3月 15 2006
首なし地蔵になれ!!
ヌース理論には「位置」という概念が重要な役割を果たす。
普通、位置というとモノの空間的な位置を意味するが、ヌース理論でいう「位置」とはモノではなく「意識」の位置を表す概念を意味する言葉である。はてはて、意識の位置とは何ぞや?となるわけだが、その第一のものは、次のような問いへの回答として用意されることになる。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
君が一つのモノの見え姿を見ている位置、それが意識における第一番目の位置と定義されているものだ。
普通は、モノを見るという行為は、物体が反射した光を目の網膜が捉え、その刺激が視神経を通して大脳に送られると考えられているわけだから、モノを見ている位置とは、わたしの目がある位置、もしくは、脳がある位置ということになり、君はアバウトに次のような答えを出すことになる。
「目のあるところです。」
しかし、この質問者がOCOTだったら、おそらく次のような答えがすぐに返されることになる。
「位置が全く見えません。」
要は、そんなとこからどうやってモノを見るというんだい?そんなところに位置はないよ。というわけだ。わたしからモノは見えるが、それを見ている目は見えない。意識が自分の目の存在を想像した時点で、意識はその本来あるべき位置を失う——この言葉にはそういう意味が含まれている。
意識の仕組みを現代科学のように脳全般の機能として見るているうちは、君は意識の在り方を全く誤解しているし、意識の正体をつかむ事もできないだろう。物質全般と意識には絶対的な差異がある。それは量的な差異でも質的な差異でもない。もっと本源的な差異だ。意識の原因をいくら物質に求めたところで、この差異を埋めることは出来ない。意識を思考の対象とするには全く別な発想が必要なのだ。
ヌース理論の文脈では、物質的な要素のみで世界を見るということは、実は見えない想像的な世界に入るということに等しい。つまり、科学的理性が活動を行っている場所は見える世界ではないということだ。最も、科学が僕らの世界に様々な現象を引き起こすからには、この見えない世界は何らかの仕方で見えている現象世界につながってはいる。しかし、そのフランチャイズは人間不在の空間である。というのも、物質世界では世界を見ている人間がすべて客観的な物質、つまり肉体としてイメージされているからである。そのようなイメージで世界を見ている眼は、僕の眼でも、君の眼でも、彼の眼でも,彼女の眼でもない。それは何か不気味なる一者の目である。物質のみで世界の構造を思考する科学的理性とは、そうした不気味なる一者の思考なのである。(実はこの不気味なる一者こそがOCOTの正体であったと言うと、ちょっとはスキャンダラスに聞こえはしまいか。。あっ、これジョークね)
もちろん、これと似た批判は20世紀の始めに、フッサールが現象学的視点から行ってはいる。フッサールは、ガリレオに始まる近代の科学的思考が現象世界に持ち込んだ数学的、幾何学的な記述方法を生活空間の隠蔽として激しく批判した。フッサールにとっての真の人間の意識の進化の方向とは科学的な方向ではなく、個体が徹底して主観化し、天上天下唯我独尊的な絶対の自我(現象学では超越論的主観性という)を確立させ、そこから、各個体が大地(Erde=地球)へと接続し、その大地のもとで各主観の結合を図ろうとすることにあった。
しかし、こうした警鐘も空しく,科学的理性はテクノロジーの圧倒的なパワーのもとに、物質の究極的要素と目される素粒子世界にまで、その理性の力を行使するまでに至っている。そして、現在、その無限小の果てに、無限大とつながった奇妙な構造を目撃し始めた。。はて、この世界は一体どういう仕組みになっとるんだ?。。ミクロとマクロがつながっているような、いないような。。。物質概念を引きずったままでは、このナゾは絶対に解けない。
さて、ここで最初の問いに戻ろう。
「君は一体どこからモノを見ているのか?」
ヌース理論からの回答は実に単純なものだ。それは視野空間から、と答えればいい。しかし、ここでいう視野空間とは肉眼に穿たれた瞳孔のことを指しているわけでは決してない。水晶体のことでもない。もちろん、角膜のことでもない。頭部は忘れろ。そういった物質的な表象として想像されるものではなく、純粋に視野上に現れている空間のことだ。つまり、通常の認識では三次元空間と見なされている場所そのもののことである。そこにはいつも言うように奥行きは一点で同一視されているので、無限遠(大)がへばりついているとも言っていいことになる。これが「顕在化」における最初の位置のことである。
こうしてヌース理論は、その「位置」を作るために、まずは君の首をちょん切ることから始める。首を切られればそれは死に等しいわけだが、生きながらにして死ぬ、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出るためには、このくらいのことは我慢しよう。「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)へと侵入するためには、こうした首切りの儀式がまずは必要なのだ。
3月 17 2006
ヌースとシュタイナー(1)
ヌース理論には聞き慣れない用語がたくさん登場してくる。ヌース用語というやつだ。ヌース用語は基本的にシリウス言語(OCOT情報に含まれる意味不明の語彙)と、理論を体系化づけるためにわたし自身がひねり出した造語とのミックスで成り立っている。こうした特殊な用語による論の構成が、ヌース理論に対して必要以上に難解なイメージを与えていることは否めないが、これはヌース理論の成り立ち上、致し方ないことだ。
人間の霊的構造を空間構造へ編集し直し、さらにそこに現れた幾何学性を物質構造へと接続させること。これがヌース理論の基本コンセプトである。こうした思考の試みは科学や宗教はもちろんのこと、神秘学の中でもあまりお目にかかることはない。いや、秘教的伝統の中には存在していたのかもしれないが、今ではそのほとんどが忘却されているのだろう、そのわずかな記憶の残滓は、神聖幾何学という名称でかろうじて命脈を保っているように思える。その意味では、ヌース理論は、かつて存在していたと思われる霊的存在としての原人間が所持していた、この神聖幾何学的な知性を忠実に再現しようとする試みなのかもしれない。
まぁ、本当のところは分からないが、とにもかくにも、神秘学や神智学が説いてきた霊的構造の理論を、超越的なものではなく、認識可能な現代知の対象へと引き下ろすこと。それがヌースのやりたいことなのだ。
神秘学の系譜を継承している霊学として、例えば、シュタイナーの理論を例に挙げてみよう。シュタイナーは人間を形作るための四つの基本的な構成体を次のような言葉で表現している。
1、物質体
2、エーテル体
3、アストラル体
4、自我
ここでいう物質体とは単純に人間を構成している物質的要素、すなわち肉体のことである。エーテル体とは物質的形態生み出す形成力、さらには物質の活動力を支えるエネルギー体のことである。生命エネルギーのようなものだ。これは悟性魂と関連を持つ。一方、アストラル体とは感情や主体意識として把握されるエネルギー体のことを意味する。こちらは感性魂と関連を持つ。
シュタイナーのいう自我とは普通に言う自我とは違い、今挙げた物質体、エーテル体、アストラル体という各要素に主体として働きかけ、それらを浄化していく働きを持つ力とされる。つまり、肉体をベースとしたエーテル的作用である「知」とアストラル的作用である「情」の活動のもとに、それらをバランスよく統合した上で生じてくる自我的作用である「意」に、文字通り、自我(エトス的なもの)の完成を見ているのだ。シュタイナーは、こうした自我によって変革されたアストラル体を感覚魂と呼び、変革されたエーテル体を悟性魂、変革された肉体を意識魂と呼んでいる。
以上の関係性をヌースの概念に対応させると、おそらく次のようになるだろう。
1、元止揚の対化(ψ1〜ψ8)
2、思形(ψ9)
3、感性(ψ10)
4、定質と性質(ψ11〜ψ12)
元止揚とは胎児空間のことだ。ここには前次元のすべての理念力の活動が集約されている。その物質化が人間の基礎としての肉体を構成する。思形とは「人間の内面意識」を形作るための働きで、現象を客体化していくための理念力のことだ。これは大雑把にいうと言語認識の力を意味している。感性とは、「人間の外面意識」を形作るための働きで、主体化を促して行くための理念力に然相当する。これは現象を知覚や感覚という作用として対象化する働きを持っている。
定質とは、思形と感性を等化していくための力で、大雑把に言えば、人間の個体化を欲望の生産と消費の反復によって凝結させていくための理念力のことである。思形は現象の「不在」、感性は現象の「在」を意味しているので、欲望は、この不在と在の等化-中和の反復性として発生することになる。性質とはそうした消費によっても決して消費され尽くすことのない、霊的なエネルギー母胎の無尽蔵な深淵を意味する。
シュタイナーは、上に挙げた物質体を除く三つの構成体を知覚するための超感覚の取得を促しているが、ヌース理論の考え方では、これらは理念的対象と見るので、たとえそれが超知覚であっても、知覚的な対象物となり得るとは考えない。もし、そうしたものが知覚・感覚的なものの範疇で何らかの対象物として認識されたとしても、それらは理念的対象の影のようなものであり、実体ではないと考える。理念的対象はあくまでも感覚や知覚に捉えられるものではなく、超感覚的な「思考」がつかみ出すものだ。
ヌースが持つこうした思考優先の姿勢に抵抗を感じる人がいらっしゃるのかもしれない。事実、ヌースは何度なくその面での批判を受けて来た。しかし、理念的なものは絶対的な差異として出現しなければ理念とは呼べない。現代という時代は自我の運動がアストラル領域に強く働きかけているために、感覚や感性が重視される傾向がある。理性はダメ、感覚が大事、というわけである。しかし、近代の理性と同じく、人間をメタレベルへと移行させるためには、近代の感性も批判的に乗り越えられなければいけない。現代に見られる分裂症的な諸意識の様態の先にある新たな思考様式。それを指し示すことをヌース理論は意図しているのだ。
その意味で自我の解体とは、自我の構成機構を自我自体が認識することによって可能となる。ヌースのいう顕在化とはそういう意味を持っている。顕在化によって自我内部を構成する観察-被観察の構成がメタな関係へと移行し、自我は解体を余儀なくさせられるというストーリーである。シュタイナー的に言えば、自我はそこから、霊我、生命霊、霊人といった高次の人間の意識レベルへと進化を起こすのだ。自我が現在のアストラルレベルから脱却し、物質体へと侵入する時期は近い。それもまたヌースがいう顕在化の意である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 6 • Tags: アストラル, エーテル, ケイブコンパス, シュタイナー, ヌース用語, 内面と外面, 神秘学