7月 1 2009
空間を哲学する——対話編その2
●「前」と「後」が意味すること
半田 その理由付けを話す前に僕が「前」と「後」と呼んでいる身体が持った方向についてその意味合いを正確に把握してもらう必要があるんだよね。その把握が不十分だと何を言ってるか分からなくなる恐れがあるから。
藤本 そうですよね。半田さんが言ってる「前」とか「後」というのは、体を外部から見たときの前や後のことではなくて、あくまでも身体の内部において自分が感じている「前」と「後」という方向性のことですよね。
半田 そう、身体を不動のものとして見たときの言わば「絶対的前」や「絶対的後」のことを言ってる。だから、後だろうが上だろうが空間のどの方向を向いてもそこは「前」ということになるね。
藤本 ということは、自分の周囲をグルリと見渡せば、そこは全部「前」ってことになって、見えているものが存在しているのはすべて「前」ってことになりますよね。とすると、前以外の後とか、左右とか、上下とかってのは一体どこにあるんでしょう?
半田 それが意識の中ってことじゃないかな。意識の中で重なって存在させられている。意識の中で空間が多重に重なり合って存在していると考えるといいんじゃないかな。その畳み込みの構造がヌーソロジーが無意識の構造と呼んでいるものなんだ。
藤本 つまり、普段、僕らは自分の身体を包んでいる球体状の空間というのは3次元だと考えているけど、ほんとうのところは前だけで構成された球体や、後、左、右、上、下といった各方向それぞれの集合が形作る全く別の球空間が、それこそ身体の回りに重なり合って存在させられているということですか?
半田 実際に今、確認してみるといいよ。そうなっているでしょ。
藤本 確かにそうですね。
半田 今、藤本さんが感覚化している空間は身体空間と呼ぶにふさわしいものだよね。そして、ヌーソロジーではその空間こそが高次元空間の正体ではないかと考えているんだ。
藤本 なるほど。僕らは普通、身体というと、いつも自分の身体を外から見て物質的な肉体として解釈しがちだけど、そうすると身体は単にモノの塊と違いがなくなってしまいますね。でも、身体を今、自分自身がいる場所そのものとして考えると身体は物質的存在というよりも空間の中に溶け込んだ境界のない存在のように感じてきます。そして、その空間はモノが存在しているような空間とは全く違う種類の空間のように感覚化されてこないこともない。。。
半田 うん。ヌーソロジーはそうした未知の空間にアクセスしようとしてると思えばいいよ。それを知性に引っ張り上げてくるとでもいうのかな。そして、それらの空間と自分の意識との関係を明確にすることをとりあえずの目標としている。。
藤本 身体空間ってエヴァでいうATフィールドみたいなやつですかね。その空間に入っちゃうと物理的攻撃がまったく意味を為さないというか(笑)。
半田 物理的攻撃というよりも物理的な思考によって形作られた様々な概念の攻撃は一切通用しないよ、ってことだろうね。身体空間そのものにおいて現象を見つめれるようになった意識はもう3次元世界にはいないってことになるだろうから。
藤本 人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの遷移。つまりヌース的幽体離脱ですね?
半田 そうした空間認識の中では少なくとも自分が物質的肉体の中にいるという観念は消滅してしまうだろうから、その意味では魂が肉体を離れたという言い方ができるね。
藤本 身体空間に前-後、左-右、上-下という三つの軸があるとして、半田さんはいつも前-後軸から話を始められるのですが、それは意識にとって前-後という方向が最も基本的な方向だからなのですか?
半田 うん。少なくとも「見える」という視覚に関して言えば、被造物のすべては身体に対してつねに「前」に存在しているよね。だから、そこからじゃないと話自体が始まらない。世界は光とともにありきってことだ。というのも、ヌーソロジーでは古代の伝統的な秘教と同じく光そのものが精神だと考えているからね。その意味で言えば、「後」というのは決して光が入り込むことのできない闇の世界のことでもあり、実のところいかなる存在物も存在していない「無」の場所だということになる。ヌーソロジーではそれを「付帯質」って呼んでいるんだけど
。
藤本 ははぁん、付帯質というのは無の意味だったんですか。
半田 精神としての力が存在していないという意味でね。
藤本 ということは、精神が男で、付帯質が女ってことですかね。光とともに精神のすべてがある場所が男で、何もない無の場所が女。こりゃぁ、ますます女性群からブーイングが起こりそうだ。
半田 いや、卑下する意味で無のことを女と言ってるわけじゃない。むしろその逆だよ。無とは言い換えれば創造の原初の場とも言っていいし、そこからすべての精神が生み出され、かつ、それらの精神がそこで物質として表現されるという意味では創造自体を創造をする本源力と言えないこともない。つまり、無は神を創造する場でもあるという考え方もできるということだよ。意識空間全体から見れば、万物が存在者として存在する状態である「有」とは、創造を終えた精神の全体性が創造の始まり以前である無の中に首を突っ込んで、その精神の履歴を物質として見せている状態なんだよね。
藤本 本にも書いてあった「物質世界はタカヒマラ(宇宙精神)の射影である」という内容ですね。
半田 うん。そして、そこから次なる精神への進化の方向性として精神が光を立ち上げていると考えてほしいんだ。われわれ人間が世界を「見る」ということの本質的意味はそこにあるんじゃないかと思ってる。
藤本 人間の女が男を生むように、この女(無)もまた創造者としての新しい精神を生む可能性を人間という存在の中に孕んでいるということですね。
半田 そうだね。より正確に言えば、女が男と女を子供として生むように、この無なる女もまた創造者としての新しい精神と創造を受け取るものとしての新しい無を生み出す可能性の両方を持っているということだね。
藤本 やがて起こる進化が人間の意識を定質と性質の二つに分けるというヌーソロジーの審判の体制!!ですね。
半田 はは、意地が悪いね、藤本さんは。ヌーソロジーはそれほどユダヤ思想的ではないよ。分かれるのはあくまでも自分であって、個体が選別されるわけじゃない。もともと「わたし」というものが二つの意識の流れからできていて、人間には一つの流れしか意識できていない。しかし、もうじきもう一つの意識が目覚て、自分自身を二つに分離するということなんだね。これは裁きでも何でもない。単に一つのものが二つに分離を起こすということさ。
藤本 いゃ、いまだにそうした終末の裁きを信じたがる人たちが大勢いますからね。ヌーソロジーはそうした思想とはきっちりと一線を画したものであることを半田さんに表明してもらうためにも、ここは一発、突っ込みを入れてみました。
半田 おお、さすが藤本さん。僕の分身みたいだね。
藤本 のつもりです(笑)。
半田 さて、さっきから言ってる創造というのは、物質のもととなっている精神の創造のことを言ってるんだけど、「前」というのは文字通り現象世界(phenomenon)が現前(present)する場だよね。理由は分からないけれどもとにかく世界が現象化し、光とともに無数の存在物が僕らの身体の「前」に存在させられている。もちろん僕らはこの由来を露ほども知らない。これらは創造者からの純粋なる贈与として送り出されてきているわけだ。
藤本 ふむふむ。前は神からの贈与だと。
半田 そう。そして、その受取人が実は身体の後だということだ。後が前を受け取っている――つまり、世界がこうして存在しているということは男(神=万有)が女(人間=無)にプレゼントを渡しているようなものとしてイメージしてみようというわけさ。
藤本 ものすごいプレゼントですね。世界そのものを君にあげるよって――か。神ってカッコいいなぁ。で、そのブレゼントの目的は何なのですか?男が女に贈り物をするとすればそこには必ず下心があるはずですよね(笑)。無償の愛なんて言わせませんよ。
半田 そう、ある。やっぱりセックスだと思うよ。存在論的レベルでのね(笑)。
藤本 へっ?存在論的レベルでのセックス?何かすごいエクスタシー感じちゃいますね。
半田 いいかい。後には何もない。おそらく、そこは無底としての深淵だよ。この無の深淵を宇宙的な女性器だと考えてみよう。
藤本 夜は昼よりも深い。そして、女は男よりも深い。ってわけですね。
半田 そう。遥かに深い。遥かにね。たとえ神でもこの深淵には理解が及ばない。
藤本 だからこそ、男はその深淵に首を突っ込みたがる。いったいアソコはどうなってるんだと。。
半田 その通りだね(笑)。この無は「前」である神から彼のイチモツを奥深く挿入されている。神はその無底とも言える場の中に自らの性器を挿入し、そのまぐわいを快楽と感じながら精子をバラまいているんだ。それによって存在と存在者、すなわち現象世界が生まれている。
藤本 現象がこうしてある、ということ自体が存在論的セックス………?
半田 うん。そして、このときバラまかれている精子が実は僕らが言葉と呼んでいるものだと考えてみるのさ。
藤本 言葉が精子?
半田 うん。一般には言葉はコミュニケーションのための記号体系とされているよね。そして、この体系はサルから人間に進化する過程で人間の精神が自然に獲得してきたものだと考えられている。しかしヌーソロジーではそういう考え方は御法度だ。あり得ない。それは人間という存在を物質進化の結果の生成物としてしか見ることのできない科学信仰が作り上げた言語観であって、言葉というものはそんな底の浅いものじゃない。もっと存在全体に根を張った宇宙的な霊力と考えるべきだと思う。宇宙を創造した精神が事実としてどこかに存在している。それがヌーソロジーにおける仮定的前提だ。言葉といものはその精神が歩んだ足跡をあたかも遺伝子のようにして自身の体系のうちに内蔵させている。そして、それは光となって「無底」という名の女の腹の中に流れ込んでいる。そこに生まれているのが言葉ではないかとダイナミックに仮定してみようというわけだ。古代のアレキサンドリア人たちがよく言ってたロゴススペルマティコス(種子としての言葉)というやつさ。初めに言葉ありき。言葉の命は光であった――ていうね。
藤本 ………つまり、前が言葉を精子として後に流し込んでいるということですか?そこに人間が生まれている。。
半田 だね。たとえば生まれたての赤ん坊を想像してみよう。彼、彼女の意識には「前」しかなく、そこにはたぶん後はない。つまり、赤ん坊には無という観念はないんだ。赤ん坊にとってはただあるものだけが見えるものとしてただある。ここでいう「前」というのは純粋知覚の世界だ。その意味で言えば赤ん坊の意識は「前」である宇宙精神と一体化していると言っていい。つまりウロボロス的状態だ。しかし、赤ん坊はそのうち言葉を覚え始める。言葉というものは知っての通り赤ん坊の中に自然発生的に生み出されてくるものじゃないよね。それは親とか兄弟とか近しい他者によって言い伝えられ、教授されていくものだ。そして、当然、彼らは赤ん坊の背後からそれらの言葉を伝えるのではなくて、前から笑顔を以て伝える。ちゅばちゅば、とか、ぶーぶーとかいいながら、哺乳瓶や自動車のオモチャなどのモノを使ってね。つまり、赤ん坊は他者から投げかけられるモノへの眼差しや指差しによって言葉を習得していくんだ。
藤本 そうですね。赤ん坊が母親の視線や指差した方向を辿ってモノを眼差すというのは言葉の獲得にとても大切な条件だと心理学の本で読んだことがあります。でも、どうしてそれが赤ん坊自身の「後」と関係しているのでしょう?母親が指差して名指すものは赤ん坊にとってはやはり前にあるのではないですか?でないと見えないし。
半田 いや、赤ん坊にとっては「母親が名指しているモノは決して見えない」という意味でやはり赤ん坊の後にあると考えなくちゃいけない。
藤本 ?
半田 丁寧に説明するね。こうして僕と藤本さんが向かい合っている。今、真ん中にちょうど灰皿があるよね。僕が藤本さんに向かって「ここに灰皿があるよね。」と言ったとしよう。当然、藤本さんはそれを即座に了解する。しかし、ここで大事なことは僕と藤本さんは決して同じ灰皿を見ているわけじゃないということなんだ。僕が見ている灰皿の面は藤本さんには見えないし、逆もまたしかり。つまり、モノの前と後もまた身体の前と後と同じで、対峙し合う自他の関係においては、見える部分と見えない部分とか反転した関係にあるということなんだ。
藤本 でも、灰皿を回せば、僕が今見ている灰皿の部分は半田さんに見えるようになりますよね。
半田 そうだね。でも、藤本さんに見えていたその灰皿の当の部分は僕の方に回そうとした瞬間に見えなくなってしまう。結局のところ灰皿の全体像を僕と藤本さんが同じものとして同時に見ることは決してできない。たとえグルっと一回転させて互いがそれぞれに灰皿の全体像の記憶をとりまとめたとしてもそれらの全体像は決して3次元世界の中では重なり合うことはできないんだ。
藤本 なぜですか?
半田 さっき言ったように、二人が見ている空間が射影空間のオモテとウラの関係になっているからさ。
藤本 ということは、つまり。。他者によって名指されたものにおいては空間が反転しているってこと?。。
半田 そういうことになるね。射影空間として視像を見た場合、やはり向かい合う自他が見ているモノもそれ自体が反転しているってことだよ。そして、言葉や光ってのはその表裏を自在に反復して行き来している力のようなものなんだ。ということは、僕らが世界を言葉で構成し、その契機が他者からの言葉に依拠しているとすると、赤ん坊が最初に会得した言葉によって構築されていく世界は、他者の前世界が自己の後の空間にコピーされていっている世界ってことになる。つまり、言葉で認識が組み立てられている場所には実際には何もない。。。。
藤本 げっ、何もない無の場所に言葉が次々に投げ込まれていって、そこにある種ヴァーチャルな世界が、目の前に見えている世界を模写するようにして作り出されていっているということですね………ん?でも、それなら僕らはどうして言葉でモノの存在を相互に了解できるんでしょう?
半田 いい点をついてきたね。そのことについてはまた後で納得のいくように説明することになるよ。とにかく、今、考えてほしいのは、言葉の力はないものをあたかもあるもののように錯覚させる力を持っているということなんだ。そして、僕らが言葉によってモノの世界を認識しているということは、この言葉によって構成された世界の方を客体世界、つまり、外の世界だと思い込んでしまっているということなんだ。
藤本 ん~と、今、目の前にモノが見えている。しかし、これが灰皿だ。とか心の中でつぶやいて確認している灰皿自体は、その目の前に見えている灰皿ではなくて、もともとは他者に見えている灰皿で、それは自己にとっては前ではなく後の空間、つまり反転した空間に存在しているってこと。。。。あ~ん、頭がこんがらがってきました。。僕らが外の世界と呼んでいるものは他者にとっての「前」がわたしの「後」へとコピペされたもので、それはすでにわたしの「前」ではなくなっているということですね。じゃあ、「わたし」が今前に見ているものとは、それは外の世界ではないとすれば一体何だというのですか?
半田 俗にいう内側の世界さ。藤本さん自身だよ。いつも言ってるよね。「前」が本当の主体なんだって。つまり、「わたし」という精神自体が息づいているところ、それが「前」の正体なんだよね。
藤本 う~ん。。外の世界というのが言葉によって作り出された空間で、それが後の空間であるというのは何となくですが分かりかけてきました。だけど、前がなんで本当のわたしなんでしょう?泣いたり笑ったり、苦しんだりしているこの「わたし」自身のこころは前に存在しているということになるのですか?
半田 うん。たぶんそうだ。前にある。。。
藤本 どうしてそう言えるのですか?
――つづく
7月 8 2009
空間を哲学する——対話編その4
●男と男、女と女、そして男と女
藤本 なるほど、つまり感性=前が感じている時間というのは別に過去から現在というようにしっかりと秩序立てられて並んでいるわけじゃなく、今・現在の中にアーティストが作り出すコラージュのように順不同で一緒に重なり合っているようなもので、それを一週間前だとか一年前だとかを目盛りがついた物差しのようなイメージに沿って判断しているのは悟性=後が作り出している時間だということなんですね。
半田 後そのものが悟性というわけじゃないけど、ベルクソンが言うような「空間化した時間の場所」はおそらく後にあると言えるだろうね。その意味で感性の時間における「今」と悟性の時間における「今」というのは全く別な意味を帯びてくるんだよね。つまり、両者には絶対的な差異があるってことなんだけど。感性の時間における「今」というのはすべての過去を含んだ生きる現在そのもののことを言い、それは極端な話、ニューエイジがいう永遠の今と言い換えてもいいような今なんだよね。でも、悟性における「今」というのはそれこそ物理学でいう点時刻のように一瞬に過ぎ去ってしまう「今この瞬間」のことで、それは数量化されている時間の素のようなものでもあるよね。時間はこの二つの「今」があるからこそ時間として成り立っているのであって、物理的な視点だけで時間のことを考えてもほとんど意味をなさないと考えた方がいいんじゃないかな。
藤本 それら二つの時間もまた、身体における「前」と「後」の関係にある考えていいのですか?
半田 うん。ヌーソロジーの観点では互いに反転した4次元の関係にあるものと見なせるからそういうことになるね。「時間と別れるための50の方法」にも書いたように、4次元空間と4次元時空の関係にある。哲学的には持続と延長、内在と外在という言い方ができると思うよ。
藤本 4次元空間が持続で、4次元時空が延長ということですね。
半田 そうだね。ベルクソンと表現は逆になっちゃうけど考え方は同じだ。
藤本 う~ん、なるほど、「前」が4次元空間で僕らが内在と呼んでいるところ、つまり主体の世界。「後」が4次元時空で僕らが外在と呼んでいるところ、つまり客体の世界ということですね。
半田 まとめて言うとそういうことだね。
藤本 ヌーソロジーが身体の前と後をどう見るかということは何となく分かってきたんですが、となると、自己と他者の間ではこれら両者の関係も相互に反転した関係になっているということですか?
半田 そうだね。恐ろしいくらいに見事にひっくり返されていると言えるんじゃなかろうか。
藤本 でも、それだと話が少しおかしくなりはしませんか?
半田 どうして?
藤本 さっきの続きになりますが、たとえばここにある灰皿は、今、半田さんと僕の間で互いに共通して外在世界にある客体と見なされていますよね。
半田 そうだね。僕も藤本さんも外の世界にあるものとして見ているね。
藤本 ということは僕の外在認識が別に半田さんの内在認識にはなっているわけではないですよね。
半田 うん、なっていないね。
藤本 それはなぜなんでしょ?
半田 いいところをついてきたね。これでようやく例のアリストファネスの寓話に隠されている意味についてヌーソロジーの視点から話すことができるかな。。再度、おさらいしておくよ。あの寓話の中では、人間は太古の昔、背中同士がくっつき合った生き物だったとあったよね。これはあくまでもヌーソロジーからの解釈になるけど、この話は決して人間の物質的肉体がシャム双生児のようにくっつき合っていたという意味じゃないんだ。霊的な身体の問題を言ってると思ってほしい。
藤本 霊的な身体?
半田 うん。さっきから僕が身体空間と言っている身体における前後、左右、上下という空間のことさ。背中同士のくっ付き合いということは、特に自他の身体空間における前後を問題としていると思ってほしい。
藤本 太陽が男・男の背中合わせ、地球が女・女の背中合わせ、月は男・女の背中合わせというやつですね。
半田 うん。とにかく話を分かり易くするために図を書いて説明してみよう。
藤本 お願いします。
半田 まず、今、僕と藤本さんがモノを挟んでこうして向かい合っているとしよう。青い矢印が僕の「前」と藤本さんの「前*」を表し、赤い矢印が僕の「後」と藤本さんの「後*」を表している。僕と藤本さん、それぞれの前と後はこの図のように互いに重なり合って存在させられていることが分かるよね。
藤本 はい、確かにこの図のような関係になっていますね。
半田 さて、さっきも言ったように前は現実として”見えている”ものであり、そして、その奥行き方向は完全に潰されているので、視野空間上においては長さ無限小にまで縮められてモノの中心点と重なって同じものに見えているはずだよね。
藤本 視野空間は面としてしか見えていないからそういうことになりますね。
半田 そして、このとき気をつけなくちゃならないのは、この無限小にまで縮められた「前」はもう3次元空間(x,y,z)の中のz方向としての奥行きではなく、それは時間でもあるのだから4次元としての方向を持っているということなんだ。
藤本 分かります。モノだけの世界ならばモノからの空間の広がりは3次元と見ていいけど、そこに観測者、つまり見ることが関与していると、その見るという出来事が起こっている空間は4次元になっているということですね。
半田 おお、優秀!!ヌーソロジーの言ってることが呑み込めてきたね。
藤本 半田さんの分身ですから(笑)。
半田 するとどうなる?この4次元方向は3次元空間の中で見るとモノの中心である0点付近にごくごく短い4次元の矢印として入り込んでいるということにならないかい。
藤本 3次元の中に映し出されるのであればそういうことになりますね。
半田 だろ。で、ちょっと信じ難いかもしれないけど、さっきも言ったようにこの潰れた奥行きの中には一秒前のモノ、一時間前のモノ、一週間前のモノというように、それこそモノの認識を支えている記憶の連なりがイマージュとして入り込んでいる。つまり持続の場所になっているわけだ。
藤本 モノの背景にある空間の方向のすべてが縮まって全部入り込んでいるということですね。。。
半田 うん、奥行きが射影として潰れているということだから、アバウトに言えばそうだ。ヌーソロジーのいう精神の位置だよ。そして、こうした精神が僕側だけではなく、当然、藤本さんの前である前*側にも存在している。だから、藤本さんの精神*も今度は、僕の精神が入り込んでいる方向とは逆方向から同じく極めて短い矢印としてモノの中に入り込んでいるってことになる。
藤本 モノの中心点を中央にして、長さがほとんどゼロに等しいお互い逆方向の矢印として入り込んでいるというわけですね。
半田 だね。これら二つの矢印を図として表すとこんな感じになる。
藤本 あれぇ〜、僕と半田さんそれぞれの前が身体ではなくモノの中心から始まってます。これはどうしてですか?
半田 「前」が主体であるということが分かるとモノの手前に存在していると思っていた身体の位置がモノの中心点にあるように感じてくるからだよ。
藤本 身体がモノの中心点にあるように感じてくる………?
半田 うん。普通、僕らは自分の身体が見えているモノの手前側にあると思っているよね。でも、これは人間の内面の意識によって把握されている身体の位置だと考えるといい。つまり、いついつの何時何分には身体はどこどこの位置にありました、っていうときの物質としての身体の位置だ。これはあたかもモノのようにして捉えられている身体だから、他者から見た自分の身体、つまり、鏡像空間に存在している鏡像的身体だってことになるよね。いつも言ってるよね。自分の顔、もしくは目玉は自分じゃ決して見ることができない。なのに僕らは他者の目に映っている自分の顔や目を想像して、それらをあたかも見えるものとして認識してしまっている。そのようにして認識された身体の位置がモノの手前にいると感じられている自分だってことなんだ。でもほんとうの主体(実像)は今までずっと説明してきたように「前」そのもののとして存在している。前はモノの中心と重なっているだろ。だから、生きられる空間に位置しているほんとうの身体というのはモノの中心に位置していると考えるべきなんだ。
藤本 それってもう肉体ではないってことですよね。
半田 うん、物質的な肉体じゃない。そこに記憶が入り込んでいるならば精神そのものと考えるべきだ。
藤本 ということは、ヌーソロジーのいう精神とはモノの中にあるってことなんですか?
半田 3次元的な表現ではそうなるね。モノの中に微小な4次元となって息づいている。つまり、僕の精神と藤本さんの精神*は背中合わせでくっつきあっていて、モノの中でこの図に示したような二本の青い矢印として存在しているってことなんだ。青い矢印は精神=男なるものを表しているから、この様子がつまり、男・男が背中合わせになっている状態だということになる。
藤本 それが太陽の子ってことですか?
半田 そうだね。モノの中に入り込んでいる精神の対化が等化されている状態だ。物質を作っている本質的な力のことさ。具体的な説明はここではできないけど、この男・男の一体化(等化)はいずれヌーソロジーの中では太陽の中で起こっている核融合の本質力として語られて行くことになるんだ。
藤本 核融合。。
半田 OCOTも言ってたろ。なぜ、太陽は燃えているのか?って。
藤本 『人神』の内容ですね。
半田 うん。太陽が燃えている理由を一言でいうと、それは創造の精神が人間に物質という概念を与えるため、と言えるだろうね。客観的世界に物質が存在する。。そうした概念はどうやら太陽の核融合が原因になっているようなんだ。いや、逆かな?人間が客観的物質概念を意識に形作っていることが太陽の核融合を起こしていると言っていいのかもしれない。。
藤本 それって、つまり、人間型ゲシュタルトそのものの力ってことじゃないですか。何でですか?理由が知りたいなぁ。。
半田 一言じゃ語り尽くせない。興味があるなら、これから先もじっくりとヌーソロジーを追っかけるといいよ。詳細に説明していくことになると思うから。
藤本 ん〜、楽しみだなぁ。分かりました。じゃあっと話を戻しますね。。反対に僕の後*と半田さんの後が結合しているものは何になるんですか?
半田 赤い矢印同士の結合かい?それが僕と藤本さんが共通認識として持っている時空のことだね。つまり、物理的客観世界の広がりのこと。これが女・女が背中合わせになった地球の子って意味だろうね。とりあえずこれも分かり易くするために図で示しておくことにするね。
藤本 あれっ、この図でも後がモノの中心点から始まってるなぁ。
半田 そうだね。人間の外面が見えてくると、モノの手前側と認識されている方向はすべて人間の内面、つまり後と見なされてくるようになるってことだよ。
藤本 ははぁ〜ん、それってつまり、モノ側から自分の方向に向かってくる矢印の方向だから、自分にとっては背後方向として見なされるってことですね。
半田 うん、しょうゆうこと。方向性が問題なんだね。
藤本 ということは、僕と半田さんの前同士がくっついたものは物質になっていて、後ろ同士がくっついたものが時空になっているってことですかね。
半田 正確に言うとちょっと違うんだけど、今はそう考えていいよ。男・男*結合と女・女*結合が物質と空間という二元性として現れているってことだね。
藤本 そうか。。二元性というのは男と女のことをいうのではなくて、男・男と女・女のことを言うんだ。
半田 うん、初めにもいったよね。宇宙を流動している力の性関係はよく言われているように陰と陽の二種類だけじゃないって。それらは「わたし」と「あなた」の関係と同じように互いに反照し合っていて、陰と陽、陽*と陰*という四値的な関係でできているんだ。つまり、陰陽が互いに捻れの関係にあるってことだね。だから、意識の構造について考えるときは必ずこの捻れを念頭において考えなくちゃいけない。
藤本 二元論という考え方そのものが二元論からは決して抜け出せない構造になっているということなんですね。
半田 二元論的な思考や弁証法的な思考の中には他者がいないということさ。だから、二元論者たちは自他さえも「二元」の関係で捉えてしまうことになる。自他は二元ではなくて、四元でしか語れないはずなのにね。
藤本 じゃあ、男・男*、女・女*ときたわけだから、男・女にも男・女、男*・女*というような二つの種類があるということですよね?
半田 そうだね。その働きを持ったところが月だと考えるといいよ。アンドロギュノス的存在の意味だね。この月の力が女・女である時空(=地球)と男・男である精神(太陽)の間を天使的な力として行き交っている。OCOT情報にもあったよね。「月は自己と他者の間を行った来たりしています。」って。つまり、月というのは人間が精神の方向を持たされている状態の象徴なんだ。これが無意識と呼ばれているものだ。だから、人間の外面と内面を持ち合わせている。言い換えれば、肉体そのもののことだね。精神が宿った物質。。
藤本 ということは、太陽が精神、地球が時空。その地球に太陽が映し出されると物質になっていて、地球から太陽、太陽から地球の往復路に月が働いているってことなんですね。
半田 キリスト教的に父と子と聖霊の三位一体と言いたいところだけど、これでは女なるものが抹殺されている。正確には父と母と子の三位一体とすべきなのにね。ここにキリスト教の欺瞞があると思うよ。イエスは単なる子ではなく聖霊としての子だと考えると、処女懐胎なんて話には絶対ならないからね。でも、人間世界が母になってしまうと、神にとっては非常に都合が悪い。なぜなら、神を生んだのは実は人間ってことになるからね。だから、隠蔽のために子を産める万能の父が必要だった。「われらがすべて神の子なり」とする万能の父がね。キリスト教だけじゃなく宗教は物質世界を見下し精神主義に貫かれているという意味で、すべて父権的なんだよ。これじゃだめだ。ほんとうのことが見えてこない。ほんとうのことが見えてくるためには、精神なる父と時空なる母が対等な存在として現象の中で向かい合わなくちゃならないんだ。
藤本 物質もまた重要だということですね。
半田 そう、精神と物質を対等なものとして見れる思考が必要だということさ。それによって、物質はそこから放たれる光の中に新しい精神を宿すことができる。。
藤本 ほんとうの子としての聖霊だ。。
半田 月の目覚めだね。妊娠だ。言葉がカタチになること。。月の中に次代の太陽となるべく新しい精神の子が生み出されてくるってことさ。そのとき、僕らは大いばりで言っていいと思うよ。僕らがすべてイエスなんだって。
藤本 わあ〜、なんかすごい話になってきたなぁ。何だかヌーソロジーは宗教を哲学や科学によって証明する作業のようにも思えてきました。アリストファネスの話にしても単なる神話的なおとぎ話じゃなくて、宇宙的な摂理を分かり易く喩えたものだということかもしれないですね。太古の人たちは今、半田さんが言ったような物質と精神の関係を知ってたんだ。きっと。。
半田 ヌーソロジーの考え方で言えば、当然そういうことになるね。人間は時が経てば経つほど宇宙的な真理から疎外されていく。でも、その疎外は単なる忘却ではなく、新しい想起(アナムネーシス)のための忘却だと考えるといいよ。宇宙は忘却の果てに必ず想起に向けて方向転換する運命にある。宇宙の意思の展進がそうさせるんだ。この発進によって人間は人間の内面に張り巡らされたあらゆる価値のネットワークの転換をはかり、そこにイデアを見出し新しい宇宙の創造を始めるビジョンを持つってことなんだけどね。
藤本 ヌーソロジーが語るアセンションですね。
半田 そう。今は月の中に眠ってて見えないけど、無意識を構成する高次元の存在物を知性の対象として把握することが可能になるってくるってことだ。そういう時代が今から確実にやってくる。だって、僕みたいなパンピーがこんなことを言っているのも、その兆候だと思わないかい(笑)。
——おわり
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: アセンション, アンドロギュノス, イマージュ, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 人類が神を見る日, 内面と外面, 弁証法