11月 6 2009
『BETWEEN TIDES 生命の音楽 第二章』
年末に東邦大医学部の大野さんとの対談の企画が持ち上がった。主催してくれるのはアーティストの日比野さん。去年の暮れも日比野さんのコーディネートでマヤ暦の日本への紹介者でもある高橋徹氏との対談を行ったが、今回はその第二弾ということらしい。題して——BETWEEN TIES 生命の音楽 第二章——。
大野さんとはもう10年以上の付き合いになるが、渡瀬恒彦似のナイス・ミドルで、飲み屋にいったら確実にモテモテのタイプだ。その点ですでに劣勢なのだが、さらにヤバいと思われるのは今回の対談の内容がおそらく「生物界」においての生命力を中心とした話になるのではないかということ。コーディネーターの日比野さんも、大野さんもシュタイナー思想にかなり詳しい。シュタイナー思想における生物観とヌーソロジーにおける生物観は極めて酷似しているのだが、いかんせん、ヌーソロジーは未だ素粒子近辺をうろついていて、単なる素粒子から一体いかにして生物という自己組織化の能力を持った物質のシステムが生まれてきたのか、その論証については、まだまだ具体的なビジョンが立ち上がっておらず何とも心もとないのだ。要はヌーソロジーはまだまだ青臭くて生物の話が苦手だということ。ひぇー、どげんしよう。。。
昔、僕はよく、単なる物質世界と生物世界の関係を「火と土」と「風と水」の関係に喩えて話していた。つまり、火と土は鉱物的世界(無生物と言ってもよい)の象徴で、その火と土の世界に風と水が加わることによって生物の場が誕生するのだと言ってきたということだ。ここでいう火と土はイデアの力と言ってもよいのだが、この両者の力はある意味、線形的で、直線的な生成活動として現れる。鉱物の結晶などがそのいい例だ。この働きの場は地殻や地球内部で想像されるようにケイ素と熱(火)の力で成り立っている。
生物にとって、まぁ、動物に限って言えば、この火と土の現れは「骨」だ。骨はカルシウムという鉱物を主成分として、あたかもロウソクから立ち上がる炎のような形態を持って動物の体躯を支えている。
ならば筋肉や内蔵を生成させている力の淵源はどこにあるのか——それが風と水で象徴されるロゴスとパトスではなかろうかと考えるわけだ。これらはイデアという通底器に沿って動いている精神と心のようなものである。この風と水が再びイデアを求めて運動を繰り返していくことによって、その間、経験する逡巡、矛盾、落胆、理解、歓喜、慟哭、憎悪、安寧といった情動の数々が生き物の原型を作っているという感覚が僕の中にはどうしてもある。
イデアはロゴスとパトスを生んだ。何のため?
それはイデア自身が新しいイデアとして自らを再生させるため。
それ以外に一体、何の進化があろう?
まぁ、こんな抽象的な感覚しか実感としては感じていないから、とても論理立てて生物について話せるような知識も技量もない。しかし、大野さんの持った生物に関する博識な知識と日比野さんが持った女性アーティスト特有の鋭い感性にシュタイナーの世界が加わり、その連合隊にヌーソロジーが玉砕覚悟で体当たりすれば、何か新しい生命の飛沫が飛び出してくるかもしれない。また訳の分からないことを吠えまくるかもしれませんが、お時間がある方は是非、遊びにいらして下さい。きっと今まで聞いたことのない生物観が三者の間で爆裂すると思います。
この対談イベントに関する詳しい情報はこちらへ→『BETWEEN TIDES 生命の音楽 第二章』
10月 16 2010
イデアになるということ
世界には浮き上がるもの(現勢性)と沈み込むもの(潜勢性)がある。
浮き上がるものが物質だとすれば、沈み込むものとは魂のことだ。
物質の浮き上がりは魂の沈み込みによって起こっている。
浮き上がりの世界だけを見ているだけでは、浮き上がりの理由は決して見えない。
同様に、沈み込みの世界を見ているだけでは、沈み込みの理由も決して見えない。
魂は魂という同一性の檻に閉じ込められており。
物質もまた物質という同一性の檻に収監されている。
タイプは全く違えども、ともに囚れの身であることに違いはない。
双方をこの檻から解放するためには差異化のビジョンが必要だ。
ここでいう差異化とは沈み込みが自らを浮き上がらせている運動のことをいう。
僕らは沈み込むものに対してもっと自意識的にならなければならない。
沈み込むことに対して自意識的になれたとき、物質は魂に見えてくる。
イデアになるとは、そういうことだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: イデア