5月 31 2006
「と」哲学を晒すスレ
久々に「ヌース理論」でgoogleの検索をかけたら、2チャンネルで「と」哲学を晒すスレというものにぶち当たった。
「と」哲学を晒すスレ——http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1147710796/l50
ここにある「と」とは当然、トンデモの略なのだが、どうもヌース理論が「と」哲学の筆頭に上げられているようだ。これにはびっくり。自分ではヌースはジャンルとして、まだまだ精神世界の域を突破していないだろうと踏んでいただけに、おっ、こんなところにまで……と、嬉しいやら悲しいやら、複雑な心境である。しかし、ヌースはどこに行ってもトンデモなんだなぁ(^^)。それにしても哲学にまで「と」があるとは。これは初耳。
以前、ト学会のトンデモ科学のジャンルでもたたかれていたので、これでヌース理論はトンデモ科学とトンデモ哲学の二階級を制覇したことになる。ん?制覇じゃないな。今のところランクイン、というところか。醜いアヒルの子も万に一つは美しい白鳥に生ま変わる可能性だってあるかも。ヌースはただのゴミ理論に見えるかもしれないが、一度ハマるとなかなか抜け出られないよ。まっ、先は長い。シコシコと頑張るしかないな。
とは言うものの、改めて書き込みを読んでみると、お行儀よくやるべきかな、とついつい思ってしまうのもこれ人間の習性。う〜ん、しかし、やっぱり無理なんだよな。ヌースの魅力は一つにこの超トンデモ度にあるからね。ケタ違いのトンデモ度。僕が最初OCOT情報に惹かれたのもそこだった。「そんなアホな。あり得ない。。」それがすべての始まりだったわけだから、この原点を消してしまうと強度がガタ落ちしてしまう。それに、僕の出自は存野であるから、胡散臭がられるチャネリングという体験を含めて、自分が経験している思考の状況を、自分の人生を通して真っ正直に語るしかない。それだって一つの哲学である。もちろん、アカデミックな文献の言葉を通して語ることも心がけようとしてはいるが、これはこれで一つの芸。そう簡単にマスターできるものじゃない。第一、専門家と違って、そんなに本を呼んでいる暇がない。会社を経営して、社員の給料のことを考え、広告をデザインし、新製品を企画する。毎年の決算時には経営者という立場上、とりあえずは赤字の心配もしなくちゃならない。そういう日常なのだ。健康食品を作っている会社のおっさんがハイパーな哲学理論を構築する。このスタイルは自分でも結構、気に入っている。しかし、世の中の目はそうはいかないんだな。
以前、ある有名なミュージシャンの勧誘で中沢新一さんとの対談の企画が持ち上がったことがあった。しかし、プロデューサーの方が僕の経歴を見て、「なんで中沢がこんな怪しい健食メーカーの社長と対談しなければならないんだ」と言って、その企画はボツになった。敬愛している中沢氏と直接会えるということで楽しみにしていたのだが、世の中とはそんなものだ。肩書きが意味がないとまでは言わないが、肩書や実績がない者は、常にどこかの馬の骨扱いにされてしまう。まぁ、事実だから仕方ないが、そういう価値観だからこそ、みんな不幸になるんだな。
とにかく、ヌース系とかヌース派などといった形容が「と」の代名詞とならないように、今後も精進していくしかないな。まあ、時間がかかるだろうけど(^^)。
6月 1 2006
ダ・ヴィンチ・コード
——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。
とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。
原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげで映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。
要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。
イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。
キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。
この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。
イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4 • Tags: グノーシス, ユダヤ, ロゴス