1月 8 2015
神の撤退
ドゥルーズはモナドを神の逆数として定義している。すなわち神が∞であるなら、モナドは1/∞であると。時空という場の同一性はこの神の∞に由来し、自我の思考もまたこの∞に付き添っている。宇宙は巨大なもの、時間は無限等etc……。
言うなれば、神の創造の惰性のままに人間はより大きな財、より永き寿命、より巨大な権力、より強大な国家というように、マクロを志向するクセをもたされているというわけだ。
「創造の原初には悪が混じっていた」といた考えるのがルーリアカバラだが、自分自身を神と見間違えたこの自我が持った「より大きな、より永き」への志向性。今やこの志向性は「悪」と呼べるところまで育ってしまったのではないか。おそらく、この「悪」を払いのけるために神は世界から撤退する。
神の世界からの撤退——それがルーリアカバラの革新性でもあった。そしてこの撤退はツィムツーム(収縮)と称される。つまり、神は∞から、その逆数1/∞へとモナド化を決行するのだ。この神の身振りが「幅で支配された世界から、奥行きの世界への反転」にリンクしている。世界は今、再び、その局面へと入ろうとしている。
時間と空間という幅で支配された世界に物質は出現しているかのように見えるが、この出現は仮面であって、その背後には何もない。その背後には無以外の何物もない。物質の原理はすべて神の収縮の中に隠されている。だから、いま、ここに、神と共に収縮を試みること。
それが、世界を時空ではなく、複素2次元空間として見るということの意味合いででもあるだろう。
7月 6 2016
サタンからジュピターへ
君が奥行きで世界を感じとっているとき、そこは密閉されたモナドの内部である。しかし、君が幅で世界を感じ取っているときは、君はそこからはじき出され、君自身のモナドをミクロ世界の中に見ることになる。この通り抜けの空間感覚に敏感になることが必要だ。君は小人でもあり巨人でもあるのだ。
デカルトは魂と肉体が点的な場所で接すると考え、それを松果体の位置とした。しかし、それではまだ幅好きの巨人の意識に支配されたものの見方だ。松果体の本質は特異点としての無限遠点である。物質世界と魂はそこで接している。
肉体は日々、この接点における巨大でもあり微細でもある振動を感知している。呼吸という活動もまたこの二つの領域をまたぐ反復を担っているのだ。熱せられるか冷やされるか、消滅するか出現するか、そして、生きるか死ぬか。
わたしたちは皆、魂を持つ。それを忘れてはいけない。
「観点の球面化」とはモナドの輪郭をトレースしていく原初のヌースの運動である。このときの球体の中心点は非局所的点となる。この運動の物理学的表現が大局的位相変換ψ’=e^iθ・ψだろう。この操作は時空上のすべての点の位相を一斉に同じ大きさだけ変化させる。非局所なのだから当たり前だ。
意識は経験や学習など部分の寄せ集めによって生まれるのではない。それは最初から非局所として働く大局的な能力であり、全体の状況を瞬時にして考慮することができるものなのだ。こうした意識の特性を素粒子ほど如実に表現している現象野は存在しない。魂は収縮して現れる。それを推して知るべし。
人間の知の最大の障壁は素粒子が未だに物質と見なされていること。それに尽きる。今のわたしたちに一番必要なのは空間に対するゲシュタルト変革だ。幅から奥行きへ。土星の巨人族から木星の小人族へ。そう、サタンからジュピターへ。クロノスとアイオーンの戦いは始まっている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: デカルト, モナド, 奥行き