9月 24 2006
The fool on the hill
一人の男が丘の上に立っている。
家が丘の上に建っている。
丘の上に別の家がもう一軒建っている。
二つの家を線で結ぶ。
男ともう一軒の家を線で結ぶ。
二つの線分には大きな違いがある。
どういう違いか?
後者には「見る」という知覚が起こっている(だろう)ということだ。
知覚が内包されている線分は4次元である。なぜ?それは丘の上に立っている男の位置(点)の中を想像すればおのずと分かってくる。そこには男が見ている世界が広がっている。その広がりは遥か遠くの風景を包み込み、大空の無限の彼方までを映し込んでいることだろう。そう。男が立っている位置(点)には無限が入り込んでいるのだ。
言うまでもなく、この空間には、そうした3次元の広がりの無限遠を映し込んだ位置が無数、存在している。知覚を持った者、つまり観測者は無数に存在させられているのだから。幾何学的に考えると、4次元空間の方向の位置は3次元空間上では無限遠としか言いようのない場所にある。だから、見られる物と見る者を結ぶ線は、3次元上のゼロ点と無限遠を結ぶ線と解釈されるべきだ。それは4次元方向に引かれた線分のイメージに合致する。そして、それがひとたび3次元上の線と混同されてしまうと、そこにあった4次元の距離には時間が出現してしまう。君たちもよく聞く話だろう。あの月までは約38万kmあり、かつ、それは約1.某秒前の世界なんだよ。と。
しかし、それはほんとうだろうか?知覚正面(前)には空間的距離と同様に時間的な距離も存在していないのではないだろうか。というのも、前においては、4次元的な距離は「縮む」という知覚現象として消費されているような気がするからだ。モノからわたしが遠ざかれば遠ざかるほどモノは縮んでいく。月の直径はとても3千5百キロもあるように見えない。せいぜい、手に持って見る10円玉と同じぐらいの大きさだ。4次元の距離はその「見え」の縮みの中にすでに現れている。だから、その空間の中に時間が介入してくる隙はないように思える。
おそらく、時間の介入は、こうした見えの縮みが忘却されている空間、つまり、1メートルは1メートル、1Kmは1Kmというように尺度が絶対視されている概念上の空間の中で起こっているのではないかと思われる。つまり、時間が有効に機能するのはユークリッド的な合同変換の世界においてのみではないのか、ということである。とすれば、夜空を見上げたとき、遠くに輝く星々が数万年前の光などといった話はちょっと眉唾ではないかと疑いたくならないか。だって、すでに星は縮んで見えているのだろうから。
奥行きは「見る」ということが生起している空間であり、それは物理的に言えば4次元だ。そして、この奥行きには知覚的事実として距離が存在していない。これは、「見る、見える」という現象自体が光のベクトルと同じ意味を持つということを暗示している。とすれば、「見る、見える」ということは光速度状態そのものを指しているとも言えるのではないだろうか。もし、そうならば、そこには絶対的同時性が成り立っている。ここには物理的な時間が存在する余地はない。
ここで「物理的な時間が存在しない」と言ってるのは、光の中においては一瞬=永遠という等式が成り立っている、という意味だ。一瞬=永遠。。そんな世界が一体どこにあるというのだろうか。。いや、ある。それはおそらく僕らの「今」のことである。観測者においては「いつでも今」だということである。光速度状態としての観測者はつねにこの「いつでも今」を持つ。だからこそ、人間の現実は生まれて死ぬまで、この「いつでも今の中」で展開されているのだ。いや、この「いつでも今」こそ、「死」の位置のことと考えるべきなのかもしれない。すべての人の「いつでも今」がつながり合えば、きっと天国が現れる。「時の終わり」にそれは出現すると言われているじゃないか。
時間とは概念にすぎない。モノの手前に感じている自分の位置に無限が見えているということを自覚すること。そうすれば、君と目の前のモノとを結んだ線は4次元に変貌する。そして、できれば、その線をモノの中心と一致させること。それで君は光速度に達することができる。
9月 25 2006
新商品のコピー
今日はヌーススピリッツの姉妹品として11月に発売する「ヌースアイ(noos i)」のキャッチコピー案が代理店の方から送られてきて、スタッフ全員でどれがいいか検討した。実を言うと、わたしはコピーにうるさい。コビーを考えて、いかしたコピーができるのは嬉しいが、コビーを考えているときの自分の脳みその在り方にはいささか抵抗がある。コビーを考えるのは楽しいが、そういう自分がイヤでもあるのだ。ヌース理論の中でも、わたしはコピー感覚を存分に楽しむが、同時に嫌悪もしている。「NC」「ヌルポッド」「アクアフラット」。これが理論用語か?まるでPC業界の商品名みたいではないか。
昭和40年代ぐらいまでコピーはまだ健全だった。「スカッとさわやか、コカ・コーラ」「初恋の味・カルピス」「男は黙って、サッポロビール」。この頃はまだ、コピーという言葉には「複写機」の意味しかなく、いわゆる宣伝文としてのコピーはキャッチフレーズと呼ばれていた。コピーという言葉が一躍広まったのは、あの糸井重里が出てきてからだ。
「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」糸井重里が西武百貨店で仕掛けた言葉のマジックは、当時のわたしにも鮮烈だった。たった数文字の言葉、それも一体何がいいのか分からない数行の文字の羅列が、企業のイメージをまるで魔法のように変えて行く。別に説明をしているわけでもない。理念を述べているわけでもない。論理的な説明は何一つなく、何の脈絡もない言葉の数片がまるで詩のような力を持って、人々の無意識の中に影響を及ぼして行く。
糸井重里に代表される当時のコピーライターが作り出した言語センスはおそらく未だに大きな影響与えている。連中は敢えて言えば、60年代〜70年代の全共闘世代のアンチとして出てきた人種だ。真面目はやめよう。真面目な議論に真面目に参加するのはダサイ。あくまでもメタな視点に立って、物事にシニカルにアイロニカルに関わろうとすること。そして、そうしたスタンスを取る言葉の使い方に細心の注意を払うこと。あの時期流行した現代思想と同じで、言い回しの妙を競い、そのセンスを磨くことが、彼らにとっては、もっとも重要な関心事だった。そして、その流れは今でも変わっていないように思える。
わたしが音楽ギョーカイと多少のおつきあいがあったのもちょうどこの頃だった。コピー文化の波はこのギョーカイにもモロに押し寄せていた。化粧品などの発売に合わせて、CMソングをいわゆるタイアップ商品として発売するのだ。。「君の瞳は百万ボルト」なんかがいい例だ。わたしが作っていた曲もかなりPOPな方だったのだが、担当のディレクターの口癖はそれでも尚、「あざとさ」だった。「はぁんだぁ〜、音楽でメシ食うつもりなら、あざとくないとダメよ。あざとくね。ほうら、今、流行ってる、アレあるじゃん。あのくらいあざとくなきゃ、売れねぇーのよね。おっと、ベション、ベション。」「なに言ってやがる。あざとくなったら、音楽はおしまいだろーが。大衆に迎合して何が生まれるっつーんだ。大衆を新しい世界に連れ出す。それが良質のPOPSというもんだろうがぁ〜。」と心の中でむかつくアオいわたし。と次の瞬間「あっ、この子のビーチクいいねぇ〜。」と、GOROのグラビアを見ながらニンマリしているギョーカイディレクター。「うっ、こいつら、みんな腐っとる。。。」そんな憤怒の中で毎日を過ごしてたっけ。。
モノを売るために言葉を使う。。。その行為にまつわる快楽と嫌悪。コピーだけではなく、現在の大方の業界カルチャーはすべて、この病に蝕まれている。商品のコピーを考えるときは、その病が放つニオイの中に入らなければならない。それが商品としていいものであるか否かということは、この際、関係ない。言葉が貨幣に換算される、もしくは、言葉が利益を目的として使用される限り、必ず、こうした異臭が立ち上がる。というのも、言葉は目的に応じて使われる道具などではないからだ。モノが精神の表れだとすれば、言葉とは心の表れである。
さて、新商品のコピー、どうしよう。。。。
By kohsen • 05_ヌースコーポレーション, 10_その他 • 5 • Tags: 言葉