6月 5 2006
メドゥーサと科学的思考
ヌースが使用する人間の内面の意識というものについて少し説明してみよう。
ヌース理論では人間の内面の意識の力は重力として表れていると考える。だから、内面の意識の勢力が衰退すれば、重力は消える。重力は何が生み出しているか。それはヌースが「形質」と呼ぶものの力であると考える。形質が時空を曲げるのだ。
「形質」とは、前にも説明したように、モノの内部の空間を概念化している力のことだ。大雑把に言えば、モノの中の空間という解釈でいい。重力はこうしたモノの内部の空間が等化されていこうとする力である。対象中心ともう一つの対象中心はそのためくっつきたがる。そういうことだ。
さて、もう少し突っ込んで考えてみよう。物理学的には、重力の元となる重力子はスピン2のボゾンとされる。ここでいう「スピン」の正確な説明は各自の検索に任せるとして、このスピンという概念は、宇宙がノンベンダラリとした平板的な空間から出来ているのではなく、違った質の空間階層から出来ているということを教えてくる。そして、この違った空間階層が物質の生成原因となっているということまで暗示してくれる。宇宙には僕らには見えない次元のレイヤーのようなものが何層にもわたって重ねられているのである。その重なりが物質を作り出している。。
さて、「形質」とは何かというと、それは端的に言えば、尺度概念のことと言っていい。水素原子の直径が10の-8乗cmであるとか、地球から月までの距離が38万Kmであるとか言っているアレだ。さっきは「ものの内部の空間」と言ったのに、どうして、今度は「尺度」と言い換えたかというと、元来、長さという尺度は、モノの幅に由来するものだからだ。例えば、この球体の直径と言うとき、それは目の前に見える球体の幅と同意だ。幅は物体の内部の空間のカテゴリーに入るから、つまり形質である。
近代になって、この形質がモノの外側に飛び出してくるようになる。つまり、モノとモノとの間を計ったり、モノと人間の間を計ったり、徐々に領土を拡大してくるのだ。闇の軍勢が光を駆逐していくということの意味がよく分かる。。。
さて、話をスピンに戻そう。重力子のスピン2の空間では対象は180度回転すると元に戻ってくるとされる。えーっ、と皆は驚くかもしれない。普通は対象は360度回転して元に戻るのが当たり前だからだ。しかし、ちょっと頭を使えば、180度回転して元に戻る空間を簡単にイメージすることができる。それは何か——客観空間だ。
モノが360度回転して元に戻るという認識はあくまで主観的位置から成されている知覚が判断しているものだ。つまり、この場合、モノはヌースのいう外面に接している。つまり、「わたしから見ると」、モノは360度回転して元に戻っている。当たり前だ。しかし、もしこれが、僕と、僕と向かい合う君とが同時に見ている空間だったらどうなるだろう。こうした客観性が成立している場所では、当然、僕は君の場所にも居て、君も僕の場所にいることになる。それが客観の前提条件だろうから。そのときモノを回すとどうなるか。。。当然、180度の回転で元の場所に戻ってくる。君が見ていたところが僕のところに廻ってきて、僕の見ていたところが君の側へ回り込んでいくが、君のところに僕はいるのだから、元に戻ったように見えるのだ。これがヌース理論が解釈するスピン2の本質であると考えていい。つまり、重力が存在している空間は、僕とか君とか言った多数の主観が無視されている空間なのである。そこには生身の人間はいない。唯物論の空間なのだ。
そこで、この唯物論の空間と、さっき話した「モノの中の空間」がどう関係しているのかを説明しておこう。ここでヌースの観察子概念が大変有効になってくる。というのも、早い話が、主観空間を決定づけている空間とはモノの背後の空間だからだ。僕がいつも言っている視野空間のこと。無限遠点に主体の最初の位置がある、と言ってるアレ。それはモノの外部空間のことでもある。
こう考えると、物理学との関連で大変面白い考え方が生まれてくることになる。それはベクトルとは何かという問題だ。物理学にはさっき言った空間階層に分けて、スカラー、ベクトル、スピノール、テンソルと言った物理量がある。これらはスピンで言うと、次のような系列を成している。
(1)スカラー/任意の回転に対して元に戻る(スピン0)………ψ1(ヌース対応)
(2)ベクトル/360°の回転に対して元に戻る(スピン1)………ψ3
(3)スピノル/720°の回転に対して元に戻る(スピン1/2)………ψ5
(4)テンソル(2階)/180°の回転に対して元に戻る(スピン2)………ψ7
スピン2の空間はモノの内部。これはテンソルが支配する空間だ。そして、スピン2の世界は「凝縮化」のもとでスカラー(スピン0の世界)と円環結合している。(ここは哲学的に言えばモノ自体主義と唯物論主義の重なりのようなものだ。)つまり、量だけで方向性を持たない。スピン1の空間に入ることによって、初めて力と方向が生まれる。これがベクトルである。じゃあ、ベクトルとは何か。。。簡単だ。観測が方向付けられている位置のことである。目の前でモノがグルグル廻っても、わたし自身の位置は何一つ影響を受けない。かつ、その位置では回転するモノの背景として視野空間が息づいている。。ここは主観位置が最初に生まれているところである。つまり、ベクトルが具備している力と方向とは、精神の力と方向を意味しているということなのだ。その意味でベクトルの回転とは、以前話した、モノが絶えず見えるようにモノの周囲を観測者が廻ることによって作り出すことができる(最近、分かったことだが、これがSO(3)の本質のようだ。モノのSO(3)はその意味でベクトルを送り出す運動のようなものだ)。 しかし、科学一般の思考性は、ベクトルを単なる物理力としてしか見なせていない。それは、なぜか——これも答えは簡単である。モノの内部性の空間概念でモノの外部性をも覆い尽くしてしまっているからである。形質(尺度・公理系)が持つ、異常なまでの支配欲。形質とは、その意味で全てを差異なき同一化の体制に飲み込んでいく物神の力である。
21世紀の今日、現代物理学は次のように言う。
——宇宙の半径は137億光年である——
ぞっとしないか。。。形質は、ここにきて、人間は言うに及ばず、地球、月、太陽系、銀河系、そして宇宙のすべてをモノの内部に閉じ込めてしまったのだ。僕らは文字通り物神の支配下にいる。この世界はモノの中の牢獄であり、光が駆逐された無明世界である。まさにサウロンが支配する地獄なのだ。
重力(gravity)の頭文字は G、一神教の神(god)の頭文字もG。。人間=有機体(orgon)がこのGに完全支配を受けると、Gの刻印を打たれG-orgon(ゴルゴン)と化す。つまりメドゥーサである。今、世界中に無数のメドゥーサが徘徊している。君の頭にもニョロニョロと蛇が生えてきてはいないか?繁殖の場を取り違えた暗闇の生殖力。。。しつこいようだが、、首を切れ。「鏡」を使って首を切れ。君の中のペルセウスを蘇らせるのだ。(上写真はカラパッジョ「メドゥーサの首」)
6月 6 2006
元止揚空間のハルモニウム
今日は2006年6月6日。あの伝説のオカルト映画「オーメン」がリメイクされて封切られる日だ。そこで、少し長くなるが、オーメン万歳スペシャルサービスデーとして、ヌース的「6・6・6」について一講釈行っておこう。ちょっと長くなるかもしれないが、昨日の「メドゥーサと科学的思考」の続きと思って読んでもらいたい。
昨日、唯物論的な客観空間からその起源である「モノ自体」が生息する超越論的な客観空間に至るまでの4段階の空間についてほんのさわりだけを話した。ここに形作られている方向性のピュイサンス(累乗)を、ヌースでは「元止揚空間」と呼ぶ。この元止揚空間は自他の間で双対をなしており、合計、八つの領域から構成されている。これはヌース理論の無意識構造論の中で最も基礎的な概念となるもので、いわば、存在のロータス(母胎空間)とも呼んでいいものだ。
実はこの元止揚空間はプラトン立体群の中の正六面体・正八面体の内接・外接関係として表現することができる。正六面体と正八面体という幾何図形だけで、無意識の構造が表せるなんて何て素敵な話じゃないか。おまけにそれは物質の基盤構造でもあるのだ。こういうものこそイデアと呼ぶにふさわしい。
まずは「形質」の発生源である「核質」という概念から始めよう。核質とは正八面体Aとして表すことができる。これはモノという概念を支えているイデアである。XYZという3次元座標の原点からそのそれぞれの軸上に等距離に六つの点を取る。そして、それらを結び合わせる。それで正八面体はできあがる。この正八面体をモノの内部を規定するフレームと思ってもらえればいい。これをとりあえず正八面体Aとしよう(下図)。
では、次にモノの外部空間はどのようにフレーミングされるだろうか。この場所はヌース的には「無核質」と呼ばれる領域に入る。普通ならば、モノの内部も外部も三次元で一括りにされてしまうところだが、ヌースではそれらは全く次元が違うと見るのだ。僕らの知覚ではモノの外部には無限の空間が広がっているように見えている。だから、この空間をカタチとして表すためには、何らかのかたちで無限遠の位置を規定する方法を考えなければならない。そこでヌースでは次のような考え方をする。
今、正八面体Aに外接する正六面体Bを考えてみよう(下図)。この正六面体Bの八つの頂点は当然、正八面体Aとは一線を画したところに設けられる。つまり、正八面体Aをどのように回転させようが、この正六面体Aの頂点と交わることはない。正六面体Bでは、そうした八つの頂点が6枚の正方形を構成しているわけだが、この中の一枚の正方形と正八面体Aの関係は何かに似てはいないだろうか。そう、目の前で回転しているモノとわたしの視野空間(背景空間)のアナロジーにそのままなっていることが分かるはずだ。モノを回転させても背景空間は何の影響も受けない。
背景空間を回転させるためには、わたし自身がモノを見つめながら、モノの周囲を回転しなければならない。これによって外部空間の回転が起こることが分かる。このときの回転運動の三軸はもはやモノの回転軸となる正八面体Aの軸ではなく、正六面体Bの六枚の正方形の中心を貫いている正八面体C三本の軸である(下図)。当然、その軸は無限遠点の位置としての正六面体の外接球面に内接していることが分かる。正八面体Aと正八面体Cは当然全く違った次元の三次元性なのである。ここにスカラー空間とベクトル空間の差異が作られていると考えよう。意味としては前回言ったように観察者がいるかいないかの違いとなる。いるのがベクトル空間で、いないのがスカラー空間だ。
さて、ここで頭を柔らかくしてほしい。モノの三軸回転を統合した形で観測者の位置(背景空間の位置)が出現してきた。その次元は正八面体Aに外接する正六面体Bの頂点として規定された。ならば、今度は、観測者がモノの周囲を回転することによって作り出される正八面体Cの三軸回転を統括する何かが、ベクトルのような形で、正八面体Cに外接する新たな階層の正六面体Dの頂点として出現してくるのではないか。この位置に突き出してくる矢印とは一体何を意味するのだろうか。この問題を考えやすくするためには、モノを中心に観測者が作り出している回転半径をその極限にまで縮めてみるといい。そして、その回転で規定されているものとは何かについて考えてみるのだ。。。
そう、それは観測者を中心に持つパースペクティブの構成(知覚球面)であるということが分かるはずだ。つまり、ベクトルのSO(3)回転群の全体によって実は主体の位置が規定されているのである。そして、当然、この主体の位置を規定する球対称の空間は、モノの三軸回転が観察位置をその外部にベクトルとして放ってきたように、主体そのものの位置をあたかもベクトルのような一本の矢印で無限大空間の外部の次元に指し示してくる。このとき、正六面体Dの頂点へと突き出る矢印が実はスピノールである。こうして、スピノールの空間は、この正八面体Cにさらに外接する正六面体Dの頂点としてスライドさせてアナライズすることが可能であり、その空間上の一本の矢印は「わたし」という主体の方向位置を指し示すイデアということになる。
これらのことより、次のような関係を類推することができる
(1)正八面体A………スカラー空間(無人の空間)
(2)正八面体Aに外接する正六面体Bの外接球に内接する正八面体C………ベクトル空間(観察位置の関与)
(3)正八面体Cに外接する正六面体Dの外接球に内接する正八面体E………スピノール空間(主体位置の関与)
(4)正八面体Eに外接する正六面体Fの外接球に内接する正八面体G………テンソル(2階)空間(客観位置の関与)
このように書いてくると、当然、(4)の正八面体Eにさらに外接して肥大化していく空間の無限階層性が見えてくることになるが、実はこの階層性は円環を構成している。スピノールを統括した空間である正八面体Gは最初のスカラー空間である正八面体Aの部分に高次元の射影を通して回帰してくるのだ(この正八面体Gを反核質という)。おそらくこのあたりの領域がスピンネットワークの場所である。この部分のトポロジカルな解説はここでは省くが、重要なことは、このように正八面体と正六面体の内接・外接関係によって無限に拡張されていく空間構造が、この射影ルートを通って何層にもグルグル巻き取られていくシステムがこの空間には存在しているということなのである。
さて、スピノールとはほかでもない。物理学的に言えば電子のことである。いつも言っているように、電子とは主体が認識している知覚球面そのもののことであり。それを無数に持ち合わせた主体の無限集合の空間は4次元空間を通してそのまま物体内部の空間に映り込んできている。えっ?イメージがつかめないって?そんなことはないだろう。以前にも紹介したモノを見つめながらモノの周りを回る回転をもう一度やって見るといい。そのとき、君の視線とモノの中心点と、その遥か先にある無限遠点はすべて一点で同一視されているはずだ。とすれば、次々と回転させていったその視界の中では、知覚球面とモノの中心点はピッタリと一致しているはずである。このときの同一視した全経路をひとまとめにしたものがスピノールであり、これは4次元からの射影直線となっているのだ。言うなれば三次元球面の回転軸の半径分に当たるものである。
ここまでくれば、今度は無数のスピノールが生息する空間をイメージするのはさほど難しくはないことが分かるだろう。世界には無数の主体がいる。僕らが他者と呼ぶものである。モノの周囲に無数の観測者を円環状に配置して、全員一緒に、モノを見つめながら回ってみよう。カゴメの歌でも歌いながらやると、より一層ムードが出る。かぁ〜ごめ、かぁごめ、かぁ〜ごの中のと〜り〜は、いついつ出や〜る♪ときたもんだ。そこに作り出されてくるのは、言うなれば、4次元球体における無数の回転軸である。言うまでもなく、この無数の位相を持つ回転軸の半径部分が遷移していくのがスピノールの回転と呼ばれる運動であり、それは、僕らの感覚から言えば、他者の視座へと認識を変移させていくことの意味となる。このとき起こっている回転に対する対称性が、僕らが客観と呼んでいる概念を裏付ける対称性である。位置の変換、かなわちψ7のトポロジーと言っていいだろう。
こうして、モノ自体を意味する超越的客観性の巣がSU(2)対称性と呼ばれる場所にあることが予想されてくるのである。しかし、もしこれが本当なら大変なことだ。君が今、目の前の球体を客観として見ているのならば、それは3次元球体ではなく、4次元球体ということになってくる。そして、それは「陽子」に見えてくるはずだ。そして、その周りに知覚球面としての電子が存在している。。。すなわち、それは水素原子である。ありゃりゃ。
水素とは進化の方向にある対化が持った力と方向(シリウスファイル)。。。
客体が力で主体が方向。僕らは水素の中にいるのである。
おっと、話がそれてしまった。「ヌース的 6・6・6」だった。
察しのいい君たちはもう僕が何を言いたいか分かるはずだ。下に描いた三重構造の正八面体A・C・E。これがヌース的「6・6・6」である。一つのモノが作り出す三次元。一人の個体が作り出す三次元。そして、人間全体が作り出す三次元。この三つ並びの「6」は、間で暗躍する正六面体構造が見えない限り、決して僕らの意識に上がってくることはない。つまり、スタートの核質の「6」に重畳したまま、それらの差異が見えることはないのだ。だから、核質に生み出された形質は貪欲にそれ以外の「6」も、あたかも自分と同じ「6」のように見せて周囲を浸食していくのである。僕らが空間を三次元と信じて疑わない理由はそこにある。人間の意識は、この「6・6・6」の三位一体ループに支配されている。こういう状況をヌースでは、核質に止められるという意味で「止核(シカク)」という。人間の意識進化を押しとどめている宇宙的スーパーネオコンの抑圧である。
新約のヨハネの黙示録にあるあの有名なフレーズを改めてここに書き出してみよう。
「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」(13章18節)
もちろん。この「6・6・6」の封印は、まもなく到来する「7・7・7」によって、すべて解かれることになるだろう。新しい世界風景がもうまもなく見えてくる。それは君たちが想像を絶するものになるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: スピノール, プラトン立体, 元止揚空間, 形質, 無限遠