6月 4 2013
『2013 :人類が神を見る日』に込められた真意
ちょっと難しい話にはなりますが、ここで挙げた話はとても重要です。。。
「認識が対象に従うのではなく,むしろ対象のほうがわれわれの認識に従わなければならない」。。ご周知の通り、これはカントのかの有名なコペルクス的転回というやつである。人間(主体)が対象(客体)を認識するときは,人間の認識の形式に従って対象が現れているのであって、前もって客観世界が存在するわけではない。そして、なおかつ、人間の認識と離れて存在するような世界=もの自体を人間は認識することができないという内容だ。
この人間の認識の形式というのが、カントに言わせれば直観の形式としての「時間と空間」である。カントはこの時間と空間がわれわれ人間の経験の不可欠な条件になっているというのだが、では肝心の時間と空間の認識が成り立つための超越論的条件とは何かということになると、それについては問うていない。
これではやはり超越論的哲学としては物足りなさを感じてしまうし、時空がもし超越論的自我の形成条件と同じものであったとしたら、カントはドゥルーズが言うようにデカルトの自我の哲学をより強固な「主体性の哲学」へと進化(退化?)させてしまったことになる。
さて、時空の超越論的な成立条件とは何か?ドゥルーズはそれが構造としての他者だという。これはとても重要な指摘である。しかし、ドゥルーズも構造としての他者が具体的にどのようにこの時空の成立に関わっているのか、『トゥルニエ論』などでいろいろと述べてはいるものの構造的背景はあやふやである。
おそらくこのへんの構造は数学的にきっちりと定格化できるのでないかと思う。その骨格となるのがいつも僕が言っている「複素2次元空間」というやつなのだ。これによって少なくとも物理学的には時空の成立条件を規定できる。具体的に書くと
SU(2)L×SU(2)R→SL(2.C)→SO(1,3)というやつで、互いに向き付けの違う複素2次元空間での回転を合体させると時空(ローレンツ群)ができるというものだ。これはヌーソロジーの概念ではψ7×ψ*7→ψ8という関係を意味している。
もちろん、こうした「複素2次元空間」といった数学的概念と哲学的概念をすり合わせるときには、複素空間とわれわれの知覚野の対応をある程度、明確にしておく必要があるのたが、その対応は腰が抜けるほどシンプルなものである。それが僕が常々言っている知覚正面=実2次元、奥行き=虚軸(ここで虚軸は純粋持続の軸として考え、収縮しているものとする)。という仮定だ。ここにもう一本、他者の虚軸(奥行き)を加えることによって、実2次元+虚2次元の複素2次元がとりあえずは設定できる。
まぁ、幾つかの段階のステップはあるが、この構造の中で回転の層を作ることによって、スピノールのSU(2)Lという群が出来上がってくる。もう一つは、他者側から同じステップを分で同じ構成を作ればよい。それでSU(2)R群の出来上がり。あとは二つを合体させて、SU(2)L×SU(2)R→SL(2.C)→SO(1,3)というかたちで時空のできあがりというシナリオだ。
この仮説がもし本当で、その認識を多くの人が共有できれば、はっきり言って、その効果は人類の文明を大きく変える力を持っていると思う。というのも、こうした超越論的構成をそのまま物質の基礎の構成へと接続させていく思考が可能になってくるからだ。つまり、思考によって物質をその根底から再-創造していく可能性が生まれてくるということだ。
カントが人間が決して認識することができないとした「もの自体」(実はこれがnoos)が、実は「経験」の不可欠な条件として付与された時空の超越論的条件として現れてくるということ。これは哲学的にも極めて美しい推論だし、ドゥルーズなりのニーチェの永遠回帰のビジョンもこの超越論的なものと発生論的なものの重なりにあったことを考えれば、至極まっとうな考え方でもある。
ここは、スピ系の人にもよーく聞いて欲しいのだけど、『2013:人類が神になる日』とはこうした思考の芽生えの到来の日のことを言うと思ってほしい。創造の思考によって今までにはなかった新しい情動と感性を引っぱり出してくること。それがヌーソロジーの魂の顕在化に対するスタンスである。
6月 6 2013
「奥行き」と『2001:A Space Odyssey』
奥行きと幅について考えてると、まるで目の前の空間にポッカリとワームホールが空いたようで、どんどん深みに引き込まれ、おまけにグルグルと旋回ひねりが入っていくものだから、脳みその関節がガタガタに外されて、今まで抱いていた共通感覚=良識というものが木っ端みじんに粉砕されていく。
そこで今日も、存在論的妄想をひとつ。
まず、奥行きは時空ではない。では一体どこなのか——奥行きは空間的には無限小の中にしか指し示せない場所であり、時間的には「すべての時間を懐に抱いたところ」としか言いえないような非-場所である。そして、なおかつ「それは何か」と問うこともできない。というのも、それは「それ」といったような対象ではもはやないからだ。自らが自らをあらしめているもの。その存在のため他のものを一切必要としないもの。まさに哲学的な実体とも言えるような何ものかである。よって、そこに主体が持った意識の志向性などといった野暮ったい概念を持ち込むことももはや許されない。いわば奥行きは空間の即自体でもあり、時間の即自体でもあり、もっと言えば、認識、思考の即自のような場所ではないかと感じるのだ。このことに感応したとき、以前は、「これぞ真の主体だ!!」などと言って舞い上がっていたのだが、奥行きの深みに居づけば居づくほど、この非-場所を単に「真の主体」とか「永遠」とか安易に呼んでいいものかどうか。。
ドゥルーズは『差異と反復』の前書きで次のようなことを言っている。「現代哲学のなすべき仕事は、〈時間的-非時間的〉、〈歴史的-永遠的〉、〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服することにある」と。そして「時間と永遠性よりもさらに深遠なものとしての反-時代的なものを発見すること」と。
奥行きの本性は確実にここでドゥルーズがいう「反-時代的なもの」につながっているような感覚がある。反-時代的というのは別に時代に抗って自然に戻ろうとか、そういうことを言ってるわけじゃない。世界がこれまで進んできた方向に対して、その大本からUターンすることである。神秘主義的に言えばプロティノス的転回とでもいおうか、つまり、所産的自然としての精神の営みから能産的自然としての精神の営み、つまり世界を創造していく能動的諸力への変身を果たすということだ。ニーチェ=ドゥルーズならば、迷わず力への意思と呼ぶに違いない。
と、ここで、いきなり『2001:A Space Odyssey』のオープニングが。。。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGMとともに、月の向こうからゆっくりと地球が現れてくる。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜そして今度はその地球の向こうからまばゆい光を放ちながら太陽が昇ってくる。。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜嗚呼、なんという黙示録的ビジョン。
月の力を太陽の力へとメタモルフォーゼさせる地球という名の原初的精神。反時代的なものとはまさにこの「始源」へと突然変異したところの地球のことなのだろうと思う。奥行きに沈み込んでいた永遠としての月の潜在的諸力が、奥行きの開示と共に地上でうごめいていた知覚や言語や情動や思考のすべてを飲み込んで、太陽の内包性へと接続を果たしていく。わたしたちはそこに放たれるそのあまりの光の透明性にもはやモノを見ることはなくなり、観ることそのものへと変身を遂げていく。
ここに地球という天体の意義、つまり大地の意義がドゥルーズのいう〈時間的-非時間的〉〈歴史的-永遠的〉〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服するものとして立ち上がってくのだと思っている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: 2001年宇宙の旅, ドゥルーズ, ニーチェ, 奥行き, 差異と反復