10月 3 2022
洞窟の中の囚人たち
外なる事物も他者なるものも、私が見ることによって存在しているわけじゃない。本当はまったく逆で、他者に見られることによって私が登場し、その後で、物なり経験的な他者が私の意味づけの中に登場してきている。受動性が外在感覚を作っているということ。まずはその感覚を蘇らせないといけない。
となれば、その謎めいた他者に見られる前の私とは何者かということになる。そこに内在性が息づいているのであり、それを目覚めさせることが、自覚ということになる。
時空と素粒子の関係とはまさに、ここでいう外在感覚と内在性の関係にある。
他者構造によって存在(内在性)が尽く引き抜かれ、世界が存在者による単なる「ある」の世界になっているのが今の世界だ。この「ある」の世界は内在に方向を持つ「いる」が働いていなければ、実は無も同然の世界と言っていいだろう。というのも、この「いる」の土台にすべての存在者を生み出す「なる」の方向が控えているからだ。
この「いる」の土台こそが、ヌーソロジーの文脈から言えば、素粒子であることは言うまでもない。「純粋な前(奥行き)は素粒子の内部である」とはそういう意味だ。だからこそ、世界は素粒子から「なる(生成する)」という物語を今現在、形作っているのである。
存在論の問題提起を今一度思い出そう。
「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」-M・ハイデガー
11月 25 2022
客観空間と主観空間の奥に潜むもの
瞬間と持続。時間の成り立つ要素をあえて二つに分けろと言われたなら、僕は迷わずこの両者を挙げる。客観空間としての時空には瞬間という点時刻があり、主観空間には奥行きの名において持続がある。そう考えるのがヌーソロジーだ。
客観空間には物質があり、主観空間には精神がある―と言い換えてもいいだろう。私たちはこの二つの空間に跨って生きていて、意識は両者の間で揺らいでいる。ただ、いかんせん、私たちの常識は客観空間を常に優先させ、主観空間はそれに従属するものでしかない。精神は軽んじられているということ。
主観空間が客観空間に従属している限り、それは知覚空間としてしか現れることはない。眼差しの中に延長の残り香が混じってしまい、物はどうしても対象にしか見えず、物の即自としての奥行きが意識に立ち上がってくることはない。エポケーが不十分なのだ。フッサールも終生そうだった。
知覚空間に対して、持続は「私がいる」という感覚を意識に与えてくる。そして、その「私がいる」という感覚が働いているからこそ、客観空間に「物がある」という感覚が芽生えている。問題は、いかにして「いる」場所から「ある」場所へと意識は遷移したのかということ。
これは「いる」と「ある」の間で揺らいでいる意識には永遠に解けない謎だ。現象学は果敢にもこの謎解きに挑んだのだが、「いる」感覚を引きずったまま、逆方向から「ある」の世界へと遡行しようとしたために、結局は迷路に入ったまま、そこから出られないでいる。
いつも言ってるように、現象学には「なる=存在(生成)」の位相がないのである。
それを最初っから見抜いていたのがハイデガーで、ハイデガーはこの隠された生成の場に「時間性」を見ていた。生成としての時間性。人間の場合、この生成の位相は「何事かを為す」という行為の場として働いている。私たちが何事かを為すことは、自然が何物かを成すということに準じているということだ。
こうなると、時間は私たちが、その内部で生きている一つの場所性というよりも、自分自身の生と不可分な構造を持った、まさに自己自身の精神の有り様として感じ取れるようになってくる。主観空間(持続)から客観空間(瞬間)への超越論的な遡行も、このような時間感覚抜きには起こり得ないだろう。
ハイデガーはこうした時間性を有限なものとしたけど、ヌーソロジーの場合はこの時間性の構造をそのまま素粒子と接続させて、意識は無限の時間性へと出ることができると考える。つまり、”何事かを為す領域”から”何物かを成す領域”、自然の生成領域へと赴くことができると考える。
おそらく、それ以外に自然が今こうしてあることに根拠を見つける術はないだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ハイデガー, フッサール, 素粒子