6月 10 2006
それでも地球は回っている
前々から地球は3次元球面S^3として見なければならないと力説してきたが、その理由は、ほかでもない。通常のモノと違って、地球上には自然発生的に無数の観測者が存在させられているからである。
見る者と見られる物の位置関係を全く相対的に考えるヌース理論の考え方では、世界に60億の人間がいるならば、そこには60億通りの地球がある。だから、例えば、僕が君をお気に入りのスポットに誘って、「ほら、きれいな夜景だろ」と言ったとしても、残念ながら君と僕の見ている夜景は同じものにはならない。それは、夜景を見る角度が違うとか、時間がずれているからとかいった時空的な位置の差異を言ってるわけじゃない。たとえ、君と僕が同時刻に同位置から同方向、同距離にある景色を見れたとしてもそれらはおそらく同じものにはならない。それはなぜか——片方は「僕」が見ている風景であり、もう片方は「君」が見ている風景だからだ。つまり、そこで同じ風景が見えていたとしても、そこには「君」と「僕」という絶対的な差異が依然として残される。
地球表面はS^2である。と物知り顔で誰かがいうとき、そこではこの「僕」と「君」との差異が全く考慮されていない。そんな世界なんて現実にはどこにも存在しないことはすぐに分かるはずだ。そのことを問題としたいのだ。世界という限り、そこには必ず「わたし」がいる。「わたし」がいない世界など、世界としての意味を持っていない。「わたし」がいるということは、他者がいるということの裏返しでもあるわけだから、当然、世界には「あなた」もいる。つまり、この世界は君と僕との差異を持って初めて世界足り得ているのだ。地球とてその例外ではない。そうした差異を認識している者が見る地球は決して2次元球面などではない。君と僕との差異が組み込まれなくてはならないのだ。
ヌース理論の考え方では、自己と他者の精神の位置を決定づけるイデアはいつも言ってるようにスピノールの+1と-1によって作り出されている。素粒子で言えば、電子のupスピンとdownスピンだ。これは3次元球面の回転軸によって決まる北極と南極のようなものだ。3次元球面S^3の特徴の一つに、その対極点がS^2上の一点に射影されてくることが挙げられる。つまり、2次元球面上の一点には、3次元球面上では正反対のところにある位置が二つ重なってくるのである。この重なりが実は自他の見ている対象の重なりなのだ。要は、同じ2次元球面に見えても、その球面の表面上の一点にはS^3上の対極点である2点が影を落としている。当然、こうした重なりは球面S^2上の至る所にある。つまり、目には見えないが、地球は二枚の重なり合う認識の薄皮に覆われているのである。
こうした事情からスピノールは720度回転しなければ元に戻ってこない。地球の表面がすべて陸地だとして、君が赤道に沿って歩いて行ったとしよう。当然、君は360度回転して元のところに戻ってくる。しかし、それは君の王国内部での話にすぎない。君はその回転によって他者が見ている世界に出ているわけではない。なるほど世界を一周したのだから君自身の可能世界は開示されてくるだろうが、それでも他者と世界が共有されたわけではないのだ。行けども行けども、それは自分自身の世界にすぎないのだ。もし、君が他者と世界をシェアし合いたければ、スピノール空間が所持している残り360度の回転を巡る必要がある。もちろん、この残りの360度は別の一人の他者になって地球をもう一巡りするといったような意味ではないので注意しよう。それはもっと巨大な空間ではないかと思う。例えて言えば、赤道上に全人類を整列させて、その個別の一人一人の視点に位置を遷移させていくということだ。このときに起こっている回転が失われたもう一周の360度である。
この辺の事情をトポロジーで表現すると次のような感じだ。
SO(3)×SO(3)=SO(4)/4次元の回転群とは3次元空間の回転群が二重になっているということ。
SO(4)=SU(2)/4次元空間の回転群とは複素2次元空間の回転群と同じだということ。
SU(2)=S^3/複素2次元空間の回転群とは3次元球面を描くということ。
よって、地球表面=S^3
世界旅行をして見聞を広めるのも結構。しかし、マンションの隣の住人と顔をつきあわせて会話し、互いに理解を深めることの方がはるかに高次元の出来事なのだ。スピノール空間はその方向にしかない。
こうした認識で地球の自転とは何かについて考えてみると面白い。自然とその意味が見えてくるはずだ。地球は単なる物理力で自転しているのではない。そこには目に見えない内在的な精神の力が息づいている。こういうことを言うと、ヌースはますます「と」だと言われるだろう。しかし、そこはガリレオを真似して次のように言うしかない。
それでも地球は回っている——。
6月 14 2006
金星の女
象徴界に入る際の去勢……難しい言い回しに聞こえるかもしれないが、何のことはない。人間が言葉を習得する際に受精能力を失うという意味である。いうなれば失楽園のラカン的言い回しである。象徴界とは簡単に言えば言語の世界である。人間は言語とともに生きる動物であり、言語によって社会秩序を形成している。ここでいう言語とはいうなれば一つの規律、約束事である。例えば、ここに「財布」があったとして、それを「魚」と呼んだのでは人間間のコミュニケーションは成り立たない。財布は財布と呼ばれることによってその同一性を確保し、他者との間で潤滑なコミュニケーションが確保される。言語はその意味で、諸事物の同一性を保持するために頑な規律を持たなくてはいけないわけだ。よって、辞書とは六法全書以前の原法の書だと言うことができる。つまり、お役所仕事のように、一つ一つの存在者が父が治める言語統括省によって登録されているのだ。この登録に違反する者は、意味不明、社会の規律を乱す者として、切り捨てられる。
去勢されていくもの。それは、毎夜、毎夜、君の自室で繰り返される密かなつぶやき。諦めともあがきともつかない意味のない奇声——うぐぐぐぐぐ。げげっ。くぅ〜。オレはダメな男なのか?いや、そんなはずはない。こんなはずじゃなかった。おれは、おれは………——泣くな。いじけるのは早い。そこで君は何を失っているというんだ?失っているという幻想に取り憑かれて一人悩んでいるだけじゃないか。問題は世界に去勢されていること。そこに怒りを覚えるべきだ。怒りのアングリー・インチ。12インチから10インチが切除され、わずか2インチの祖チンの快楽で君は満足しようとしている。祖チンとはおさらばしよう。役人たちの真似をしようとするから君は苦しむのだ。権威、権力、金、セックス、そんなものは二次的な遊びでいい。君の真の生殖器をおっ立てろ!!
ラカンはこの去勢に対抗する勃起器官として「√-1」、すなわちi(虚数)をおもむろに実存のファスナーを開けて取り出す。それを見て、登録役所の小役人ソーカル=ブリクモンは次のように揶揄する。
「正直にいって、われらが勃起性の器官が √-1 と等価だなどといわれると心穏やかではいられない」(『知の欺瞞』)
残念ながら、君ら(ソーカル=ブリクモン)のソレは2インチ以上は勃起しない。だから√-1 と等価にはならないので心配ご無用。ラカンが口説こうとしているのは別の惑星の女なのだよ。黄金比的プロポーションを持った金星の美女。彼女の声を聞くことが出来る人間は少ない。果たして、君には目の前にいる金星の女が見えるだろうか。
——あたしを見つめてちょうだい。あたしは明晰なのよ。見透してるのよ。
見つめてちょうだい。あたしは幸福で震えてるわ。 (バタイユ)
君の幸福を約束してくれる女は彼女しかいない。だから、そこに君は勃起器官を立てるべきだ。リリスではなくイブを探すこと。見出されたイブこそが君が待ち望んでいるヴィーナスなのだ。
主体は虚空間を通じて、世界に接している。もし君が自分を実空間の内部にイメージしているのであれば、君の身体は常々言っているように虚像であり、目(見ること)を摘出された髑髏の身体である。そこは去勢された闇の空間に包まれている。虚空間に出よう。そこには反転した世界=原空間がある。いい女だぞ。君が来ないなら、わたしが先にいただく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: バタイユ, ラカン