3月 9 2006
平尾絶滅
わたしの会社のオフィスは福岡市南区の平尾というところにある。オフィスから歩いて2分の場所に、西鉄平尾駅という私鉄の駅があり、この駅は福岡の都心部である天神から電車で5分ほど、ほんの二つ目の駅に当たる。さて、この平尾駅だが、最近、ついに駅ビル化した。どんなビルになるのかさほど興味もなかったが、いざリニューアルオープンとなると野次馬根性が出て来るものだ。さきほど、散歩がてらに駅ビル周辺を徘徊してきてみた。
「………………。」
ダサイ。。一体、西鉄という企業は何を考えているのだ。「駅」というものに対するコンセプトが何も感じられない。駅ビルは17階建てなのだが、4階以上はすべて居住用マンション。3階まではテナントが入っている。平尾という街は東京で言えば、広尾から白金台当たりに当たる高級住宅地である(かなりの無理があることは認める)。街全体の今後を占う意味で、この駅ビルの出来不出来は極めて重要なポイントだったと言える。それなのにである。それなのに外観はサイテー、テナント企画はあまりにショボすぎ。今どき、素人でもこんなプランは立てない。。
1階には、「やりうどん」という地元の売れないうどん屋。もう、この一撃で平尾駅近辺の将来はすべてが決まったようなもの。このうどん屋は傍らでまずい冷めた回転焼き(東京の今川焼に当たる)を地味に売っている。その隣には訳の分からない今流行のLOHAS族を相手にした「母と子の喫茶店」が並ぶ。この店舗、絵本がショーウィンドウ一面を飾っているにもかかわらず中にはケーキが置いてある。何のこっちゃ?万が一、もし、喫茶店だと分かったとしても、わしのようなむくつけき中年男が入れるような余地はどこにもない。あまりのその無意味な健全さに中に入ってスパーっと一服してやりたい衝動にかられたが、やめた。
1階残りは、ローソンと一坪ほどのアイスクリームの屋台。たったそれだけ。何しろ、母と子の喫茶店がだだっ広い面積を占有していてーるせいで、オープン間もないにもかかわらず1階の客足はガラガラ。つまり、関係者以外、誰もいないのである。(※ LOHAS→Lifestyles Of Health And Sustainability )
2階はなんや?と思って覗きにいくと、左手にLIBROという本屋、右手にナンチャラナンチャラというとても覚えられそうもないリラクゼーションのお店、後を振り向くとパッとしない美容院、奥には由緒正しげな製剤薬局。一体なんなのだ、ここは?まぁ、本屋の出店だけは許せると思い、中に入ってはみたものの、置いてあるのは雑誌とコミックと売れ筋の単行本と実用書のみ。。。これは本屋ではない。本屋であるはずがない。本屋であってたまるか。
え〜い、くそ。3階は何か面白いものがあるやろ、と望みを託して階段を駆け上がったまではいいが、何とオールクリニック。端から端までお医者さんの巣窟。。思わず「秘密のアッコちゃん」のエンディングテーマが別の歌詞で流れてきました。。歯医者さんくるかと眼医者のはずれまで出てみたが〜♪内科〜、外科〜、小児科〜♪。。。。ガランとしたフロアに立ち尽くすわし。。わしは、わしは、病気じゃない!!
終わった。。平尾は終わった。というか、もとから終わっていた。。
最近はどこも再開発ブーム。これは全国どの地方にも言えることだと思うのだが、再開発後の街があまりに画一化されていて平べったすぎる。もっと横丁的要素を持った「湿地帯」を作らないと街は死ぬぞ。LOHASが悪いと言わんが、そんな表層的な健康ファッションだけ追ってどうする。人間、魂の健康が根本じゃろうが。駅ビルに入る店舗なんぞに一喜一憂している私も愚かだが、21世紀に入って、都市の店舗のスタイルが極端に画一化してきているような気がする。資本によって完全にプログラム化された消費傾向のコード。そのコードにバカ正直に日夜モノを購買する消費者。コンビニなんかでオニギリを買わず、たまには自分で握り飯を作ってみたらどうだ。うめぇ〜ぞ。コードからちったあ逸脱しようや。おい。
サテンの問題も深刻だ。今やこだわりのオヤジが経営するしゅみしゅみの喫茶店は街から一掃され、一味が悪だくみするようなアジトとなる場所がすべての都市から消失しつつある。コーヒーと言えば、スタバかシアトルコーヒーかニューヨーカーズカフェ。飲み屋にしても同じ。どこに行っても、つぼ八か白木屋か北の家族。。若い奴はそんなところでコーヒーや酒を飲んではいかん。もっと異質なセンスがある空間で友と語らえ。そうでないと馬鹿になるぞ。白痴になるぞ。あれもこれも携帯電話のせいやな。携帯の普及は飲食店の質まで変えていっとる。人が飲み食いしながら語り合う空間はむっちゃ重要なんや。何でそれが分からん。
しかし、平尾はそれ以前の問題やな。。。スタバもなければMacもない。何でいきなりLOHASなんだよう〜!!オシャレで決めるなら、隣に「やりうどん」なんか入店さすな!!。う〜、こうなったら、我が社で、NOOS CAFEでも作るしかない。会社に帰って働くぞぉ〜。
3月 11 2006
核質化した不連続質
本がちょっと煮詰まっているので、その煮詰まりをこっちに捨てる。
既刊の3冊のヌース本にはまだ顔を出していないが、ヌース理論には核質・無核質・反核質という三位一体の重要概念がある。これらは普通の言葉で表現すれば、モノの現象化の力、モノの知覚化としての力、モノの存在化としての力といったような意味を持っている。(現象化させるのが存在化、という意味で使用している)
例えば、今、目の前にライターがあるとすれば、ライターという物体が外界にあるという認識が核質、それを見たり触ったり嗅いだりして、ライターの実在が実感として生まれている状態が無核質、そして、ライター自体がそのもの自体として真に存在している力が反核質と考えていい。より分かりやすく言えば、虚像としてのライター、そのライターを見る者、実像としてのライターという言い方にでもなるだろうか。
例えば、わたしが持っているライターがZippoのビンテージものだとする。それをトンとテーブルの上に立てて、「どや、ええやろう。」と君に自慢したとしよう。君がわたしと同じような趣味を持った人間であれば、そのZippoが欲しいと思うはずだ。果たして、その所有の欲望はどこからくるのだろうか。
核質とは一つの個物をまさしく唯一性として三次元世界に固定する力である。しかし、なぜか見ている主観は君と僕とに分かれている。つまり、核質は「1」であるのに対し、無核質は「2」に分かれているのだ(正確には無数)。そして、そうした「2」が再び個物の方向とは逆方向で「1」に統一されている場所がある。それが「反核質」というところだと考えておけばいい。まぁ、哲学的に言えば、客観性と主観性と間主観性といったところか。。
つまり、君と僕とは下なる「1」と上なる「1」の間に挟まれた異なる「2」であるということなのだ。下なる「1」をモノと呼ぶならば、上なる「1」がヌースがいうヒトである。ただし、困ったことに、こうした上下という方向が見えない人間にとっては、これらは同じモノに見えてしまう。本来、1なるものを意味する「愛」が、似て非なる二つの種族になって出現してくる背景には、こうした裏事情があるわけだ。
さて、となれば、このライターが欲しい。いくら金を積んでもいいから欲しい。いや、正直いうと盗んででも欲しい。。といった君の欲望を駆り立てている張本人は、上なる真実のライターそれ自身である、ということが言えまいか。というのも、上なるライターにはそもそも「2」がないからである。つまり、そこでは見るものの領域(主観)である無核質はすべて一つになって統一化されているのだ。だから、この「一」への吸引の力は、事物として二つの主観を統一したいという等化力を、二つに分裂している主観に浴びせかけてくると考えられるのだ。
つまり、君が僕のライターを欲望しているのではなく、僕のライターが君を欲望している。その結果、君はこのライターに魅せられている、ということになる。
そうこうして、この等化力は磁力のように無核質にも一つになることを要求してくるはずなのだが、ところが、そんなにうまく事は運ばない。それはなぜか——。理由は単純だ。無核質には核質側からも統合化の引力が働いており、このライターはモノとして一つなんだからそっちに行ってはいけない、という強固な強制力を作用させているからだ。「神はダブルバインドである。」というドゥルーズ=ガタリの言葉の真意もここにある。
このオイディプス的な矯正力は強力なもので、モノ=物質という同一性の場の中で、「2」に分離している無核質をほとんど見えなくさせるぐらいの勢力を持って、現在も暴れ回っている。無核質が、核質に幻惑されると、身体は物質的肉体としてしか見なされることはない。この同一化の中では、あいつとオレとは別の生き物(主観=無核質)であるにも関わらず、オレかあいつか白黒はっきりつけたい欲求が生まれてくる。あいつが白ならアーリマン的な世界に引きずり込まれ、、オレが白ならルシフェル的な世界が待っている。物質ファシズムと身体ファシズム。いずれにしろ、ここには悪魔的ものしか生まれることはない。科学主義と、宗教主義や身体主義はそれぞれの代表と言っていい。いずれにしろ同一性が生んだ魔物なのだ。
こうして、無核質は上なるライターの統合力を、上を知らない者として経験するがゆえに、他者のモノを我が者にしたいという欲望に駆り立てられるのだ。君自身が核質に引っぱりこまれれば、君は同一化帝国の皇帝に君臨し、それが帝国の平和だと信じて、徹底して世界を我が者にしようと頑張るだろう。政治の世界を見ればそれはよく分かる。
君が力のせめぎ合いのところにかろうじて位置を保てていれば、君は正常な人間である。正常な人間においては、彼のものは彼のもの、わたしのものはわたしのものという、当たり前の割り切りを持って所有の分有を行うことになる。しかし、それでも、君の所有欲が消失するわけではない。君はこの欲望のバランスを保つために相当の疲弊を強いられていることをよく知っているはずだ。君のように意思を持った正常な人間であっても、このバランスを取るのがやっとのところなのだ。
カバラにいう「神の縮退(ツイムツーム)」や「器の破壊(シェビラート・ハ=ケリーム)」とは、このように、無核質の場所が人間の世界認識において行方不明になっている状態のことを意味すると考えていい。核質-反核質結合によって、無核質がズタズタに切り裂かれているということ。器をいかにして修復するか、つまり、無核質をいかなる手法によって縫合し直すか、それがヌース理論が手始めに着手している作業である。
父と子の間に交わされたユダヤ的契約を解除し、
聖霊の群れを再び世界に出現させること。
ヘルメスが持った竪琴の糸を天界へと再び張り巡らすこと。
宇宙的音楽をケイブに再び、鳴り響かせること。
彼岸をプタハの架け橋によって対岸に出現させること。
いずれにしろ、そのためには上の世界にあるモノをこの地上に引き下ろしてこなくてはならない。それが超越を現実へと導く唯一の手段なのだ。君にこれら二つのモノを見る視力はあるか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カバラ, ドゥルーズ, ユダヤ