4月 26 2006
身体=空間
最近、生業の方が忙しい。喜ばしいことなのだが、一方でヌースの思考空間に身を置く時間が削られるのが何とも残念だ。コウセン2号が欲しい。。
ヴェーダ哲学では十字架は「土地=コルプス」を意味し、それは人間の身体のこととして考えられていた。身体なしでは世界は開示し得ない。身体は次々に未開の現象を切り開く。身体無しにこの「空け」が存在しないことを考えれば、身体とはまさに未開の大地と言っていいものである。身体のあるところ、そこに大地が開かれる。ならば、水の惑星地球のイメージは、僕ら人間の潜在的身体そのものと重なり合う。身体に意味の場が託されているとするならば、人間の思惟の中に湧き上がってくるすべての意味の生成は、この地球に捧げられた供物なのである。
こうした眼差しで地球を見れば、大気圏はさしずめ皮膚の眷属に見えはしないだろうか。大気圏は薄い光のヴェールに覆われているが、以前にも紹介したが、ユダヤ教のミドラーシュの教えによれば、光を表す「Or」が、皮膚を表す「Or」に変化していった とき、ジェンダーの原初的分裂が起り、女性という存在が生まれてきたと説いている。光が皮膚へと変容するとき、僕らは拾い集められた光の集積場所としての身体、つまり土地=コルプスを再獲得することになる。これは霊体としての地球と月との間に敷設された交通空間でもあるだろう。
こうした惑星レベルの神経ネットワークへとジャック・インするためには、空間の重畳を見抜く視力を持つ必要性がある。近代が陥ったモノとしての3次元性と、近代以前の共同体的身体の3次元性(共通感覚的な空間と言っていい)は全く別の空間階層である。これら両方の空間の間にある差異を明確に意識に浮上させることできれば、僕らは科学主義的な見方のみで身体を分析するような愚行は犯さなくなるだろうし、また、逆に、物質を精神より劣ったものとする宗教主義的な見方の愚かさにも気づくことだろう。
具体的な解説は新著の内容に回すが、身体にとっての3次元性をヌース的に説明するとすれば、おおよそ次のようなものになる。
・前後空間………ψ7〜8………元止揚空間(エーテル体/物質体)
・左右空間………ψ9〜10………調整質空間(メンタル体(思形)/アストラル体(感性))
・上下空間………ψ11〜12………中性質空間(自我形成)
・ψ13〜14………対化の交替化の空間へ
これら観察子の序数が持つヒエラルキーの理由づけは極めて単純だ。
まず、ψ7〜ψ8について。意識がただ前後方向に向いているだけでは、前後という方向認識自体が意識に生じることはない。というのも、世界は「前」において開示はするものの、前方向に「世界がある」という「認識」は存在していないからだ。そこにあるのはただ光(見えるということ)に彩られた未解釈の原像であり、この原像は、原-知覚というべき、認識が起る以前の知覚の蠢めく領野でしかない。
「後ろ」は「前」の反映であり、それは光に対して闇を形成している。そこは知覚不能な世界であるから、知覚が存在であるとするなら、無と言ってよい世界である。しかし、この闇を前で見る手段が一つだけある。それが鏡の使用だ。鏡に映し出された「後ろ」。それは「無」へと逆転写された存在の虚像である。言うまでもなく、わたしが見るわたしの顔はこの後ろを率いる王の顔である。こうした暗闇の王を古代の人々はナルシスと呼んだ。——つづく。
4月 28 2006
新著のためのメモ
新著執筆のメモ代わりに続けて記しておく。
世界が現象として目前に開示されるだけでは主客認識も自他認識もおそらく発生しない。というのも、主客認識や自他認識の発生には前後方向に延長の概念が派生する必要があるからだ。奥行きに距離を見て、その距離が主-客や自-他を分断関係として用意する。
前後方向における延長が左右方向からの認識であることは直感的に感じ取ることはできる。しかし、僕らはなぜ左右方向から前後方向の延長性をイメージすることができるのだろうか。それは、おそらく、意識が空間自体として活動しているからだ。
モノと自己、さらには、モノを挟んで向かい合う自他という位置関係を想像するとき、意識はすでにモノの前後軸方向から左右軸方向側へとその位置を移動させている。つまり、前後方向は左右方向から観察されない限り認識には上り得ないということだ。実際の自分の視点ではないところからの対象に対する観察力。こうした力をサルトルは「想像力」と呼んでいたが、知性の活動においてこの想像力は不可欠なものである。
ヌースでは意識の位置がこうした左右方向に出ることを「表相の等化」と呼ぶ。これは自他が経験している対象の見え(表相)であるψ1-ψ*1の関係が等化されることを意味する。意識は当然のことながら、ここからψ3-ψ*3、ψ5-ψ*5という外面同士の等化を進めていくことになるのだが、1-1*、3-3*、5-5*、7-7*という奇数系同士の観察子が等化されていく次元が思形の全体性=ψ9が作用している場所となる。これは自他の外面同士の統合地帯であるから、客観性の起源となっている精神作用として解釈される。つまり、ヌース的に見ると、客観性の起源=もの自体とは、無意識の主体(人間の外面)が統合された空間なのである。
ヌースでいう「等化」の作用とは、意識の次元上昇のことであり、幾何学的には直交性=観察のノエシスが増設されていくことを意味する。「表相の等化」によって、相対する人間の外面領域として対峙関係にあった自他の二つのエーテル体は統合され、別の作用へと質的変化を被る。この変化は幾何学的には極めてドラスティックな変化である。エーテル体は前後方向の中に集約された4次元空間上のノエシスとして活動しているが、この質的変化はノエシスを5次元方向へと直交変換させる。そして、おそらく、この5次元が実は僕らが左右と呼んでいる方向の本質となっている。
このブログでも何度も執拗に書いてきたように、前後方向の空間においては、自他に知覚される空間は鏡映空間の役割を持ち、互いに反転関係にある。この鏡映性は射影空間の性質を持っているので、互いの鏡映反転の関係は、内部=外部、外部=内部という双対のメビウス的捻れによって連続的に結びつけられている。人間における無数の個体性を決定する個々のパースペクティブは、この四次元回転が作り出す捻れに沿って配位されている可能性が高い。
しかし、ここに左右方向からの観察意識が入射すると、その連続的な結びつきを切断する作用が生じてくる。別に難しい話ではない。前後空間の風景は、視野とその中に映し出された君のまなざしから成っているが、左右方向から見た風景は、君と僕との二つの横顔が対等に並んでいるような情景へと変わってしまうということだ。これは極めて大きな意識のジャンプだ。このジャンプがさきほど言ったエーテル体の変質の意味するところなわけだが、このジャンプによって、前後空間に内包されていた自他間の視野空間と瞳孔の相互反転のキアスムの関係は忘却され、二つの視野空間と二つの瞳孔という形での極性分離が起こる。つまり、(−,+,−*,+*)として構成されていたものが、(−,−*、+,+*)へと偏極してしまうのだ。これは、物理学的に言えば、三つの力が作用する微視的な内部空間の世界から、重力+時空という巨視的な世界へと移行することとホモロジカルな関係にあるように思われる。
ヌース的には、この素粒子空間→重力+時空への存在の偏極がシリウスからオリオンとプレアデスへの二極化の本質となっている。オリオン-プレアデス関係においては、意識の相殺の流れを作り出していた双対的な4値関係が見えなくなり、世界は一気に2値化する。というのも、(−,−*、+,+*)は(−,−*)を一つの−に統合し、(+,+*)もまたその反映として一つの+へと同一化させられてしまうからだ。それらの関係を天上と地上と呼んでもいいし、父と子と呼んでもいいし、ちょっと気取って象徴界と想像界と呼んでもいい。ユダヤの神と契約の民の関係がここに生まれ。世界があたかも「光あれ!」という神の号令のもとに、人間に与えられたかのように見えるのだ。
ユダヤの神は過去の神であり、新しい神の到来を待機する真のユダヤ者にとっては偽神である。その意味では、光あれ!!というよりも、重さあれ!!によって世界は生じたのである。現在、ユダヤ神秘主義では、(−,−*)を創造界(ベリアー)と呼び、(+,+*)は活動界(アッシャー)と呼んでいる。(+.−,+*,−*)が意味するものは、もちろん、失われた楽園(形成界=イェッツェラー)である。
僕ら人間(自他)は統合の+という場に生み落とされた新たな−と−*である。楽園の扉を開くためには、統合の+、つまり、この重力に支配された時空を二つに分割する必要があるのだ。そのためには、この−と−*という双子の光に対し自覚的にならなければならない。この覚知がヌースが宇宙卵の分割と呼ぶものである。見るものが無数にいるならば、見られる世界も無数にある。まずは60億個の地球を作り出そう。そうしなければ、本当の地球は見えてこない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: エーテル, オリオン, サルトル, プレアデス, メビウス, ユダヤ, 内面と外面, 素粒子, 表相