏み入れた、ということになります(ここで、一歩と言っているのは、まだ三次元球面の多様体としての性質は持っていないということです)。実際、数学的には三次元回転群SO(3)は三次元球面S^3と同相とされています(単連結ではありませんが)。三次元球面の特徴は、三次元に即して言うと、内部と外部に「捻れ」を作り、三次元上の内部/外部概念を無効にすることにあります。ちょうどメビウスの帯のように内と外を捻って一つにつないでしまうのです。三次元球面の場合は、それが帯状の面ではなく、三次元空間全体で起こっているということです。このように、無限小と無限大が等化されるということは、内部と外部の間に捻れが生まれ、内部=外部、外部=内部という交通空間が出現することを意味するわけです。これは不連続的差異論にいうメディア界のトポロジーの基盤となるものでもあると思います。そうした空間が「同一化の空間=現象界」とは全く逆の性格を持つ概念だということはrenshi氏であれば、当然お分かりになるはずです。
さて、問題の「等化がなぜ差異化なのか」ということに関してですが、モノの内部と外部という概念は本来、その界面の存在によって意味付けされているものです。外部と内部に認識の矢が出向き、認識がそれぞれの領分に固執することによって、それらの間に対立がもたらされる。このとき、内部=内部、外部=外部という認識に固執しているのが同一性の思考というものです。同一性の思考は、この頑な同一性のため、内部⇔外部という反復によって相互に反照し合うしか、互いの概念を表現することができません。
ここで、こうした内部/外部間の反復の原因がどこにあるのかを考えると、界面に思考を向けざるを得ません。しかし、反復側には、この界面の由来がさっぱり分からない。つまり、いかなる力がモノの外部と内部を象ったのかが分からない訳です。それは、同一性が差異の反映として働かされているためだとヌースでは考えます。その意味で内部/外部を分け隔てている界面とは「潜在化した差異」と仮定されます。ここでいう「潜在化」とは中和側から見た等化に当たります。中和から等化は見えない。しかし、それは人のあずかり知らないところで確実に作動している。だからこそ界面が現象化しているわけです。
ここで潜在的差異と呼んでいるものは、renshi氏のおっしゃるように、反復との共役関係として働いているという意味では連続的な差異です。しかし、ヌースが抽出しようとしている差異は、等化側から見た等化です。これが顕在的差異と呼んでいるものです。こちらは界面の由来も知っていますし、また、それゆえに、内部/外部の対立が反復として生じていることも知っています。このような認識のもとでは、対立を対立のまま、調和に導くことができるはずです。ですから、弁証法のようにこぼれ落ちるものはありませんし、そもそも、全体(外部)も部分(内部)も等化されているわけですから、全体といった概念すら意味を無くします。界面(差異)の由来に答えを出し、その界面(差異)そのものに思考者として一体化していくということ。ここに不連続的差異論のいう「不連続」、さらには「個体化・特異性」が指し示す当のものがあるのではないかと考えます。
ポイントをまとめておきます。
僕らが対象の内部と外部と言うとき、それらを分け隔てている界面には実は捻れが存在させられている。この捻れが差異=精神である。それは現在の僕らにとっては内在面として働かされており、無意識の中に眠らされている。ヌースの目的は、この捻れを4次元知覚のもとに知性の対象として認識に上げ、その捻れ自身に沿って自意識的に思考を流動させていくことにある。無意識構造を差異化への運動状況として意識に対象化すること。これは、差異を顕現させるということであり、内=内、外=外という同一性を解体するということに他ならない。内と外との界面とは、内と外との捻れ目だからこそ、それらの境界面として現出できるのである。
2月 2 2007
差異と反復………13
●運動量の量子化
px → -i(h/2π)・∂/∂x
py → -i(h/2π)・∂/∂y
pz → -i(h/2π)・∂/∂z
量子の世界は「差異と反復9」で挙げた回転運動であるe^iθをベースとする波動関数ψ(r,t)(r=x,y,z t=時間)で表される。粒子の運動量p(の確率)を知るためには、上に示したように波動関数ψを位置座標(x,y,z)で微分して、-i(h/2π)を掛けることで取り出せる。古典力学では単なる物理量としての運動量(質量×速度)であったものがが、どうして、量子力学ではこのような演算子へと置き変わってしまうのか、今のところそのことについては誰も明確に答えることはできていない。ただそうすれば量子世界の実験結果とうまく符合するからそのようにしている、という程度のものだ。しかし、空間認識を単純な3次元認識から、自他の差異を考慮したキアスム認識へと変えると、この量子化という操作が単なる数学的技法ではなく、厳然と存在する現実的な空間構造に基づいて要請されてきたものではないのかという推察が生まれてくる。つまり、古典力学の範囲では観測対象は単に人間の内面認識で構成されたものだったのだが、量子力学では物質の本質をミクロの極限にまで遡ったことによって、ついに人間の外面と内面が絡み合う観測者(主体)の実存の場である4次元空間(4次元時空のことではない)の構造にぶち当たってしまったのではないか、ということである。
一方、位置演算子の方を見てみよう。運動量演算子が微分で表されるのに対して、粒子がどのへんにいるかという確率を知るための位置演算子はそのまま、
●位置の量子化
x → x
y → y
z → z
というかたちで横滑りに置換される。これは当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。物理学が対象の「位置」と呼んでいるものとは内面認識そのものを支えている概念だから、ここにi軸がダイレクトに関わることはないし、またi軸が関わらなければ微分も起こらないだろう。こうした見方で、光子(複素平面上の単振動)とは一体何かと考えると、当然それは、自他間が持っているψ3-4、ψ*3-4という3次元空間自体に潜在しているキアスム構造の中を反復している意識(空間をイメージし象るための想像力)なのではないかということになってくる。
以上のような考え方を持って、複素平面をもう一度見つめてみよう。すると、量子力学における運動量の量子化とはψ4-ψ*4(複素平面上の実軸)という人間が持った3次元空間の概念を90度回転(微分)させて、ψ3-ψ*3という外面に接続させるための、まさに差異化の物理学的表現のように思えてくる。このことはe^iθ上において実空間側は微分されると虚空間側に反転する、ということの意味でもあるのだろう。言葉ではとても難しく聞こえてしまうが、これはとても単純なことを言っていると考えていい。すなわち、空間認識の視線を左右方向(客観的視座)から、奥行き(主観的視座)に向けてみろ、ということだ。前に説明したように、空間認識の視線が奥行き方向に向くことによって、そこには射影空間が持つ「内と外の捩じれ」の性質が顕在化する。内部と外部の関係が自他で相互に反転しているとするならば、その捻れは、自他間でイマージュや言葉を行き交わさせている交通空間のカタチの在り方と言えないこともない。そこで、君と僕はつながっているよ、というわけだ。
ψ4-ψ*4軸(実空間)からψ3-ψ*3軸(虚空間)への反転。この反転によって僕らか宇宙と呼んでいる外延空間の広がりは、そのままプランクスケール大の点的な球空間の中に直結する。つまり、主体が定位している純粋知覚の場においては4次元という方向が直立し、そこから見ると宇宙半径とプランクスケールの世界は同じものに見えてしまうということなのだ。前回、ψ3とψ*3とはそれぞれマイナスとプラスの点電荷のことだと何の断りもなしに言ったが、どうして、ψ3が点状の対象として見えるのか、今回の内容で少しは理解していただくことができたかもしれない。実際、場の量子論の中では運動量の確率密度は電荷密度と同じものと見なされているようだ。
ψ3から見て無限大と無限小が同じものに見えるならば、ψ3にとってはψ4もまた、微小領域の振動として把握されているに違いない。なぜなら、ψ4-ψ*4軸がψ3-ψ*3軸へと反転した時点で、今度はψ3-ψ*3軸がψ4-ψ*4軸へと反転していることが予想されるからだ。その意味で、自他間における主客認識のキアスムが、差異を知らない人間の内面認識にとって光子という粒に見えたとしても何の不思議もない。ちなみにOCOTたちが語り伝えてきている幾何学はこの複素数平面に始まる複素n次元空間の幾何学の可能性が高い。それはドゥルーズが常々語っていたイデア=高次元多様体の世界のことでもある。
90度とは何ですか?
反転する力のことです。
正方形とは何ですか?
位置を変えていくための方向性の相殺です。
方向性の相殺のためには何回の反転が必要なのですか?
3回です。位置の交換、位置の等化、位置の変換。
(シリウスファイル)
こうして、僕らは次のステージにおける差異、つまり、ψ3とψ4の差異であるψ5とは何なのかを考える必要が出てくる。なぜなら、ψ3-4を反復させている力の正体はそれらを等化した精神にあるだからだ。
お〜い、早くやめろぉ〜っ。って声が聞こえてこないでもないので、次で締めますかね。
By kohsen • 差異と反復 • 1 • Tags: イマージュ, ドゥルーズ, 位置の交換, 位置の等化, 内面と外面, 差異と反復, 量子力学