10月 20 2006
次元の扉
砂子氏から『次元の扉』というと小冊子が送られてきた。この小冊子は砂子氏がある機関誌に連載していたエッセイを一冊にまとめたものらしい。サブタイトルを見ると「〜時間、空間、そして人間〜」とある。おそらく、ごく普通の一般読者を想定して書かれたものなのだろう。例によって砂子氏の手によるものすごいタッチの図が挿入されていて、独自の砂子ワールドが展開されている。難しい数式も難解な哲学用語も1つも出てこない。日常的な言葉で淡々と意識と量子のつながりについて説明してある。この小冊子の内容は最後の数行に集約されているので、その部分を引用しておこう。
物理学はすべてのものは波動であることを発見しました。次のステップは、すべての波動は観察者の意識であることを発見する段階にきているようです。物と心の二元対立世界から、二元調和的世界観へ。あるいはそれらをふくめた四元調和的世界観へと認識を拡張していく途上にあると思います。
見る者は見られるものである(クリシュナムルティ)
人類は認識を拡張していく途上にある——僕もそう思う。世界を見つめている存在、つまり幾多の眼差しの交差によって物質の母胎となる量子のシステムが構成されているということ。それは僕の頭の中ではもはや常識となっている。もちろんこの常識は今のところ僕だけのもので、残念なことに世界の常識とはなっていない。世間ではデモクリトス的な原子とライプニッツ的な原子の差は、そこには、存在を他者に押し付けるか自分で引き受けるかという大きな差がある。生きることには責任がある。この世界に生まれ出たということだけで魂には責任がある。この責任は国家や社会、またはある特定の組織から押し付けられるものではない。すべてものはつながって生きている。そうした当たり前の世界の有り様から響き渡ってくるリンケージ感覚から呼び起こされてくるものだ。
君と僕はつながっている。そのつながりが電気的な活動を促し、熱や圧力を生み出し、物質を化学変化させ、万物を流動させていく。全空間に浸透する精神。感覚的なものと知性的なものがつながりを求めている。そのアンドロギュノス的風景は、近い将来どのような形を持って浮上してくるのだろう。おそらく、大事なことは常識の中にある「自然にそう見えている」という感覚だ。世界が自然にそう見えてくれば、そこで生起している見方はそれがどういっったものであれ常識的なものとなる。常識とは自分の居座る場所のことであり、それはときに人格の一部ですらある。だからそれぞれに抱く常識が変われば人格も変わる。いや、その変わり方次第では「自分」でなくなることさえ可能かもしれない。
古代人に自然にそう見えていたもの。20世紀の人間たちに自然にそう見えていたもの。そして、21世紀の人間たちに自然にそう見えることになるであろうところのもの。世界の見え方、感じた方はその時代時代の趨勢で変わって行く。21世紀の僕らの知性に到来してくる新しい存在のビジョン。おそらくそれはミクロとマクロが描く円環である。この円環はおそらくオイラーの公式と直結している。そこでこの円環をオイラーリングと仮称することにしよう。
単純な物質的表象としてこのオイラーリングをイメージするのは難しい。存在するあらゆる部分の中に全体が含まれ、その部分がまた寄り集まって全体を作る。そして、その全体はまた部分の中に潜り込む。マルチにグルグル巻きにされる実存のルート。こうしたホログラフィックなシステムエンジニアリングの要となっているのが、僕ら人間という種における個体存在である。個体存在は存在のつなぎ目、結節点と言っていいものなのだ。この結節点が見出されない限り、世界は唯物論と観念論との間で反復し続けるしかない。オイラーリングに備わった物質と精神との捻れ目。その捩じれに起源はない。その捻れのエッジに「わたし」が形作られるのである。そうした捻れは双対関係を持って互いに13回の交差を行っている。つまり、26次元のドーナツ構造を持っているのだ。古人(いにしえびと)はそれを存在の契りと見なし「十三霊結び(たまむすび)」と呼んだ。見る者と見られるものとの一致が見えてくると、その結び目は一気にほどかれ、同時にそこに新たなる第一の結び目が生まれる。死と再生の「13」。終わりであることと始まりであることは「13」の中に同じものとして眠っている。。
10月 23 2006
ブラック・ダリア
デ・パルマは僕にとって思い出深い監督である。20代前半に吉祥寺に住んでいた頃、ロックミュージカル特集というオールナイト上映会があって、「ジーザス・クライスト・スーパースター」「ゴッドスペル」「ロッキーホラーショー」「ファントム・オブ・パラダイス」の4本を立て続けに観た。そのとき一番面白かったのが「ファントム・オブ・パラダイス」で、これがデ・パルマ作品との最初の出会いとなった。その後、「キャリー」「殺しのドレス」「ミッドナイト・クロス」「スカーフェイス」と立て続けに見せられた僕は一気にデ・バルマのファンとなった。個人的には80年代のハリウッドではベスト5に入っていた監督だと思っている。90年代以降、確かにデ・バルマはバッとしない。それでも、いつかはガツンとやってくれるという期待を持って、デ・バルマの作品を見続けている。ってなわけで、今回も「ブラック・ダリア」に足を運んだわけだ。
さて、見終わった感想だが、駄作とは言わないが、やはり今三、今四だった。全盛時のデ・バルマの持ち味は何と言ってもカット編集の畳みかけの妙技だ。ヒッチコック張りのカメラアングルとカメラモーションを使って撮影された様々なシーンが、長回し、スローモーション、画面分割等の編集によってこれまたヒッチコック風のSEに合わせて絶妙に畳み掛けてくるときのあの緊迫感、これがたまらなかったのだが、今作もそのドライブ感が全くと言っていいほど感じられない。後半になってようやくデ・バルマらしさが出てくることには出てくるが、リズムがバタついていて、作品全体としての統一感がない。デ・バルマはもう終わったのかもしれない。そう感じた。
好きな監督だっただけにいろいろなことを考えさせられた。ひょっとしてデ・バルマは何も変わっていないのかもしれない。変わったのはむしろ僕の方で、あまりにデジタルのスピード感に慣れてしまったために、デ・パルマのような編集技法が無意識のうちにカビ臭く感じるようになっているだけの話なのかもしれない。映画はもろテクノロジーが反映されるジャンルである。もちろん映像技術が進歩したからと言って、傑作が大量に生まれてくるというわけではないが、映像表現の斬新さに限って言えば、現在の映画表現はデジタルテクノロジーに負うところが大きい。デジタルが提供するSFXを嫌というほど見せつけられ、アナログ時代の作品がどうも間延びしたように見えてしまうのは僕だけだろうか。と言って、デジタルの撮影技法はすぐに飽きがくる。作品の鮮度保持期間は昔に比べれば比較にならないほど短い。アナログもダメ。デジタルもダメ。僕の映画脳はどうやら八方ふさがりの状況を迎えてしまっているようだ。
長く語り継がれる作品というのはもう出てこないのかもしれない。おそらくテクノロジーとカルチャーの蜜月の時代は20世紀で終わったのだ。テクノロジーがカルチャーを死滅させる時代に入っているというのは言い過ぎだろうか。。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 2