4月 7 2006
ナイトウォッチ
「タルコフスキーとウォシャウスキーを掛け合わせたような映画」という宣伝文句に惹かれ、ついつい足を運んでしまったのだけど、見事、撃沈。まぁ、アメコミを原作とした最近のハリウッドものに比べれば、意欲的な作品と言えなくもないけど、作品の質としてはやはりB級の域を出ていない。
「マトリックス」と似てるところと言えば、主人公が意味もなくグラサンをかけ、ロングコートを羽織っているところ。しかし、さすがロシアというべきかスタイリッシュな感覚がグローバルスタンダートにはほど遠い。話の内容も、「マトリックス」というよりもロシア版「コンスタンティン」と言ったほうがよさそうだ。
物語は光と闇の戦いをテーマしたもので、1000年前に一度休戦状態に入っていた光の軍勢と闇の軍勢が、最終戦争に突入するために再度、戦闘を開始するというもの。映画のタイトルとなっている「ナイトウォッチ」は闇の監視人という意味で、休戦条約違反をした闇側の異種(能力者のようなもの)を取り締る役目を持っている。こうした悪霊退治モノには、普通、無敵のスーパーヒーローが登場してハチャメチャの殺陣を披露して見せるのだが、この作品の主人公であるナイトウォッチは1人殺るにも命がけ。かなりとろい。それに加えて、演じている役者もあまりパッとしないものだから、自然と作品のコントラストが弱くなる。あと、気になったのは脚本のギャグセンス。ユースカルチャーの作品ということで、ところどころに気の利いたジョークが織り交ぜられているのだが、ロシア語がギャグに向いていないのか、それともわたしがギャグに向いていないのか、笑いのタイミングがどうも難しい。
その一方で、笑うべきではないところでついつい笑いが出てしまう。一番受けたのは「災いを招く乙女」というやつ。「災いを招く乙女」とは、人間だろうが、動物だろうが、植物だろうが、出会うものすべてに死をもたらす空恐ろしい存在。その女の頭の上にはいつも渦が巻いている。何と住んでいるマンションの上空でも竜巻のような渦が巻いている。その渦に吸い寄せられるように無数のカラスが寄り集まり、挙げ句の果てには上空を飛行中の旅客機までも墜落させてしまう。彼女の出現が闇と光の最終戦争の前兆となり、やがて世界は滅亡を迎えるというお話なのだが。。。うーむ、なんだなぁ。彼女と光の軍勢や闇の軍勢との関係がよく分からない。ここにまた主人公の人間ドラマが絡んでくるものだから、焦点がボケボケで、このストーリー構成のまずさがこの映画を今ひとつインパクトのないものにしている。
ただ、映像センスはなかなかのものだった。何でも監督さんはロシアのミュージックビデオ界出身ということで、リズム感がいい。多彩なカメラワークと凝ったカット編集、それと(おそらく)ローテクのデジタルエフェクツ。チェコの映像作家シュヴァンクマイエルっぽい技法なんかもあって、東欧的というか、東方的な暗澹とした色使いがダークファンタジーという売り文句にピッタリとはまっていた。ただ、タルコフスキーという宣伝文句は止めて欲しい。万一タルコフスキーとの共通点があるとすれば、ロシアのポロアパートが放っているあの独自のカビ臭いアウラぐらいのもの。とにかく、劇場に足を運ぶ必要ナシ。興味がある方はレンタルDVDを待て。
それにしてもエンディングにかかっていたテーマ曲、かなりかっこいい。これロシアのバンド?
4月 8 2006
聖杯とは人間のことである
mayuさんへの返事
ヌース会議室の質問【4001】に答えて。。
神は六日間で人間以外の自然物をすべて創造し、七日目に人間を作った。そして、自らは世界から身を引き、束の間の眠りに入った。神が再び目覚めるのは八日目の光のもとでである。しかし、神は一体何の目的で人間を創造したのか——。
人間は神の被造物の受取人として、諸々の存在者の前に立たされる訳ですが、これは言い換えれば、人間が神の被造物を受容する器でもあることを意味するのだと思います。で、ここで一つの疑問が湧きます。それは、この器なる人間は果たして本当に神の被造物なのだろうかということです。あらゆる創造物は場所がなければ存在を示すことができないわけですから、受取手としてのこの場所も、果たして神が作ったのだろうかという疑問が出て来て当然です。僕はおそらく人間は神が作ったものではないと思います。人間は神に対して治外法権を持っている。神の言いなりにはならない。というのも、この器は神には作り出すことはできないと思うからです。
創造を手渡す者と創造を受け取る者。これが最後者であるΩと最初者であるαの関係です。その意味で言えば、僕ら人間が経験している光とはΩの光であり、神は「光あれ!」という号令のもとに、その光をαを生むべき永遠の女へと手渡したのだと思います。僕らは、今日も物質を通して、燦々と繰り出される光を自らの受容器に溜め込んでいるわけです。
しかし、受取り手が二人いた。つまり、αが二つあったということなんですね。すなわち、二人の「我」です。しかも困った事に、このαとαはお互いを確認するためにお互いを取り違えてしまうというとんでもないミスを犯した。そのため、二人のαはΩのようになってしまい、あたかも神の亡霊が取り憑いたかのように振る舞ってしまう。こうした逆転写の場所が水の鏡なんですね。そこではΩなるものの全履歴である霊が物質として射影されている。
水の鏡の中では、人間は器に注がれてくる光を自分だと気づくことができず、つねに自分がΩだということを信じて疑わない。実際、現代人の多くは人間は宇宙進化の最後に現れてきた者と信じています。そして、何はばかることなく自らを「主体」と呼ぶ。神との契約によって世界を一任された者。神の祝福を与えられた者。こうしてユダヤ-キリスト教者が登場してきます。僕が常々、「ユダヤ的契約の解除」と言っているのは、この逆転写によってできた結び目をほどくことを意味しています。
水の鏡の中は言葉で満ちあふれています。というのも、名付けられたものはすべて神の履歴ではないかと思えるからです。名は同一性を与え、差異を無化します。名をすべて捨て去るということは、その器自体へと変身を遂げるということを意味します。こうした器が聖杯と呼ばれるべきでしょう。これは注がれたものではなく、始めからそこにあるものであり、あったものであり、あるであろうものではないかと思えます。中身を破棄した器は当然、孤独な存在です。しかし、この器の浮上は、言い換えればアルケーですから、孤独というよりもタブラ・ラサのような純白の存在ではないかと思います。真っ白だからこそ、アルケーの精神は再度、創造のデッサンを描き始める。器とは永遠の女。母なるもの。男を超えたもの。神が愛す真の無限。僕はこのアルケーにプラトンが語った「コーラ」をだぶらせていますが、これがおそらくイデアの中のイデアだと思います。そして、それはおそらく人間が素粒子と呼んでいるもののことです。
さて、ヌースの話にもどりましょう。顕在化した人間の外面には、もはや、物質は存在しません。供物を捨て去った器が生み出す最初の力ですから、そこには理念以外いかなるものも存在していないと言えます。もちろん他者の顔ともサヨナラです。魂の顕在化とは、そうした超越論的な個体の大地に立つことではないかと思います。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: プラトン, ユダヤ, 内面と外面, 素粒子