3月 30 2006
懐かしのパソ通仲間
今日は遠くから来客があった。東北の岩手から来たW氏だ。
W氏とは15年ぐらい前、まだインターネットも普及してなかった頃、Nifty Serveのバソコン通信で知り合った。いわゆるパソ通仲間である。当時、Niftyの中にF-Mistyという不思議・精神世界系の会議室のコーナーがあり、かのオウム真理教や幸福の科学の出店や、マヤ暦、フリーエネルギー関連など20ケの掲示板が設置されていた。その中のしんがりである20番会議室がわたしが担当する「有機体ノウスの宇宙論」会議室だった。まだヌース理論をノウス理論と呼んでいる時期。理論もヘッタクレもあったものじゃない。OCOTと同時中継しながら書き込んだり(もちろん当時はカミングアウトしていないので、誰もチャネルの実況中継だとは知る由もない)、ほんとうにハチャメチャな会議室だった。
今考えると、ある意味幸せな時代だった。当時はバブル絶頂期の余韻の中で、ニューエイジや精神世界人口が驚異的な勢いで増えていた頃だ。各会議室には日々、日本全国からこの手の怪しげな世界に興味を持つオタクキングが顔を出し、有意義とも無意味ともつかない議論を白熱させていた。ちなみにわたしが管理していた「有機体ノウスの宇宙論」会議室は読者数は多いものの、誰も発言しない会議室で有名だった。訳分からん、ということで、オタクたちですら敬遠していたようなのだ。あまりの淋しさに耐えかねたわたしは、トーラス氏に書き込みを依頼したりもしたっけ。。。そんな枯れ木も山のにぎわい状態の中で、チラホラと書き込んでくれていたのが、このW氏だったのだ。
W氏はF-mistyの中でも硬派の部類に入る論客で、大学時代フッサールを専攻していただけあって、かなり哲学的な問答をやりとりした相手でもあった。博多を訪れるのは今回が二度目。一度目の来博からすでに10年は経っている。
平尾駅前で待ち合わせをしたが、わたしの顔を見るなり、「いやぁ〜、半田さん変わりましたね。声をかけてもらわなければ気づきませんでしたよ。」と言ってきた。続けて出て来た言葉が「宇宙人みたいになっちゃって。」
アハ。。まぁ、彼なりの褒め言葉なのだろうが、心中穏やかではないわたし。。普通の服を着て、普通の髪型をして、普通の眼鏡をかけて、わたしとしては至ってノーマルな装いだっだ。一体、この雰囲気のどこが宇宙人なのか?理由は分からないが、とにかく彼にはかなり異様に見えたらしい。びっくり仰天するほど驚いていた。。。わたしとしては、ちと、不安。。
その後、居酒屋に直行。彼は「シリウス革命」がいたくお気に入りのようすで、二人してひっきりなしにヌースの話題で盛り上がった。ここ数年レクチャーも休んでいるので、コアなヌース話は久しぶりだ。やはり、ヌースを肴にしての酒宴は楽しい。彼は市役所に勤めるお役人だが、最近、環境エネルギー開発課という新しい部署を自らの発案で作ったらしく、その課の副主幹の座に収まっていた。現在はカーボンナノチューブを木炭から作る技術を東レと共同して手がけているそうだ。変人なのだが、仕事はできるタイプ。彼もムダに10年を過ごしてはいなかったのね。よかった。よかった。
「「シリウス革命」はバイブルですよ。この本には人の直観力を刺激するエネルギーに満ちあふれている。技術者たる者、本棚に是非、一冊置いて、アイデアが行き詰まったときに、ペラペラとめくってみるべき。」と何やらやたら褒めてくれる。わたしとしては「シリウス革命」の何が技術に結びつくのかよく分からないのだが、「うれしいねぇ〜、よく分かってるねぇ〜、Wさんは。」と相づちを打って絶えず上機嫌。そのあとは、西田哲学や空海の話や、複素空間の話で大いに盛り上がり、大変楽しい夜を過ごさせていただいた。
4月 2 2006
人間の内面と外面
ヌース理論の理解において、多くの人がつまづいてしまうのが人間の内面と外面という概念ではないかと思われる。普通、人間の内面というと、その人が持っている人格的側面や心理的な側面を指し、一方、外面の方は見た目のルックスや服装のセンスなどを指すことが多い。つまり、内面が見えない部分で、外面が見える部分といった区分けから、こうした言葉が用いられているわけだ。ところが、ヌース理論の場合は、この語彙があたかも反対に使われているかのようにして使用される。ここでまず大方の人が混乱を起こすのだろうと思う。
さて、わたしから言わせてもらえば、一般的に使用されている人間の内面と外面という言葉は、きわめて気分的なもので、曖昧な言葉づかいのように思える。容貌や服装の趣味が人間の外面であるというのはまあ良しとしても、どうして性格や心理的な側面が内面なのだろう?内蔵や骨格が内面であるというなら分からないでもないが、一体ここで使用されている内/外という概念は何を境界にしてそのように呼ばれているのだろうか。「内面」という言葉を使うからには、人間の性格や心理が肉体の「内」にあるからとでも言いたいのだろうか。性格や心理は心の産物だが、心は身体の中にあると思われているから「内面」なのだろうか?
で、君に聞きたい。心ってほんとうに体の中にあるのか?
こうした通常の内面・外面の使用に比べて、ヌースのそれは極めて明瞭だ。人間の外面とは見えている世界のことをいう。つまり、一つのモノであれば、その見えているモノの表面の部分だ。だから、人間の外面とはモノの外面と同じと言っていい。これがψ1で示される。あと、モノの背後に存在している「地」となる∞の空間が作っている面(視野面)も、とりあえずは見えている世界なのだから人間の外面の範疇である。これがψ3。視野上の空間が「外面」かどうかを確かめたい場合は、目の前のモノをどんどん縮めていくイメージを作るといい。縮めて縮めて点になっても尚縮めるのだ。そうすると、今度は表裏が裏返ってモノが膨張していくイメージが生まれてくる。そこで反転が起きているわけだ。そして、そのとき、モノの外面だった凸の部分は、今度は凹になってモノの背後に感覚化される球面として現れるのが分かる。物体の背景として見えている空間とモノの表面として見えている空間は同じ面が反転して見えているだけなのだ。だから、ともに外面である。
一方、人間の内面とはどういう場所かと言えば、見えない部分と考えていい。たとえば、モノの表面の裏面を考えてみよう。僕らこの場所を見ることができない。スイカの皮の裏側を見ようと思って、スイカを割って、その皮の裏側を指して、「ほら、これが裏面だ。」と言ったところで、その時点で、それはもうモノの外面になってしまっている。見える側を外面として定義してしまった時点で、内面は永久に見ることは不可能なのだ。外面のウラである内面は原理的に見ることができないのである。そして、これは文字通り人間の内面と呼ぶ。
世界には他にも見えないところはある。例えば、モノの背後側はどうだ?そこもヌース理論においては人間の内面領域の範疇である。裏を見ようと思って、モノを回転させたとしても、見えるのは常にモノの正面であって、その背面側は決して見ることができない。さっきと同じ要領でモノを縮めていってみるといい。反転してきたときは、モノ表面の裏面だったところは、モノの背後側にある面と同じ面であるということが分かる。よってそこは人間の内面だ。これがヌース独自の4次元知覚のモノの見方である。あと、自分自身の背後の風景はどうだ?この場所も自分の肉眼では絶対に見ることはできない場所である。だから人間の内面と言っていい。さきほど視野空間上の無限遠平面を人間の外面としたのだから、この背面側は(知覚背面と呼ぼう)は、当然、視野面の裏面となっている。
ここまで言えば、ヌースにおける人間の内面と外面という概念が何を言い表さんとしているかおおよその見当はついてくるだろう。簡単である。つまり、ヌースにおける「人間の外面」と「人間の内面」とは、「前」と「後」という概念の本質について言っているのである。前は見えるが、後は見えない、ただそれだけのことだ。そして、人間の意識には「前の意識」と「後の意識」というものがある。それが人間の外面の意識、内面の意識というもののことである。
見えない「後」を「前」として見るために、人は「鏡」というものを用意する。例えば、モノの後を見たいならば、モノの後側に鏡を立てればよい。すると後があたかも前であるかのように見える。自分の後を見たい場合は、自分の前に鏡を立てればよい。すると同じく後が前であるかのように見える。。そして、このような前と後の関係は自他の間では互いに逆になっている。互いに反転しているわけだ。こんな簡単な話はない。自他の認識している空間は4次元的に相互に反転しているのである。
にもかかわらず、通常の意識は世界をそのようには見ていない。あろうことか自他両者ともが、見えない内面側を共有し合って世界認識を作っているのだ。つまり、人間の世界認識からは外面が完全に欠落しているのである。そして、見えない世界を見える世界と呼び、見える世界を見えない世界と呼んでいる。。。こんなペテンが堂々とまかり通っていいのだろうか?僕ら人間は心底狂ってる。早く内面から出ようぜ、Baby。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 10 • Tags: 内面と外面, 無限遠