12月 13 2023
ヌーソロジーがやっている存在感覚の取り戻しの方法
「いつでも今、どこでもここ」というのが身体が持っている時間性と空間性です。つまり、自己自身が感じている身体というのは時空にはないものなんです。非局的なものだということですね。
この非局所的感覚(持続感覚もしくは永遠感覚と言ってもいいものです)が、他者視線によって麻痺させられてしまっているのが、今の私たちなんですね。
決して難しいことを言ってるわけではありません。本来はそちらの方が当たり前の感覚なんだろうと思います。
でも、外的視線によって作り出された無数の概念が自己周りに何層にも巻き付いているために、この感覚をなかなか取り戻せないでいる。長年ヌースの話をしてきて、それを強く感じます。もちろん、自分も含めてです。
素粒子の構造が役立つのは、その非局所的空間の地図を判明な形で地図化しているからです。素粒子が内在させているトポロジカルな概念は外的視線を意識から払拭する力を持っています。
古代由来の曖昧な神秘主義に手を出すより、この地図をしっかりと思考の力(反-思考の力といった方がいいかもしれない)によって辿る方が、超越的なものを持ち込むことなく、極めて自然に存在感覚を取り戻すことができるはずです。
⚫︎自己に二つのものの重なりを発見すること
当然私たちが感じている自己感覚というのは、時空と持続がミックスされたものになっています。ベルクソンが言ったように、この二つが判別つき難く混雑化してしまっている。
この混雑化をまずは解かないといけない。そのために、ヌーソロジーは「人間の内面」と「人間の外面」という場所の区別を幾何学的に整理して、それぞれを言語の場と知覚の場として明確に区分しようとしているわけです。
人間の内面には鏡像的自我にルーツを持った外的自己がいます。一方、人間の外面には存在にルーツを持った失われた主体としての内的自己がいます。ヌーソロジーにいう付帯質=ψ6と精神=ψ5の関係です。
私たちが個の意識と呼んでいるものは、この二つの場所の重なりが基盤となって生じているということ。このことをまずは深く自己自身の中で自覚しないといけません。
現代の個人主義が社会と個の間のダブルバインドによって右往左往してしまうのも、この重なりが意識できていないからです。
鏡像ベースの個人主義はエゴイズムに行き着くしかありません。個人主義を訴えかけてきているのは真の主体の方です。本来、個人主義というものは霊的個体化の中にしか息づくことができないということです。
内的自己の場所を発見しましょう。すべてはそれからです。
(下イラストは、この文章をそのままプロンプトにしてChatGPTに描かせたものです)
12月 18 2023
反-芸術の世界へ
アーティストの方にはお叱りを受けるかもしれませんが、AIの能力はイメージの生成においても、すでに人間を追い抜きつつあるのではないかと感じます。
しかし、決してこれは悲観することではなくて、人間を今までの人間とはまったく違った場所へと移動させるための歴史的必然のようにも思えます。
「芸術とは見えるものを再現するのではなく、見えないものを見えるようにするものである」というクレーの有名な言葉がありますが、これから人間はそれを超えて、「見えるものを見えないようにする反-芸術」というものの世界に向かっていくのではないでしょうか。
ヴェイユが言うところの脱-創造の世界です。
もし、歴史の中で宗教と芸術のポジションが入れ替わっていたなら、世界はもっと喜びの感情に満ち溢れた世界になっていたことでしょう。
芸術家が僧侶で、作品が寺院であったなら。。
しかし、それはついに叶わなかった。
今から生まれてくる反-芸術運動とは、こうして死滅しつつある芸術の弔い合戦となっていくことでしょう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 0 • Tags: シモー ヌ・ヴェイユ