10月 4 2006
ブロッサム
現在、ヌースコーポレーション初のCD制作を試みている。11月に発売になる新製品「ヌースアイ」を買ってくれたお客さん全員にプレゼントするためのCDだが、そんじょそこらの宣伝アイテムと考えてもらっては困る。単なる営業上の形式的な返礼ではなく、魂を込めて、わたしやわたしの会社のスタッフ生活を支えてくれているヌースユーザーの皆さんに感謝の気持ちを表すこと。それが大事だと思った。そこで思いついたのが、音楽の贈り物だった。それもとびきり上質の音楽じゃないといけない。単なる「おまけCD」ではなく、お金を出してでも欲しくなるような珠玉の名盤しなくてはならない。そうあってこそ初めて贈与の精神に溢れたものとなるからだ。そこでまずはコンセプトを練る。
生きる——ということ。
それは光と闇の間で揺れ動くこと。
すべての命は闇に支えられ、
世界の終わりに光の花を咲かせる。。
よっしゃ、決まった。これで行こう。
曲数は2曲。タイトルは
1、想いの糧(OMOI NO KATE)
2、光の花(HIKARI NO HANA)
とする。
全体のタイトルは「BLOSSOM/ブロッサム」。
付属のブックレットに入れる文章は僕が書く。
できれば、詩の形態をとるのがいい。
さっそく、音楽家のW氏に東京で会いコンセプトを伝える。ありがたいことに一つ返事でOKのサイン。こうなるとジャケットもとびきり美しいものが欲しい。今度は編集者のO氏と写真家のT氏に連絡を取り、居酒屋で早速、ミーティング。両氏とも快くOKしてくれた。デザインはO氏の紹介でM氏にお願いすることに。このメンバーでダサイものは作れない。仕上がりは僕にかかっている。
この1ケ月というもの、「ブロッサム」のプロデュース作業に追われていたが、ようやく今日、すべての作業を完遂。11月1日にリリース予定。お楽しみに。
10月 18 2006
黒衣の旅人
僕は文学のことはよく分からない。しかし、この人の詩の凄さだけは分かる。。この人の詩はまるで呪文だ。音読すると周囲に何かが集まってくるのを感じる。数千年もの間生き続けている言葉たちに宿った言霊がまるで夜集会でも開くかのようにぞろぞろとどこからともなく集まってくる。連中は独特の臭いを持っている。最初に漂ってくるのは楽園の薔薇のような香り。甘く香しい。しかし、それに酔いしれると危険だ。すぐさまその芳香は腐乱した肉の臭いに変わる。薔薇の木が屍肉を養分として育つというのはよく言われていることじゃないか——その土壌の中に折り重なった二人の男女の死体が埋まっている。アダムとイブだ。言霊の中では死霊と聖霊は見分けがつかない。だから言葉は怖いのだ。
牢獄、斬首、腐肉、死体、傷口。。。痛々しい言葉の列。血生臭さとともに、自らのはらわたを自らの手で何の感情も抱かずつかみ出しているような徹底した冷血の眼差し。そこには善悪を超越したした絶対善即絶対悪としての一者の姿が垣間見える。そういえば、河村氏はその昔「僕は一元論的グノーシス主義なんだよ」と言っていたっけ。存在の前姿は神の寛大さを持ち、後ろ姿は悪魔のように残虐だ。それは河村氏の作品にもそのまま当て嵌まる。世界を世界として繋ぎ止めるポロメオの環。その禁断の結び目を垣間見た者だけが知る詩の秘密。真言としての詩を支えるある秘密の構造。河村氏の詩は詩というよりはまるで物理の方程式のように徹底した計算のもとに立ち表れた記号のように見えないこともない。おそらく河村式修辞学というのがあるのだろう。この特殊な修辞学は詩の論理を支えている詩の精神に依拠している。それはおそらくヌースがいうところのイデアではないのか。僕はずっとそう思っている。
詩を詩たらしめているイゾモルフィスム(類似同形性)。おそらくそれは神の身体形成を貫く絶対的秩序である。その秩序が肉や骨として結実したもの。それが肉としての身体であるはずだ。諸物、諸世界は転倒している。詩の精神はそうした諸転倒の重みをその全面に背負って成り立っているのではないか。存在の重みがジリジリと言葉の背骨に乗りかかる。グニャと不気味な音を立てて曲がる精神。存在の圧力で発熱し、いたるところに火傷を負った精神。斬りつけられ、いたるところから出血を繰り返す精神。そんな精神が饒舌なはずがない。河村氏はいつも言っていた。ほんとうの詩は聾唖者が発する吃音のようにリーディングされなければならない——。詩が言葉の重みに逆らって浮遊する霊の苦悩、苦悶であればそれは当然のことだ。種子の中に植物の全成長の履歴を見通す目——言葉のうごめきの中に創造のイデアは暗躍している。しかし、イデア自体は言葉ではあり得ない。種子の中に種子ではないものが混入している。それを乖離させることは可能なのか? 言葉をすべてはぎ取って、果たして剥き出しのままの詩の精神を僕らの知性の前にえいっと取り出して見せることが可能なのか? 言葉と精神が分離不能な形で浸透し合っているとすれば、言葉をはぎ取った精神は役立たずのクズ鉄となりはしまいか。それをどう回避するか、それがこれからのヌースに課された試練だ。
言葉の通底器、それは言葉を運ぶものでもあり、言葉を生成していくものでもある。それを見い出すことができれば、おそらく僕らは言葉から解放される。言葉からの解放とは能動者への転身である。『黒衣の旅人』はそのとき初めてその転身によって重々しい衣布のすべてを脱ぎ捨てることができるはずだ。その下に隠された美しい裸体。血球の中の鉄と星々の中の鉄との通路を見出すこと。鉄とは詩の精神の凝縮された場所である。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 3 • Tags: グノーシス, 河村悟, 言葉