3月 21 2013
半田広宣 講演会 in 京都——その1
遅ればせながら、去る3月16日に行われた京都講演会のご報告をしたいと思います。参加していただいた皆さんには心から御礼申し上げます。どうも、ありがとうございました。
~オープニング~
今回の企画は関西ヌーソロジー研究会主宰の川瀬氏の「ヌーソロジーの存在をもっと多くの人に知らせたい」という有り難い提案から始まりました。それも大きめの会場を借りきって100名以上の聴衆は集めてみせますと豪語する川瀬氏。『人類が神を見る日(1997年)』『シリウス革命(1999年)』と立て続けに著書を発刊して脂が乗り切っていたあの90年代末でも、講演会の参加者はせいぜい100名程度だったというのがヌースの偽らざる実状です。「最近は本も出していないし、今のヌースでそんなに多くの人が集まるの?」と心配げに尋ねた僕に対して、川瀬氏は「大丈夫です。行けます」の一言。で、当日の会場の様子はどうだったかと言うと、猶に百名を超える人たちで溢れかえっていました。改めて川瀬氏の発信力に頭が下がる思いです。
さて、午後1時半を回って、いよいよ開演。前半の1時間は川瀬氏が自ら「前座」と称して、ヌーソロジー大まかな紹介を行ってくれました。その弁舌たるや、とても講演が初体験とは思えないほどの熟達者ぶり。心地よいテンポで話が進み、5分に一回ほどの割合で挟まれるギャグは確実に会場の笑いのツボをとらえていきます。さすが関西人やなぁ。途中、川瀬氏自身が患ったアトピー体験の話が異常に長く、一瞬、会場全体が健康商品販売のためのセミナーのような空気に包まれ、あれあれ、おい大丈夫か?という雰囲気にもなったのですが、これも川瀬氏の計算のうちだったのでしょう。その壮絶な経験から自らが何を学び、どうしてヌーソロジーという思想に行き着いたのかが結果的により説得力を持って伝わってくるという構成になっていました。う〜む。かなりの話し手やなぁ。なんだかんだで、本来、「前座」であるべきの川瀬氏の話で会場は盛り上がり見せ、そこで「いよっ、待ってました。真打ち登場!!」のようなかたちで僕の方につないだものだから、こちらとしてはやりにくくてしょうがない。ギャグセンスじゃ負けるしなぁ。。。まぁ、いつもの通り直球ストレートに行くしかない、ということで、僕の話が始まりました。
さて、ここから自分が行った講演内容のあらましを書こうと思ったのですが、この講演内容に関してはヌーソロジーロッジの方でΦさんが素晴らしいレポートをして下さっていたので、その内容をそのままこちらに転載させていただこうと思います。少し長くなりますが、とても正確なレポートになっていますので、このブログを読んでいただいている皆さんもその場の雰囲気を味わっていただけるのではないかと思います。(それにしても、たった一回聴いただけでここまで話をまとめられるΦさんの記憶力と理解力に脱帽)ではΦさん、どうぞ!!
今回のkohsenさんの講演会は、初めてヌーソロジーに触れる人にとっては、結構衝撃的な内容も含まれていました、というより、のっけからその話題でした。
それは以前、確かレクチャーの二次会か何かのときに、kohsenさんご本人から伺ったことのある話でしたが、久しぶりに再度聞かせて頂くと、まだ大変迫力のある、恐ろしくも不思議な、kohsenさんの生身の体験談でした。その体験談は、初めての人はなかなか聞くことのできない半ばオフレコの話題でした。
オコツト以前に、kohsenさんは、1985年、オリオンからノミという存在が交信してきたそうです(ノミと言っても、昆虫のノミのことではありません。)。まず、土星のタイタンで、善と悪が戦っていました。しかし、それは代理戦争であり、善の裏にはオリオン、悪の裏にはスマルがありました。そして、この土星のタイタンの戦争が、まもなく地上、つまり、この地球上で降りてくるというのでした。
そして、いきなり「お前をオリオンの戦士に指名する」と言い出し、そのために、オリオンの戦士にふさわしいかどうかテストすると言われたそうです。
まず「タイタンのイー」について謎解きをすると言われ、「頭をスマートにする」ための質問をいくつもされました。この質問は、正解の解答を出すと「ピンポン!ピンポン!」と言わんばかりに、頭の上で何かがぐるぐると円周上を回り、間違った解答を出すと、今度は「ブッブー!」とと言わんばかりに、円周の直径上を針が左右に触れたそうです。
最初の質問は「半田広宣とは。」という質問でした。そこで、kohsenさんは、とりあえず「人間です。」と答えたそうです。すると、今度は「人間とは。」と聞かれました。それには「哺乳類です。」と答えると、正解とはならず、ぐるぐる回りませんでした。それで、「動物です。」と答えましたが、同じくぐるぐる回りませんでした。
kohsenさんは、なかなか答えを見い出せないそのやり取りに何だかイライラしてきて、そもそもそのオリオンのノミという存在は自分に一体何をやらせたいんだと思い、「言葉です。」という解答を出したそうです。すると、正解となりました。
次に来た質問は「言葉とは。」でした。kohsenさんはそれに対して「『言葉とは』とは。」と返しました。すると、ノミは「『言葉とは』とは、とは。」と返しました。kohsenさんは負けじと、「『言葉とは』とは、とは、とは。」と返しました。そうして「とは、とは」の応酬が続いて、気がつくと、kohsenさんは発狂していたそうです。
このことをもってkohsenさんがわかったことは、オリオンのノミという存在は、同じ論理の循環から抜け出させることをしたかったということでした。確かに、人間は、ある言葉から始まって、その言葉が意味するところと関連する言葉を集めて論理体系を構築していく習性があります。そうした人間的論理構築を嫌ったようなのです。それこそが、私たちがふだん当たり前のように過ごしている「人間である」というシステム自体の解体を目的としたものだったわけです。
最後の質問はまた「半田広宣とは。」という質問だったそうです。
そうして、オリオンの戦士のテストは合格しました。すると、地面から天に向かってエネルギーの竜巻の渦を作れるようになっていました。ノミは宇宙の作り方を教えると言って、そのエネルギーの渦がさらなる渦を巻いているようにしていきました。
そのまま街へ出て行ったと言いますから、大変だったでしょうね。
それから4日間、kohsenさんはノミの指示に従っていろいろな体験をさせられ、いろいろなビジョンを見せられたと言います。
そして、4日目の朝に、元の井の頭公園まで戻って来ました。池の水面には銀河が映ってたそうです。不思議なことに、そこでは、動物や植物とも会話ができるようになっていました。植物は小さければ小さいほど声が高かったそうです。まさにその世界では、オリオンとスマルの代理戦争が行われていて、kohsenさんはその動物や植物たち一人一人に「人間をどうするか。」という質問をしていったそうです。人間を良く言うものもいれば悪く言うものもいました。
そうこうしているうちに、夜明け前午前6、7時頃だったか、すずめが現れて、「まもなく神がやってくる」という伝令を伝えてきました。
やがて神がやってきて、こう言いました。「よく頑張った。お前に最後に一つ質問をしたい。お前は神になりたいか。」と。でも、そのとき、kohsenさんは、その神に疑問を持ったそうです。この神はおかしい、と。それで、kohsenさんは「お前は神じゃない。」と言いました。
すると、神は笑い、ものすごい勢いで、数十センチほどの深さの池に引きずり込まれ、散々な目に遭った後、必死で岸まで這い上がり、公園のブランコのところで叫んでいたそうです。
そして、やがて、通勤のOLだったかに通報され、警官がやってきました。ところが、kohsenさんはめちゃくちゃ腕っ節が強くなっていて、当時の警察権力を嫌っていたせいか、警官たちを投げ飛ばし、ついには機動隊員までがやってきたそうです。そして、ついに取り押さえられて拘束服を着せられ、東京のある精神病院に放り込まれたそうです。
このように、ヌーソロジーのそもそもの出自は生々しく、そこで見たビジョンが元になっているそうです。したがって、ヌーソロジーは、kohsenさんのアタマで勝手にこさえただけのものではなく、生身の入ったかなり強烈な体験に基づくものだったということです。
ところで、この強烈な体験をなさったときに、kohsenさんは一度オリオンに連れて行かれたそうです。kohsenさんがその交信をできたのは、オリオンにも半田広宣がいて、森に住む王族だったからだと言います。そこでは、いつも家庭教師というか話相手だった鳥型のロボットが止まっていて、それが「オコツト」でした。後にも先にもノミの話で、オコツトが出て来たのはそれ一回きりでした。
kohsenさんは、そうした無意識の中の狂気の潮流を体験してからというもの、その後は世の中の現実に全然リアルを感じなくなっていたそうです。
そこで、kohsenさんにはもう二つの道しか残されていませんでした。それは、現実に絶望して死んでしまうか、それとももう一回あの世界に戻ってあの世界を極めるかという二つに一つでした。そして、kohsenさんは、後者の道を選択し、以前ノミから聞いていたその世界へ戻る方法を使って、もう一度戻ってみることにしました。また発狂してしまうかもしれない、あの世界へ、です。それはかなり勇気のある決断だったと思います。
それが、1989年11月11日でした。そのときに、再びオコツトが出て来たわけです。しかし、そのオコツトは最早、鳥型ロボットではなく、「冥王星のオコツト」を名乗っていました。そして、かつてのノミとやり取りした質問のようにはわかりやすい解答ではなく、とても難解な解答のやり取りとなったというわけです。
(つづく)
6月 4 2013
『2013 :人類が神を見る日』に込められた真意
ちょっと難しい話にはなりますが、ここで挙げた話はとても重要です。。。
「認識が対象に従うのではなく,むしろ対象のほうがわれわれの認識に従わなければならない」。。ご周知の通り、これはカントのかの有名なコペルクス的転回というやつである。人間(主体)が対象(客体)を認識するときは,人間の認識の形式に従って対象が現れているのであって、前もって客観世界が存在するわけではない。そして、なおかつ、人間の認識と離れて存在するような世界=もの自体を人間は認識することができないという内容だ。
この人間の認識の形式というのが、カントに言わせれば直観の形式としての「時間と空間」である。カントはこの時間と空間がわれわれ人間の経験の不可欠な条件になっているというのだが、では肝心の時間と空間の認識が成り立つための超越論的条件とは何かということになると、それについては問うていない。
これではやはり超越論的哲学としては物足りなさを感じてしまうし、時空がもし超越論的自我の形成条件と同じものであったとしたら、カントはドゥルーズが言うようにデカルトの自我の哲学をより強固な「主体性の哲学」へと進化(退化?)させてしまったことになる。
さて、時空の超越論的な成立条件とは何か?ドゥルーズはそれが構造としての他者だという。これはとても重要な指摘である。しかし、ドゥルーズも構造としての他者が具体的にどのようにこの時空の成立に関わっているのか、『トゥルニエ論』などでいろいろと述べてはいるものの構造的背景はあやふやである。
おそらくこのへんの構造は数学的にきっちりと定格化できるのでないかと思う。その骨格となるのがいつも僕が言っている「複素2次元空間」というやつなのだ。これによって少なくとも物理学的には時空の成立条件を規定できる。具体的に書くと
SU(2)L×SU(2)R→SL(2.C)→SO(1,3)というやつで、互いに向き付けの違う複素2次元空間での回転を合体させると時空(ローレンツ群)ができるというものだ。これはヌーソロジーの概念ではψ7×ψ*7→ψ8という関係を意味している。
もちろん、こうした「複素2次元空間」といった数学的概念と哲学的概念をすり合わせるときには、複素空間とわれわれの知覚野の対応をある程度、明確にしておく必要があるのたが、その対応は腰が抜けるほどシンプルなものである。それが僕が常々言っている知覚正面=実2次元、奥行き=虚軸(ここで虚軸は純粋持続の軸として考え、収縮しているものとする)。という仮定だ。ここにもう一本、他者の虚軸(奥行き)を加えることによって、実2次元+虚2次元の複素2次元がとりあえずは設定できる。
まぁ、幾つかの段階のステップはあるが、この構造の中で回転の層を作ることによって、スピノールのSU(2)Lという群が出来上がってくる。もう一つは、他者側から同じステップを分で同じ構成を作ればよい。それでSU(2)R群の出来上がり。あとは二つを合体させて、SU(2)L×SU(2)R→SL(2.C)→SO(1,3)というかたちで時空のできあがりというシナリオだ。
この仮説がもし本当で、その認識を多くの人が共有できれば、はっきり言って、その効果は人類の文明を大きく変える力を持っていると思う。というのも、こうした超越論的構成をそのまま物質の基礎の構成へと接続させていく思考が可能になってくるからだ。つまり、思考によって物質をその根底から再-創造していく可能性が生まれてくるということだ。
カントが人間が決して認識することができないとした「もの自体」(実はこれがnoos)が、実は「経験」の不可欠な条件として付与された時空の超越論的条件として現れてくるということ。これは哲学的にも極めて美しい推論だし、ドゥルーズなりのニーチェの永遠回帰のビジョンもこの超越論的なものと発生論的なものの重なりにあったことを考えれば、至極まっとうな考え方でもある。
ここは、スピ系の人にもよーく聞いて欲しいのだけど、『2013:人類が神になる日』とはこうした思考の芽生えの到来の日のことを言うと思ってほしい。創造の思考によって今までにはなかった新しい情動と感性を引っぱり出してくること。それがヌーソロジーの魂の顕在化に対するスタンスである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: SU(2), カント, ドゥルーズ, ニーチェ, 人類が神を見る日, 複素2次元空間