4月 19 2006
魚たちの国
水の中を茫漠とした意識で泳ぐ魚たち。おそらく彼らはそこが水の中であるということを知らない。目前に浮遊するプランクトンをただパクパクと食しながら、その開いているのか閉じているのか分からないようなギョロリとした目玉で夢遊病者のように今日も海中を徘徊する。彼らは徹底した斜視である。その斜視のせいで、彼らには前が見えていない。いや、正確に言えば、前後を左右に見ている。この意識の在り方が彼らの目の形態形成を決定づけていると言ってもいい。
魚たちにとっての、この「前」の見えなさは、現実を見えなくさせられた人間の意識のメタファーなのかもしれない(実際にはメタファー以上の関連があるのかもしれないが)。僕らは確かに自分が人間の身体を持っていると信じて疑わない。しかし、身体に意識が行き届いているかというと、人間の意識の自由になるのは随意筋関連の器官ぐらいのもので、ほとんどは「自分の」と呼べるほどの支配力は持ってはいない。その意味で言えば、自我意識は人間の身体が生成している場所からは遠くかけ離れたところにいるのだ。だから、君はなぜ人間が二本足で歩くのか知らないし、なぜ二つの眼が顔面についているのかも知らないし、そもそも顔面が何なのかも知らない。となれば当然、「前」についても何も分かっちゃいないはずだ。
前を見るということはどういうことだろう?君は本当に前を見ているのか?ひょっとして常に横を見ているのではないか?前とは何だ?ちょっと考えて見ればすぐに分かるが、「前を見る」という物言いは正しい日本語ではない。というのも、「見ること」は絶えず「前」においてしかできないからだ。見えるのはいつも前——何のことはない。前とは実在が存在の開けを示してくる方向なのだ。しかし、僕らが慣れ親しんだ空間には、この「前」と相対する方向としての「後ろ」があり、かつ、左-右と上-下といった計6つの直交する方向性が存在している。古代人たちは、この6つの空間の方向性のことを「六合(くに)」と呼んでいた。もちろん、この「くに」は、現代人が考えているような「国(くに)」とは全く違ったものである。
「国」とはその字体が表しているように、有限の囲いによって内部に閉じ込められた玉の場所である。玉とは本来、物質化した霊(たま)を意味する言葉だが、ヌース的解釈ではこれらは物質そのもののことにほかならない。世界は玉で満たされているのだ。よって、物質が囲われた場所としての国とは、この場合、僕らが宇宙と呼んでいる場所(時空)のことを意味すると言っていい。
時空はご存知のように空間としては3次元だ。3次元空間自体には「前後・左右・上下」といった身体から派生している方向づけの意味合いは一切存在していない。近代が作り上げた科学的な世界観においては、3次元は入れ変え可能であり対称性を持っている。そこでは見事に「六合(くに)」が消滅しているのだ。
話を分かりやすくしよう。僕らはこの近代が理性的と呼んではばからないこの平板的な3次元を、すべて「前」として経験することができる。グルグル身体を回せばいいだけの話だ。しかし、そのとき、当然、この3次元は「後ろ」としても経験されているはずだ。こり両者は同じ空間ではない。というのも、前を経験しているとき、同時に僕らは後ろも概念として経験しているからだ。いや、後ろだけじゃ話は済まない。左-右だって、上-下だって、それらは常に同時に身体感覚から派生してくる方向概念として併存している。となれば、「六合(くに)」には、本来、六種類の3次元空間が存在していることになる。身体が存在する場所はそうした18の方向性を看取することができている空間である。
話を魚に戻そう。ヌース理論がいう「水」とは、これら身体的空間の差異が見えない3次元世界のことを指す言葉である。つまり、水とは「国」の中に捕われの身となった「六合」のことなのだ。そこに住む人間が水蛭子(ヒルコ)と呼ばれるのはそのような理由からである。彼らは水の種族として、左右方向への視力を用いて前後を見ている。奥行きに与えられた距離とはそうした斜視の視力の産物である。
4月 23 2006
ヌーススピリッツのCM撮影
今日は、ヌーススピリッツのCATV用のCM撮影にクライアントとして顔を出した。ヌーススピリッツの愛用者であるNさんとKさんが遠くから来社。二人の体験談をビデオの制作会社の撮影スタッフが収録していった。
Nさんは、とても品の良いミセスの方で、息子さんが東京の大学に行かれた後、子育てからの開放感からか、ぽっかりと心に空虚感が生まれ、しばらくかなりひどいウツに悩んでいらしたという。稽古ごとの先生から薦められ、スピッリッツを試したところ、うそのように活力が出て来て、新しく物事に取り組む意欲が出てきたとおっしゃっていた。今は、ラテンダンスに熱中されていて、基礎体力をつけるためにトレーニングジムにも通いだされたとか。数年前までは、「生きてても意味がない」とまで考えられていたそうで、ご自身でも自分の変わり様に驚いていらした。
Kさんは、60代の男性。奥さんが典型的な自己愛性人格障害で結婚生活がとても大変だったらしい。自分の主張が通らないとヒステリーを起こし、しばしばKさんの首を締めたり、モノを投げつけるなどの暴力を振るっていたという。Kさんご自身は我慢に我慢を重ね、約25年もの間、その奥さんと付き合ってきたということだった。しかし、後年になって、長年の抑圧から精神的に疲労困憊し、それこそ奥さんに殺意さえ抱きかねないような状況にまで悪化したらしい。心療内科で薬をもらっていたが、なかなか効き目がなく、副作用等もあって、仕事に差し障りも出てなかなか服用できなかったという。そんなとき、インターネットで低分子水溶性キトサンが持つ精神効用を知り、ヌーススピリッツを取り寄せたそうだ。使い始めて5日目の朝、今まで意識にモヤのように覆い被さっていた濁りが「何だ?これは?」というぐらいにはっきりと消え去り、視界が見違えるようにクリアになったことにまず驚き、それからというもの、仕事にヤル気も出て来て、奥さんに対する疲労も弱まり、冷静に対処する気持ちになれたという。「僕のような人はたくさんいらっしゃると思いますよ。あれ以上我慢していたら、本当に衝動的に何をしたか分かりません。スピリッツは僕の恩人ですよ。」別れ際にKさんはそうおっしゃっていた。
ヌーススピリッツによって救われたというお便りは、よく会社の方に届くのだが、こうして実際に使用されているユーザーサイドの生の声を聞くと、本当に自分の会社で作っている製品が現実の社会で人の役に立っていることをリアルに実感する。有り難いことだ。メーカーの代表者が言うのも恥ずかしい話だが、普段、自分が飲んでいても、寝付きがよくなる程度で、正直、精神面の効用と言われてもピンとこなかったりもする。しかし、わたしの場合、ヌース理論の思考作業自体が自分の人生の強靭な価値・目的となり得ているので、多少の精神的な苦難があろうともビクともしない精神性が築かれているのかもしれない。その分、効き目に鈍感なのだろう。しかし、わたしのような人種はやはりマイナーなはずだ。今の世の中、絶対的な価値・指標を心に抱いて生き抜くのは難しい。価値がここまで相対化し、生き方に対する理念が持ちにくくなった世の中では、つねに不安感や恐怖心が先行し、自分自身の立脚点がふらついて見えなくなってしまうことが多いのも事実だ。そのふらつきが一度負の循環に陥ってしまうと、世の中自体がまたその循環を助長するような波動に満ち満ちているために、精神力がかなり強靭な人でもすぐに不安定な状態に入ってしまう。そうした魂がもし物質的な力によって再び元気づけられるのであれば、それは使わないより使うにこしたことはない。
低分子の水溶性キトサンに精神効用があるということは、S博士のクリニックでも500例の臨床データがあり、その効果は実証されてはいるが、これに付加されたヌースエネルギーの力がどの程度のものかは現時点では科学的に立証することはできない。ただ、同じ素材を使った別会社の製品では、精神面への効果の程度はそれほど顕著ではないと、その会社自身の担当者が語っていたことも事実だ。そういう状況を見ると、ヌースの力がかなり素材力をパワーアップさせていると考えられる。見えない力だけに、うさん臭いものに見られがちだが、今後も精神面を改善できるような製品の開発に精一杯取り組んで行きたいと思っている。
わぁ、なんか思いっきりハードな宣伝をしてしまったかも。。たまには、いいか。。
By kohsen • 05_ヌースコーポレーション • 1 • Tags: サプリメント