6月 27 2006
双対性の思考
不連続的差異論のページで、Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ氏から手厳しい批判を受けている。こうした正当な批判はまことに喜ばしい。批判に耐え得る理論になんとか育てていきたいものだ。
不連続的差異論のサイト/ヌース理論と新プラトン・シナジー理論から、四次元空間を考察する
■イデア界と双対性の思考
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ氏のお考えに賛同いたします。A=非Aという無のトポスの論理。これは華厳の『一即多/多即一』や真言密教の『重々帝網(即身)』などとも通じる概念だと思いますが、同一性の原理においては矛盾としか映らない言明をあるがままに調和に導いていく、こうした論理を貫く原理が双対性なのだろうと考えています。双対性の思考においては、〈A-非A〉という二項対立の図式の真の姿は、A^2/非A^2という「二乗項」よりなる対立のように見えます。A/非A*、A*/非Aという形で4値化(複素化)を決行することによって、捻れの関係の中で、そのままの姿で両立させ得るのではないかと考えています。アンチ・オイディプス風に言えば、双子のノンモですね。ひとりの双子であり、あるいは二人の双子、あるいはそれ自身において結びついているひとりの双子の語らいを取り戻すこと。そこに活路があるのではないかと。。。
こうした視点に着目したのがストロースやラカンの構造主義だと思いますが、構造主義の物足りなさは、構造を単なるモデルとしての抽象に止めている部分です。モデル化に止まる限り、それは不連続的差異の黄金比的運動を呼び覚ますには不十分です。伝統的な東洋思想においても事情は同じに思われます。思考は実在に対する人間の反動的意識に逆い、この立ち入り不能とされていた領域に「あからさまな描像」として介入すべきであり、そこに新しい身体像を構築することが必要だと考えています。イデアの顕在化が「倫理」と関われるのも、イデア自体の成立基盤に自他存在に起因するこうした双対関係が深くセットされているからではないでしょうか。ヌース理論が量子世界と4次元空間の描像に執拗にこだわりを持っているのも、そのへんの理由からです。
6月 30 2006
愛の方程式
いきなりうさん臭いタイトルで始まってしまったが、とりあえず左の式を見てほしい。
xをわたし、yをあなたと置く。左辺はわたしから見たあなたという関係を意味する。右辺はわたしとあなたから見たわたしという関係を意味する。かのラカンによれば、この関係が相等しくなるとき対象aに至るという。対象aとはラカンにとっては愛の実体のようなものである。その意味で、この式は関係者の間ではラカンの愛の方程式と呼ばれているそうな。ちあきなおみのx+y=Loveのように単純ではない。大抵の人たちが、こりゃ一体何じゃ、トンデモか?と言いたくなる。
ラカンの研究者たちも、この式についてよく解説を試みているのだが、どうも今ひとつピンとこない。たとえば、S氏なんかはこんな調子だ。
「神がわたしを愛するように、わたしがあなたを愛すること。そこに対象aがある。」
さて、困った。ラカンは一体この式で何を言いたかったのか。ラカンに限らず、あの時代のフランスの知識人たちはナチスの検閲から逃れるために、故意に自分たちの思想を晦渋に表現していたふしがある。暗喩、隠喩、換喩等のレトリックを駆使し、文章の端々に織り交ぜるのだ。それも、わざと文意を読み取りにくくさせるように。ふふ、所詮、ファッショ連中の頭じゃ分かるまい。分かるやつだけが読め、という感じである。だから、ラカンの言葉をその文面をなぞるだけではそうやすやすと理解することはできない。彼が生涯行った思索の足跡の中から、共通するイメージを摘み取って、その一つ一つの座標点を結ぶ形でしか、意味の輪郭は描けないのだ。
さて、ヌースがこの方程式の謎を解けと言われたら、どう解こう。。
ヒントは同じくラカンが口にしていた「愛の奇跡」にある。言うまでもないことだが、これはヒデとロザンナの曲名ではない。この世界で最も驚くべき奇跡とは何か。それは愛される者が愛する者に変容することである。ん〜、どうでもいいけど、ラカンってキザ。。
確かに、こうした変容は恋愛体験において普通に見られることだ。好きだ、好きだと言われているうちに、気がつくと、こっちが告白された相手に夢中になっている、ということが多々ある。このときわたしの心中で一体何が起こっているのか——ラカンはいう。受動が能動に変わること。それこそが奇跡なのだ、と。凡人は、そんなことは奇跡でも何でもない、能動に変わったおかげて、彼・彼女に逃げられてしまったじゃないか〜、くぅ〜。とぐらいしか思わない。そうではない。ラカンはここで何を言わんとしているのか。。ラカンの精神分析の本質はこの受動者から能動者への転換にあるのだ。
受動が能動に変わること。それは人間が人間を作り出した者に変わる、ということを暗示している。つまり、無意識への接近である。無意識のシステムとは、言い換えれば、神のシステムであり、それによって人間の意識は受動的に働かされている。受動的なものがどうやって能動的なものへと変容することができるのか——その奇跡の行い方について語ろうとしているのがラカンの精神分析なのだ。というところで、愛の方程式に戻ってみよう。
左辺のy/x……yを目の前に現れた現象世界とし、xをそれを受け取っているわたしとしてみよう。つまり、この分数を主体世界と客体世界の分割比であると考えてみるのだ。とすると、右辺側のx/x+yは何を意味することになるだろうか?主体と客体を合わせたものが、実は真の主体であり、そのとき主体だったものは客体へと変わる。。そして、その分割比は、前のものに等しい。。。一体、どういうことだ?
一つだけ言えることは、この式は主体を客体へと変えること、つまり、見つめる者を見つめられる者へと変換している式だろうということだ。このとき、真に見つめている者とは、主体と客体を併せ持った世界そのもの、つまり、神そのものとなる。世界はどういう事情からかは知らないが、此岸と彼岸に分かれた。此岸から見た彼岸。それがy/xが意味していることだ。そして右辺のx/x+yは、その逆、すなわち、彼岸から見た此岸を表している。彼岸に「わたし」はすでに渡っている。だからこそ、ここにわたしがいる。。そして、おそらく彼岸へと渡り終えた「わたし」とは「あなた」のことである。なるほど、y/xにおけるyにも「あなた」はいる。しかし、それは、わたしと対立する「あなた」である。しかし、「わたし」を他者として見ている彼岸の「あなた」は対立するものではなく、わたしを含むものである。だから、「あなた」は神なのだ。神は自分を見るために「わたし」と「あなた」を作ったのである。
さて、y/x=x/x+yという愛の方程式。y =1と置いて、この式を解くと、xは黄金比φになる。ラカンが対象aと呼んだものだ。この対象aはラカンが言うところの「消え去った現実界」の中に息づいている。此岸と彼岸はこの対象aによって分断され、かつ、この対象aによって結ばれているのである。。
対象a。おそらく、それは双対性の思考が生み出す自己言及の成長である。見ることを見ることを見ることを………。負の鏡像原理を正の鏡像原理へと反転させること。そこには燃え盛る生命の火が黄金螺旋の風に煽られて燃え立っていることだろう。風に乗ろう。火を起こそう。そうすれば奇跡は起こる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: ラカン