7月 8 2016
プラトン―アリストテレス断層
天上に目を向けるか地上に目を向けるか。もしくは、価値基盤を普遍的なものに置くか個別的なものに置くか。言い方はいろいろだが、哲学的は常にこのプラトン-アリストテレス断層のズレを巡って思考を振動させてきた。ここで断層という言い方をしているのは、両者が二者択一を余儀なくするからだ。
目に見えない真理の世界を求めようとすれば現実はおろそかになる。方や、現実を一生懸命生きようとすれば何か大事なものが失われていく。それはおそらく誰もが感じている人生においての最大の矛盾だろう。哲学の使命はこの調停をいかに諮るかにあったと言ってもいいのだが、未だに成功例はない。
思弁的実在論がカント主義や言語哲学の呪縛から離れ、再び「物自体(イデア的なもの)」にベクトルを向けようとしている状況は個人的には実に喜ばしく思っているのだが、この思潮には必ずアリストテレス的な引き戻しの激震が起こるだろう。
イデア的認識には、それが見えないものだけに、常に妄想的思い込みがつきまとう。一見もっともらしい形式を立てようとも、その正当性を指し示すための「見えるもの」としての論拠がない。
学的認識はそのようなリスクを持つべきではない、というのがアリストテレス的姿勢だから、まっとうなイデア論がまともに立ち上がるためには「見える論拠」が必要なのだ。思弁的実在論がドゥルーズからの後退に思えるのも、この「見える論拠」を放棄した詭弁にしか聞こえないからだ。
カント主義者たちは思考と世界、経験とアプリオリは常に相関していて、人間はこの相関の外部に出て思考することはできないとしたが、果たしてそうか。外部性としてのイデア世界はドゥルーズが直観したようにこの相関の形式そのものを立脚点として在る。あとはその論拠を素粒子として「見せる」こと。
そうすれば、思弁的実在論はもはや思弁的でもなんでもなく、正真正銘の実在論となって科学的実在論や素朴実在論を自らの影として従属させていくことになるだろう。ここおいて初めてプラトン-アリストテレス断層はその深い溝を消し去ることができるのだと思っている。
9月 30 2016
生産的性愛の奪回に向けて
思考する主体、思考される世界、さらにはそれを保証する神―これらは言葉を変えれば、超越論的自我、経験的自我、さらにはこの両極を反復させている慣性と言っていいだろう。この反復を逆転させることによって永遠回帰の現実がやってくると考えていいと思う。それが反転認識の目指すところだ。
思考する主体は持続において素粒子の中に潜り込んでいる。一方、思考される世界は架空の時空間的延長性の中にデッチ上げられている。この二つを反復させているものは上層に棲みついている父。母は父の言いなりになっている。彼らの間ではまともな性愛など営まれていやしない。
ヌーソロジーがユダヤ的精神と呼んでいるものはこの父のことだね。陰謀論を喚き立てても何も変わらない。この父を告発しないことには何も変わらない。そして、厄介なのはこの父の亡霊が今や全ての人間に棲みついているということ。
根は底なしに深いよ。
もちろん、ユダヤ的精神の中にもレジスタンスは存在している。それがカバラだね。ルーリア・カバラはこの父と母との間の性的不全を看破している。この性的不全によって「器の破壊」が起こっていると語るんだ。つまり超越論的自我が沈み込んでいるということ。魂(素粒子)が見えなくさせられているってことだけどね。
創造されたものと創造するものの境界には「器」があるんだよ。ドゴン族はそれをフォニオと呼んだし、古代日本人はそれを「石神(シャクジ)」と呼んだし、プラトンはそれをコーラと呼んだ。現代の物理学者はそれを素粒子と呼んでいるだけ。境界を打ち破ろう!!
【追記】
ルーリア・カバラが語るこの父と母との間の「性的不全」。気になるよね(笑)。ルーリアによれば、二人は互いに背を向けているらしい。互いに無関心だってこと。要は仮面夫婦になっちゃってる。神様が仮面夫婦を装ってるんだから、人間にその影響が及ばないはずがねぇーだろ、って感じかね(笑)
互いに背を向けているんだから、つまり、まともに見つめ合っちゃいない。後ろばっか見ている。。。。もう分かるよね。この意味。「前」に向かえよ、ってことなの。そしたら、ちったぁまともなセックスができるぜ、ってね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カバラ, ドゴン族, フォニオ, プラトン, 素粒子