4月 2 2006
人間の内面と外面
ヌース理論の理解において、多くの人がつまづいてしまうのが人間の内面と外面という概念ではないかと思われる。普通、人間の内面というと、その人が持っている人格的側面や心理的な側面を指し、一方、外面の方は見た目のルックスや服装のセンスなどを指すことが多い。つまり、内面が見えない部分で、外面が見える部分といった区分けから、こうした言葉が用いられているわけだ。ところが、ヌース理論の場合は、この語彙があたかも反対に使われているかのようにして使用される。ここでまず大方の人が混乱を起こすのだろうと思う。
さて、わたしから言わせてもらえば、一般的に使用されている人間の内面と外面という言葉は、きわめて気分的なもので、曖昧な言葉づかいのように思える。容貌や服装の趣味が人間の外面であるというのはまあ良しとしても、どうして性格や心理的な側面が内面なのだろう?内蔵や骨格が内面であるというなら分からないでもないが、一体ここで使用されている内/外という概念は何を境界にしてそのように呼ばれているのだろうか。「内面」という言葉を使うからには、人間の性格や心理が肉体の「内」にあるからとでも言いたいのだろうか。性格や心理は心の産物だが、心は身体の中にあると思われているから「内面」なのだろうか?
で、君に聞きたい。心ってほんとうに体の中にあるのか?
こうした通常の内面・外面の使用に比べて、ヌースのそれは極めて明瞭だ。人間の外面とは見えている世界のことをいう。つまり、一つのモノであれば、その見えているモノの表面の部分だ。だから、人間の外面とはモノの外面と同じと言っていい。これがψ1で示される。あと、モノの背後に存在している「地」となる∞の空間が作っている面(視野面)も、とりあえずは見えている世界なのだから人間の外面の範疇である。これがψ3。視野上の空間が「外面」かどうかを確かめたい場合は、目の前のモノをどんどん縮めていくイメージを作るといい。縮めて縮めて点になっても尚縮めるのだ。そうすると、今度は表裏が裏返ってモノが膨張していくイメージが生まれてくる。そこで反転が起きているわけだ。そして、そのとき、モノの外面だった凸の部分は、今度は凹になってモノの背後に感覚化される球面として現れるのが分かる。物体の背景として見えている空間とモノの表面として見えている空間は同じ面が反転して見えているだけなのだ。だから、ともに外面である。
一方、人間の内面とはどういう場所かと言えば、見えない部分と考えていい。たとえば、モノの表面の裏面を考えてみよう。僕らこの場所を見ることができない。スイカの皮の裏側を見ようと思って、スイカを割って、その皮の裏側を指して、「ほら、これが裏面だ。」と言ったところで、その時点で、それはもうモノの外面になってしまっている。見える側を外面として定義してしまった時点で、内面は永久に見ることは不可能なのだ。外面のウラである内面は原理的に見ることができないのである。そして、これは文字通り人間の内面と呼ぶ。
世界には他にも見えないところはある。例えば、モノの背後側はどうだ?そこもヌース理論においては人間の内面領域の範疇である。裏を見ようと思って、モノを回転させたとしても、見えるのは常にモノの正面であって、その背面側は決して見ることができない。さっきと同じ要領でモノを縮めていってみるといい。反転してきたときは、モノ表面の裏面だったところは、モノの背後側にある面と同じ面であるということが分かる。よってそこは人間の内面だ。これがヌース独自の4次元知覚のモノの見方である。あと、自分自身の背後の風景はどうだ?この場所も自分の肉眼では絶対に見ることはできない場所である。だから人間の内面と言っていい。さきほど視野空間上の無限遠平面を人間の外面としたのだから、この背面側は(知覚背面と呼ぼう)は、当然、視野面の裏面となっている。
ここまで言えば、ヌースにおける人間の内面と外面という概念が何を言い表さんとしているかおおよその見当はついてくるだろう。簡単である。つまり、ヌースにおける「人間の外面」と「人間の内面」とは、「前」と「後」という概念の本質について言っているのである。前は見えるが、後は見えない、ただそれだけのことだ。そして、人間の意識には「前の意識」と「後の意識」というものがある。それが人間の外面の意識、内面の意識というもののことである。
見えない「後」を「前」として見るために、人は「鏡」というものを用意する。例えば、モノの後を見たいならば、モノの後側に鏡を立てればよい。すると後があたかも前であるかのように見える。自分の後を見たい場合は、自分の前に鏡を立てればよい。すると同じく後が前であるかのように見える。。そして、このような前と後の関係は自他の間では互いに逆になっている。互いに反転しているわけだ。こんな簡単な話はない。自他の認識している空間は4次元的に相互に反転しているのである。
にもかかわらず、通常の意識は世界をそのようには見ていない。あろうことか自他両者ともが、見えない内面側を共有し合って世界認識を作っているのだ。つまり、人間の世界認識からは外面が完全に欠落しているのである。そして、見えない世界を見える世界と呼び、見える世界を見えない世界と呼んでいる。。。こんなペテンが堂々とまかり通っていいのだろうか?僕ら人間は心底狂ってる。早く内面から出ようぜ、Baby。。
4月 6 2006
エーテル体と射影空間
R・シュタイナーはエーテル体の幾何学には射影幾何学がふさわしいだろうと述べている。数学的に見ても射影空間はユークリッド空間よりもより本質的な空間だということができる。
その意味で、ユークリッド的な空間を視覚が射影的に見ているというよりも、まずは射影空間としての視野空間があって、その空間を人間がユークリッド的に再構成していると考える方がより自然な推理である。これは、ヌース的に言えば、世界の成り立ちとして、まずは外面空間が先手として存在し、その外面を元にして内面認識が編集、構築されているということを意味する。この構築に手を貸すのが鏡としての他者の視野空間なのだ。その意味でユークリッド的空間認識と自我の形成は深く結びついている。
おそらく人間の外面の意識の基礎となる元止揚空間(ψ1→ψ3→ψ5→ψ7)がエーテル体に相当するとするヌース予測は適確なものだろう。実際、これら四つの観察子領域のうち最初の二つはきっちりと射影空間に対応させることが可能のようだ。今の所の対応予測は次のようなものである。
ψ1(表相)………2次元射影空間
ψ3(表面)………3次元射影空間
ψ5(面)………1次元複素射影空間?
ψ7(背面)………2次元複素射影空間?
射影空間と人間の外面空間の相性の良さの由来は、射影空間が内面と外面の捻れを含んでいることにある。つまりメビウスの帯的構造を持っているからだ。捻れはヌースでいう「等化」を意味する。たとえば、2次元射影空間を数学的に見て見よう(図2)。
ここに示したように、2次元射影空間とは、球面上の対セキ点をたがいに同一視した半球面上の空間になるのだが、図での赤道部分に当たるこの縁の部分はメビウスの帯と全く同じトポロジーになっている。つまり、捩じれているのだ。
このことは、例えば、自他の間に挟まれて見えている球体状の対象の輪郭を構成しているかたちは、じつは単純な円などではなく、下図1のようにメビウスのおびのように捩じれた円環であることを暗示している。おそらく客観が構成されている空間にはこうした捻れが不可欠なのである。というのも、その捻れの位相自体が様々な観測者を周囲に配置させているからだ。個体が見ている表相はこうした捻れの一位相への射影として立ち上がってきているものと考えなければならない。この捩じれの位相の由来をすべて見抜いたときに、われわれはモノ自体の世界へ侵入できるのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: エーテル, メビウス, ユークリッド, 元止揚空間, 内面と外面, 表相