4月 14 2006
不動の大地
ヌースはミクロの量子世界と知覚認識の関係のところで右往左往しているように見えるかもしれないが、実際には、量子世界の中に深く潜航していく過程で、同時に大地=地球との接続を狙っている。微視的な量子の世界と巨視的な惑星世界がどうやって結びつくのか訳が分からない人たちも多いかもしれない。しかし、素粒子世界と地球=大地は極めて密接な関係にある。
一体どういう思考方法を取れば、惑星世界と素粒子に意味ある関連性を持たせることができるのか?そのキーワードは、フッサールが唱えた「不動の大地」にある。
近代以降、僕らの宇宙観はコペルニクスが提唱した地動説に支配されてきた。近代以前、いわゆる天動説の時代は、あらゆる物体の動きと静止が不動の大地の上で生じていると考えられていた。大地は絶対的に固定されたものであり、通常の物体とは次元を異にする存在の基盤のようなものだったのだ。しかし、その絶対的な大地も今や近代的宇宙観によって単なる一個の物体、すなわち地球へと変えられてしまった。
太陽を基準とすれば地球もまた動いている。それを想像するのはいとも容易い。そして、今や僕らの太陽系もまた銀河中心を回っており、さらには、銀河系も回転しているし、さらに銀河系全体もグレート・アトラクターと呼ばれる大質量天体に向かって落下していることが明らかにされている。もはや、宇宙のどこを探しても不動の大地と呼べる場所は消失してしまったのだ。
もちろん、何が何に対して動いていようが、それらはすべて「どこを不動点として規定するか」という座標系の取り方の違いであり、あらゆる運動は相対的なものであるから、地動説にせよ、天動説にせよ、どちらが正しくどちらが間違っているか、などといった議論には意味がない。が、しかし、僕らはここでこのような小賢しい物言いに誤摩化されてはいけない。本当に僕らにとっての不動の大地は消え去ってしまったのか?地球という星はこの宇宙に無尽蔵に存在するといわれる惑星種族の単なる一つにすぎないのか?この地上という場所は、こうして心を宿し、宇宙を認識するに至った人間生命にとってのかけがえのない不動の大地ではないのか?自らの生存の根拠を失ってしまった21世紀人類はもう一度、この素朴な疑問をこの大宇宙に向かって投げかける必要がある。
相対論は科学的には正しいだろう。あらゆる運動と静止は相対的であり、それは座標系の基準の取り方によっていかようにも記述されるだろう。そして、そこに光速度一定という原理を持ち込めば、相対論的規則に統制された時空が確固としたものとして立ち現れる。これにも異論はない。しかしだ。こうした相対性を認識しているわれわれは、そのとき一体どこに立っているのだろうか?相対論はその命名とは裏腹に、実は運動の絶対的な法則を表すものである。相対論のもとに僕らは、違う慣性系で運動している観測者の時空間の伸び縮みを一定の変換式で比較することができる。二つのものの変換関係が記述できるならば、当然、それらの相対関係を比較している絶対的視座がそこにはあるのだ。つまり、それこそが絶対的静止とも言っていい場所なのである。そして、その不動の視座こそが僕らが見出すべき「新しい大地=地球」なのではあるまいか。
このように話してくれば、僕らが見出すべき新しい大地がどの方向にあるかは、少しは予測がつくというものだろう。そう、それは相対論が前提的公理とした光速度の不変性である。あらゆる時空概念の認識や判断は、この光速度の地からなされている。光がいかなるものであるかを知るということ。それは大地の意義を知るということに等しい。そして大地の意義が「わたし」という個体性の意義であるということに気づいたとき、今まで見たこともなかったような真の太陽系空間の偉容が露になり始める。その場所においてこそ、僕らは「世界が回っている」ことの真の意味を理解できるようになるのだ。量子世界とは地球-月の間に張り巡らされた意識のネットワークである。素粒子世界のスピンは月の自転公転運動とおそらく同じものだ。グルジェフではないが、人間が賢くなれば、月の支配から解放される。それは同時に、人間の意識のコーラ=母胎からの離脱でもある。太陽系は深い。科学が考えるよりも、それはずっと深い。。
4月 19 2006
魚たちの国
水の中を茫漠とした意識で泳ぐ魚たち。おそらく彼らはそこが水の中であるということを知らない。目前に浮遊するプランクトンをただパクパクと食しながら、その開いているのか閉じているのか分からないようなギョロリとした目玉で夢遊病者のように今日も海中を徘徊する。彼らは徹底した斜視である。その斜視のせいで、彼らには前が見えていない。いや、正確に言えば、前後を左右に見ている。この意識の在り方が彼らの目の形態形成を決定づけていると言ってもいい。
魚たちにとっての、この「前」の見えなさは、現実を見えなくさせられた人間の意識のメタファーなのかもしれない(実際にはメタファー以上の関連があるのかもしれないが)。僕らは確かに自分が人間の身体を持っていると信じて疑わない。しかし、身体に意識が行き届いているかというと、人間の意識の自由になるのは随意筋関連の器官ぐらいのもので、ほとんどは「自分の」と呼べるほどの支配力は持ってはいない。その意味で言えば、自我意識は人間の身体が生成している場所からは遠くかけ離れたところにいるのだ。だから、君はなぜ人間が二本足で歩くのか知らないし、なぜ二つの眼が顔面についているのかも知らないし、そもそも顔面が何なのかも知らない。となれば当然、「前」についても何も分かっちゃいないはずだ。
前を見るということはどういうことだろう?君は本当に前を見ているのか?ひょっとして常に横を見ているのではないか?前とは何だ?ちょっと考えて見ればすぐに分かるが、「前を見る」という物言いは正しい日本語ではない。というのも、「見ること」は絶えず「前」においてしかできないからだ。見えるのはいつも前——何のことはない。前とは実在が存在の開けを示してくる方向なのだ。しかし、僕らが慣れ親しんだ空間には、この「前」と相対する方向としての「後ろ」があり、かつ、左-右と上-下といった計6つの直交する方向性が存在している。古代人たちは、この6つの空間の方向性のことを「六合(くに)」と呼んでいた。もちろん、この「くに」は、現代人が考えているような「国(くに)」とは全く違ったものである。
「国」とはその字体が表しているように、有限の囲いによって内部に閉じ込められた玉の場所である。玉とは本来、物質化した霊(たま)を意味する言葉だが、ヌース的解釈ではこれらは物質そのもののことにほかならない。世界は玉で満たされているのだ。よって、物質が囲われた場所としての国とは、この場合、僕らが宇宙と呼んでいる場所(時空)のことを意味すると言っていい。
時空はご存知のように空間としては3次元だ。3次元空間自体には「前後・左右・上下」といった身体から派生している方向づけの意味合いは一切存在していない。近代が作り上げた科学的な世界観においては、3次元は入れ変え可能であり対称性を持っている。そこでは見事に「六合(くに)」が消滅しているのだ。
話を分かりやすくしよう。僕らはこの近代が理性的と呼んではばからないこの平板的な3次元を、すべて「前」として経験することができる。グルグル身体を回せばいいだけの話だ。しかし、そのとき、当然、この3次元は「後ろ」としても経験されているはずだ。こり両者は同じ空間ではない。というのも、前を経験しているとき、同時に僕らは後ろも概念として経験しているからだ。いや、後ろだけじゃ話は済まない。左-右だって、上-下だって、それらは常に同時に身体感覚から派生してくる方向概念として併存している。となれば、「六合(くに)」には、本来、六種類の3次元空間が存在していることになる。身体が存在する場所はそうした18の方向性を看取することができている空間である。
話を魚に戻そう。ヌース理論がいう「水」とは、これら身体的空間の差異が見えない3次元世界のことを指す言葉である。つまり、水とは「国」の中に捕われの身となった「六合」のことなのだ。そこに住む人間が水蛭子(ヒルコ)と呼ばれるのはそのような理由からである。彼らは水の種族として、左右方向への視力を用いて前後を見ている。奥行きに与えられた距離とはそうした斜視の視力の産物である。
By kohsen • 10_その他 • 7