6月 7 2016
アリアドネの糸をたぐって
古神道の熱波がひと段落して、現在は頭を物理学モードに切り替えている最中。思考しているのはいつも同じものなので、同じ美しい女性をアングルを変えて見ている感じだね(笑)。
人間の無意識構造と素粒子構造の関係性を思考していくにあたって、奥行きと幅をそれぞれ虚軸と実軸に見立てることがいかに重要かは何度もつぶやいてきた。未だ物理学は複素数で示される空間を素粒子記述のための単なる数学的道具としてしか見ていないが、ヌーソロジーの思考からすると、それは確実に潜在的なものの活動場の数学的表現になっている。
わたしたちが知る時間と空間の世界は、この自他それぞれが構成している複素空間の統合から現れてくると考えいい。自他においては本来、虚軸(奥行き)と実軸(幅)が互いに逆の関係で構成されているのだが、それらをそれぞれ共通の奥行きと幅にまとめるような運動が複素空間自体の中で起こっているということだ。
自他それぞれの奥行きと幅を交換するためには互いを捻る必要があるが、この捻れを含んだ回転運動がSU(2)―複素2次元空間におけるスピノルの回転―だと考えるといい。この回転によって、自己の奥行きと幅が他者のそれらと同一化する場所が生まれ、そこに時間と空間が出現してくるような仕組みになっている。
このSU(2)構造は意識の上では左方向からの視線の介入と、それに伴う奥行きの幅化をもたらす。「横から見ると奥行きが幅に見えるでしょ」というやつだ。自己本来の奥行き=虚軸を持続軸として考えるなら、このとき起こる空間の二重化が非局所と局所の重なりを目の前の空間に与えてくることになる。要は見ている空間と見られている空間の二重化だ。わたしたちの目前にはミクロの素粒子世界とマクロ世界が同時に重なっている。このことは執拗に何度でも言わなくてはならない。
この二重化にはっきり気づくことをヌーソロジーでは「顕在化」と呼んでいる。今まで無意識の中に沈んでいた内在性としての持続空間が認識の対象として浮上してくるということだ。
噛み砕いて言うと、対象側から働きかけてくる空間は局所的な時間と空間の世界だが、身体側から働きかけている空間は非局所的な複素空間だということ。
この二つがはっきりと見えてくると、今まで曖昧な表現でしか語ることのできなかった、主客一致の意識空間を科学的な明晰性を持って思考上に明らかにしていけるようになる。言い換えれば、物理学で用いられている様々な数式を魂の構造表現として読み取っていくことが可能になるということだ。
例えば自由粒子の波動関数Ψ(x,t)=e^i(kx-ωt)の意味をこの二重の空間性から考えてみよう。
Ψ(x,t)をΨ(x,t)=e^ikx×e^-iωtというように変数分離して考えると、波動関数が空間を巻き込んだ回転e^ikxと時間を巻き込んだ回転e^-ωtの合成からなっていることが分かる。これを図で示すと下図のようなイメージだ。
細かい説明は省くが、この二つの回転は何を意味しているか結論だけ書くと、観測者の持続が時間と空間上に位置を規定しようとしてる活動を表している。サルトルのいう想像力と言ってもいいだろう。観測者が持続空間を使って対象の周りに視点を巡らしている様子をここには表現している。
つまり、観測者が想像的に対象の周りを公転しながら、自分自身は自転しているということだ。これによって、対象をいろいろな角度から見た像が意識に想像的に構成される。e^ikxが対象周りの公転に対応し、e^-iωtが観測者自身の自転に対応すると考えるといい。ちょうど、地球の周りを月が裏を見せずに回っているようなイメージだ。
これらのことから自由粒子の波動関数Ψ(x,t)とは、わたしたちが時間と空間の中である一つの位置の認識を行うための無意識構造だということが分かる。要は、量子力学において物理学者たちは「観察している自分自身を観察しようとしている」わけだ。
この波動関数Ψ(x,t)の解釈を基本として、ヌーソロジーは物理学に登場する様々な数学的、幾何学的概念を無意識の構造として読み取っていく作業を行っている。そこからはっきりとわかったことは次のようなことだ。
素粒子構造はわたしたちの無意識を霊的世界へと方向づけている。この構造がなければわたしたちの意識も存在しない。時間と空間の世界さえその構造のほんの一部にすぎない。
こうした世界観へと早くシフトしたいものだ。わたしたち自身が素粒子なのであり、それが分かってこそ、初めて本当の宇宙が見えてくる。
素粒子とは人間に唯一与えられたアリアドネの糸だ。この糸をたぐって迷宮から出よう!!
7月 15 2016
良識から逆-良識へ
人間が持った最大のカルマとは表象の思考に支えられた僕らの良識―霊的認識から見れば、これは紛れもない真実だろう。反転知覚は人間の悟性が作り出した概念の連結を全く別なものへと作り変えていく。その再構築の足場となるのが、超越論的なものの構造知覚なのだ。
ここで言ってる「表象」というのは、「目に見える物体像」ぐらいに解釈しておけばいい。表象は時空と持続空間の接点に立ち上がっている。この間を取り持っているのが波動関数Ψだと考えられる。
素粒子が複素関数で表現されるのは、複素空間が持続空間の数学的表現となっているからだ。時空は当然、実数空間(r,t)なわけだから、結果、素粒子はψ(r,t)=Ae^i(k・r-ωt)のような複素空間と実数空間の混交状態で表現されることになる。
円環的な複素空間の位相に直線的な時空が巻きついている、もしくは巻き込まれているわけだ。僕が素粒子を「巻尺」と呼んだのもこうした数学的イメージによる。
量子力学的物理量がq数として扱われるのも、時間や空間といった延長量をこの巻尺から取り出さなくては物理量としての意味をなさないからであり、そのときに使われる数学的手法が微分演算子だったりするだけの話だ。巻尺の中から延長性 r(空間)や t(時間)を引っ張り出してくるということ。
ただ、面倒なのは、持続空間がこうした巻き込みの運動を層のように多重化しているということ。ユークリッド的な空間概念に慣れっこになっている僕らの良識にはこうした空間のイメージがなかなか馴染めない。
層(レイヤー)のように多重化する、というのは、具体的にいうなら、たとえば、波動関数Ψがまたe^iθ回転によって無数存在させられているような空間を作ったりしているってことだ。Ψ’=e^iθ・Ψ。これはU(1)群なんて呼ばれ方をする。
回転しているものがさらに回転し、また、それが回転し・・・どこかで聞いたことがある言葉だぞ?と思ったら、これってNOMIが最初に「宇宙の作り方」として送信してきた言葉じゃん(笑)。実際、量子の世界はそうなっている。
こうした回転による巻き込みの構造が漁師にはあるものだから、量子は非局所的なんて言われ方をされていると思うといい。つまり、点的(局所的)イメージで捉えられているのだけど、それらは外部を巻き込んでいるっていうわけ。まぁ、早い話、外部を自らの内部に反転させているわけだ。
で、今の物理学は「持続」という概念を思考から排除してしまっているから、つまり、観測者の内的空間への運動の自由度というのを無視しているから、並行宇宙論などといった全く馬鹿げた方向へと思考のイメージを拡散している。
実のところ、複素空間を持続空間の概念に置き換えて素粒子を描像していけば、量子論が呈している哲学的問題のほとんどはあっさり解決するんじゃないかと思えるくらいだ。
まぁ、ヌーソロジーはその作業をやってるわけだけど物理学者の人たちはなかなかその作業の中には入っていかないだろうね。それをやってしまうと、彼らが現在抱いている客観的宇宙をベースにした宇宙像は足元から木っ端微塵に崩壊してしまうだろうから。。
結局、ここでも一番の敵は理性が底支えしている自我なんだね。そして、良識はそうした自我とともにある。道のりは険しいけど、頑張るにゃん。
おいおい、途中、量子が漁師になっとるぞ。まぁ、いいか。魚とは3次元の中で彷徨う人間の魂の象徴と考えれば、漁師力学というのもまんざらじゃないな(笑)
参議院選挙、三宅洋平氏応援していたんだけど落選してしまった。残念です。政治の世界においても世の良識はまだまだ絶大な力を持っているんだな、と実感。そして、世界を滅ぼしていっているのも、この良識であるということを再認識。いかにして、この良識を逆-良識へと反転させていくか。宇宙的政治学が必要。
下の絵画作品はフランシス・ベーコン「叫ぶ教皇の頭部のための習作1952」
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子, 量子論