4月 23 2006
ヌーススピリッツのCM撮影
今日は、ヌーススピリッツのCATV用のCM撮影にクライアントとして顔を出した。ヌーススピリッツの愛用者であるNさんとKさんが遠くから来社。二人の体験談をビデオの制作会社の撮影スタッフが収録していった。
Nさんは、とても品の良いミセスの方で、息子さんが東京の大学に行かれた後、子育てからの開放感からか、ぽっかりと心に空虚感が生まれ、しばらくかなりひどいウツに悩んでいらしたという。稽古ごとの先生から薦められ、スピッリッツを試したところ、うそのように活力が出て来て、新しく物事に取り組む意欲が出てきたとおっしゃっていた。今は、ラテンダンスに熱中されていて、基礎体力をつけるためにトレーニングジムにも通いだされたとか。数年前までは、「生きてても意味がない」とまで考えられていたそうで、ご自身でも自分の変わり様に驚いていらした。
Kさんは、60代の男性。奥さんが典型的な自己愛性人格障害で結婚生活がとても大変だったらしい。自分の主張が通らないとヒステリーを起こし、しばしばKさんの首を締めたり、モノを投げつけるなどの暴力を振るっていたという。Kさんご自身は我慢に我慢を重ね、約25年もの間、その奥さんと付き合ってきたということだった。しかし、後年になって、長年の抑圧から精神的に疲労困憊し、それこそ奥さんに殺意さえ抱きかねないような状況にまで悪化したらしい。心療内科で薬をもらっていたが、なかなか効き目がなく、副作用等もあって、仕事に差し障りも出てなかなか服用できなかったという。そんなとき、インターネットで低分子水溶性キトサンが持つ精神効用を知り、ヌーススピリッツを取り寄せたそうだ。使い始めて5日目の朝、今まで意識にモヤのように覆い被さっていた濁りが「何だ?これは?」というぐらいにはっきりと消え去り、視界が見違えるようにクリアになったことにまず驚き、それからというもの、仕事にヤル気も出て来て、奥さんに対する疲労も弱まり、冷静に対処する気持ちになれたという。「僕のような人はたくさんいらっしゃると思いますよ。あれ以上我慢していたら、本当に衝動的に何をしたか分かりません。スピリッツは僕の恩人ですよ。」別れ際にKさんはそうおっしゃっていた。
ヌーススピリッツによって救われたというお便りは、よく会社の方に届くのだが、こうして実際に使用されているユーザーサイドの生の声を聞くと、本当に自分の会社で作っている製品が現実の社会で人の役に立っていることをリアルに実感する。有り難いことだ。メーカーの代表者が言うのも恥ずかしい話だが、普段、自分が飲んでいても、寝付きがよくなる程度で、正直、精神面の効用と言われてもピンとこなかったりもする。しかし、わたしの場合、ヌース理論の思考作業自体が自分の人生の強靭な価値・目的となり得ているので、多少の精神的な苦難があろうともビクともしない精神性が築かれているのかもしれない。その分、効き目に鈍感なのだろう。しかし、わたしのような人種はやはりマイナーなはずだ。今の世の中、絶対的な価値・指標を心に抱いて生き抜くのは難しい。価値がここまで相対化し、生き方に対する理念が持ちにくくなった世の中では、つねに不安感や恐怖心が先行し、自分自身の立脚点がふらついて見えなくなってしまうことが多いのも事実だ。そのふらつきが一度負の循環に陥ってしまうと、世の中自体がまたその循環を助長するような波動に満ち満ちているために、精神力がかなり強靭な人でもすぐに不安定な状態に入ってしまう。そうした魂がもし物質的な力によって再び元気づけられるのであれば、それは使わないより使うにこしたことはない。
低分子の水溶性キトサンに精神効用があるということは、S博士のクリニックでも500例の臨床データがあり、その効果は実証されてはいるが、これに付加されたヌースエネルギーの力がどの程度のものかは現時点では科学的に立証することはできない。ただ、同じ素材を使った別会社の製品では、精神面への効果の程度はそれほど顕著ではないと、その会社自身の担当者が語っていたことも事実だ。そういう状況を見ると、ヌースの力がかなり素材力をパワーアップさせていると考えられる。見えない力だけに、うさん臭いものに見られがちだが、今後も精神面を改善できるような製品の開発に精一杯取り組んで行きたいと思っている。
わぁ、なんか思いっきりハードな宣伝をしてしまったかも。。たまには、いいか。。
4月 26 2006
身体=空間
最近、生業の方が忙しい。喜ばしいことなのだが、一方でヌースの思考空間に身を置く時間が削られるのが何とも残念だ。コウセン2号が欲しい。。
ヴェーダ哲学では十字架は「土地=コルプス」を意味し、それは人間の身体のこととして考えられていた。身体なしでは世界は開示し得ない。身体は次々に未開の現象を切り開く。身体無しにこの「空け」が存在しないことを考えれば、身体とはまさに未開の大地と言っていいものである。身体のあるところ、そこに大地が開かれる。ならば、水の惑星地球のイメージは、僕ら人間の潜在的身体そのものと重なり合う。身体に意味の場が託されているとするならば、人間の思惟の中に湧き上がってくるすべての意味の生成は、この地球に捧げられた供物なのである。
こうした眼差しで地球を見れば、大気圏はさしずめ皮膚の眷属に見えはしないだろうか。大気圏は薄い光のヴェールに覆われているが、以前にも紹介したが、ユダヤ教のミドラーシュの教えによれば、光を表す「Or」が、皮膚を表す「Or」に変化していった とき、ジェンダーの原初的分裂が起り、女性という存在が生まれてきたと説いている。光が皮膚へと変容するとき、僕らは拾い集められた光の集積場所としての身体、つまり土地=コルプスを再獲得することになる。これは霊体としての地球と月との間に敷設された交通空間でもあるだろう。
こうした惑星レベルの神経ネットワークへとジャック・インするためには、空間の重畳を見抜く視力を持つ必要性がある。近代が陥ったモノとしての3次元性と、近代以前の共同体的身体の3次元性(共通感覚的な空間と言っていい)は全く別の空間階層である。これら両方の空間の間にある差異を明確に意識に浮上させることできれば、僕らは科学主義的な見方のみで身体を分析するような愚行は犯さなくなるだろうし、また、逆に、物質を精神より劣ったものとする宗教主義的な見方の愚かさにも気づくことだろう。
具体的な解説は新著の内容に回すが、身体にとっての3次元性をヌース的に説明するとすれば、おおよそ次のようなものになる。
・前後空間………ψ7〜8………元止揚空間(エーテル体/物質体)
・左右空間………ψ9〜10………調整質空間(メンタル体(思形)/アストラル体(感性))
・上下空間………ψ11〜12………中性質空間(自我形成)
・ψ13〜14………対化の交替化の空間へ
これら観察子の序数が持つヒエラルキーの理由づけは極めて単純だ。
まず、ψ7〜ψ8について。意識がただ前後方向に向いているだけでは、前後という方向認識自体が意識に生じることはない。というのも、世界は「前」において開示はするものの、前方向に「世界がある」という「認識」は存在していないからだ。そこにあるのはただ光(見えるということ)に彩られた未解釈の原像であり、この原像は、原-知覚というべき、認識が起る以前の知覚の蠢めく領野でしかない。
「後ろ」は「前」の反映であり、それは光に対して闇を形成している。そこは知覚不能な世界であるから、知覚が存在であるとするなら、無と言ってよい世界である。しかし、この闇を前で見る手段が一つだけある。それが鏡の使用だ。鏡に映し出された「後ろ」。それは「無」へと逆転写された存在の虚像である。言うまでもなく、わたしが見るわたしの顔はこの後ろを率いる王の顔である。こうした暗闇の王を古代の人々はナルシスと呼んだ。——つづく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: アストラル, エーテル, ユダヤ, 中性質, 元止揚空間