7月 2 2006
魚から星へ
ヌース理論は物質と精神の関係性について考える理論である。物質と精神の関係は悪魔と神の関係に似ている。悪魔と神は二元的なものだが、悪魔は神が生み出したものという意味において後手である。神が先手で、悪魔が後手。これ,創造の鉄則。悪魔じゃ世界は作れない。
悪魔の愚かしさは自分が後手であるにもかかわらず、神を出し抜いて世界を支配しようというところにある。後手が世界を支配すれば、生成力は失せ、世界は滅亡する。それに気づかないところが悪魔の愚かさだ。物質と精神の関係も同じだろう。物質は精神の反映である。反映としての物質が先手を取れば、同じく世界は滅び去る。それにもかかわらず、物質が覇権を握ろうとするのは、物質が自分自身の出自に関してあまりに無知だからだ。
精神にはこうした物質と精神の関係性が見えているが、物質にはそれが見えていない。このへんの事情は、単純な喩えで示すことができる。物質と精神の直交性を考えるといい。水平面を物質とすれば、垂直方向に精神が存立している。物質が物質自身の中に必死に自らのルーツを探しまくったとしても、決して捕まえることはできないことは明らかだ。脳細胞の発火が意識を作るなどといった考え方はその典型である。偶然の化学反応から生物が誕生してきたとする説も同じだ。
「水の中に映る大空あれ!!」
古代都市ニエヴェの図書館で発見された粘土版に書かれていたこの言葉が、物質の由来を一言で説明している。物質世界は精神世界の投影なのだ。物質が水平面ならば、精神は高さを持つ。よって、物質と精神の関係を俯瞰できるような知性を作り出すためには、この高さ方向を見いだす新たな精神を作り出さなくてはならない。それが古代よりヌースと呼ばれるものである。
物質の水平面では世界は極めて複雑に見えている。しかし、物質/精神の関係性が見える知性にとっては世界は極めてシンプルなものに違いない。
針金を10回巻いてコイルを作り、その影をテーブルの上に落として見る(上図参照)。そこにはランダムに10個のグルグル模様が描かれて見えることだろう。しかし、それらは平面状につぶされているために、複雑な迷路に見えてしまうはずだ。どの旋回がどの旋回の上なのか、下なのか、そんなことは皆目見当もつかない。平面では、巻き上げていった方向が見えておらず、それぞれの円の関係を平面それ自身の中で見ようとする。巻き上げられた螺旋状の円の間では、おそらく、各レベル、バイナリーに力のやり取りが行われているのだが、その関係性は物質平面上では恐ろしく複雑なものになり、その様子をつぶさに分析はできたとしても、肝心の「なぜ?」には答えることはできない。なぜ、この世界は3次元なのか。なぜ、力は四種類しか存在しないのか。なぜ、人間は死ぬのか。なぜ、人間は生きるのか?なぜ、人を殺してはいけないのか?なぜ人は愛するのか。なぜわたしはここにいるのか——こうした根源的な「なぜ?」に対する答えは「高さ」方向にこそ見いだされるべきものだからである。
物質平面での思考を「同一性の思考」、高さ方向の思考を「差異の思考」と呼ぶとするならば、同一性の思考には差異の思考が見えない。しかし、差異の思考には同一性の思考が見える。そこが大きな違いだ。だから、差異の思考を云々するときは、同一性の思考が作り出している知識は、否定されるのではなく、利用されるのだ。なぜならば、それらは同じ者のネガとポジだからである。水の中にうごめくすべての魚たちを銀河の星々に変えること。物質知を精神知へと変えること。決して水の知識は否定されるわけではない。それは知識の読み取り方が90度、大空に向けて直立させられる、ということだけなのだ。
例えばわたしが次のような話をするとしよう。
「三次元物体認識と炭素は同じものである。人間が客観的空間の中に一つの対象を概念化している状態、炭素とはその構造が物質平面に射影されている状況のことをいう。この場合、客観的空間概念が酸素分子で、対象概念が炭素である。あらゆる生物は、人間がそうした認識を持つことによって作り出す様々な思考形態や感情形態によって生み出されてきている。だから、そうした意識状態の総称が有機体なのだ。有機体とは他ならぬ人間の意識活動のことだ。炭素化合物とはそうした概念をベースとしたところに生じている様々な意識のバリエーションによって生産されてくる。有機体的連結が生物の必須条件であるならば、生物とは人間の意識活動の様態に他ならない。」
ここに書かれていることは別に重要ではない。大事なことは言表ではなく、こうした言表をロジカルに接合することのできる真のメタロジックを創造することである。人間は神の種子に決まっている。そうではないというなら、一体、何が神を生み出すというのか。人間は神々を作り出すための母なる生産機械である。神に変身するためのメタロジックを直立させること。科学でもなく、宗教でもなく、オカルティズムでもなく、何か全く別のものを。
7月 3 2006
アクアフラット、再び
前回のブログの内容を踏まえて言えば、ヌース理論は水面下からの上昇を訴えかけている。水面そのものが3次元の空間性であるとするならば、その深さ方向が実時間、高さ方向が虚時間ということになるだろう。ここでの高さ/深さとは4次元を表しているからである。
実時間は沈んだ認識の産物である。水の中に魂が沈められているわけだ。ヨルダン川での洗礼である。洗礼は受難でもある。このとき、魂を沈めるための錘の役割を果たすのが君の頭部である。その意味で、君の頭部のことをアンカーヘッドと呼ぶことにしよう。僕らが時空と呼んでいるものは、このアンカーヘッド側に想定されている空間の深さのことである。端的に言うと、世界の後ろへの広がりとして想像されているものが時空なのだ。この深さは自我とともに存在し、自我はこの仄暗い水の中で固い鱗をつけ、魚のようにかろうじてエラ呼吸をしながら泳ぎ回っている。思う存分、呼吸ができない息苦しさを君は感じているはずだ。
他者の眼差しによって想像的なものとして作り出されているこのアンカーヘッドを切り落とし、水上の音楽が聞こえる位置にまで浮上すること——自分の主体としての位置をモノの手前側から、モノの背後に見えている空間側へと変え、鏡像から他者にとっての鏡そのものへと変身すること。ヌースではこうした主体位置の方向転換を「位置の交換」と呼ぶ。いつも言ってるように、視野空間そのものに自分の位置を見い出すことができれば、この交換作業は完遂されたことになる。
この感覚が今ひとつ分からなければ、例によって、グルリと自分自身で自転してみるといい。そこで意識されている前と後ろ。前は常に光に満たされているが、後ろは常に闇に閉ざされている。自我とは、他者から見られている主体像という意味において、つねに、この闇の中の住人なのである。実は、すべての物質現象は、この闇の空間の中で概念化され、記述されている。つまり、それはすべて見えない世界に関する記述なのだ。——このことは一体何を意味するのか?——つまり、客体=物質は、一般に考えられているような「見えるもの」ではない、ということである。それらは言語が作り出した幻像なのだ。言語によって不在があたかも在であるかのように偽装されている。その代償として真の在は隠蔽される。隠蔽された真の在とは、知覚像そのものとしての主体である。何と巧妙な罠だろうか。
具体例を出そう。たとえば、科学者たちは、アンドロメダ星雲までの距離は百万光年だという。そして、僕らが見ているその姿は百万年前の姿であると。実際に見えるアンドロメダ星雲は前の空間で見ているものだ。前では奥行きはすべて同一視されている。つまり、それとの距離はゼロである。距離がゼロであれば、時間も経過してはいない。となれば、アンドロメダからの光は百万年前のものなどではなく、「今」の光のはずである。それが百万年前という有りもしないものへと言い換えられる。もちろん、ここで「今」と言ったのは、物理学がいう点時刻0という意味ではない。「今」とは点時刻ゼロの中にある、実在が擁する永遠の広がりのことである。いつでも今、の「今」のことだ。
例えば、昔のことを思い出してみよう。昔のことを記憶として思い出しているのは「今」である。僕らは「今」以外の場所から過去を想起できない。未来に関しても事情は同じだ。将来に思いを馳せているのも「今」である。その意味で、過去、未来もやはり「現在」にある。こうした過去、未来を包含する「生ける現在」に主体としてのわたしが位置していることは明らかだ。そうした主体の位置をこの現象世界で空間的に指し示すことが、「位置の交換」に当たると考えてもらえばよい。それは、何度もいうように、視野空間の位置、つまり無限遠としかいいようのない場所なき場所である。
この新種の場所について、物理学的に納得されたい方は次のような思考実験を行い、その様子を数学的に表してみるといい。
まずはアンカーヘッドを取り去り、純粋に目の前の物体を見る。いや、「〜を見る」という表現にアンカーヘッドの影響を感じるなら、「〜として居る」という表現でもいい。とにかく、視野上に剥き出しのモノに自分を重ね合わせてみるのだ。そして、その中心点に原点Oを想像し、そこから前方に広がるx.y,zの三次元の広がりを等角写像として想像する(上図参照)。ここでは方向が反転しているという意味で、故意にx.y,zそれぞれの方向に「−」の符号をつけておくことにしよう(これは量子化のための伏線でもある)。このとき、奥行き方向にある距離空間(の2乗)は、距離をuとすると、
u^2=(-x)^2 + (-y)^2 + (-z)^2
として表される。結局のところ、マイナス符号は消えて、u^2=x^2+y^2+z^2となるが、ここではマイナスの消失をことさら問題としないことにしよう。
さて、視野空間上ではこのu^2は0点と同一視されている。u^2のこの点0との同一視をu^2からu^2の減算、つまり、u^2 − u^2と考えてみよう。すると、上の式は、
u^2 − u^2 = x^2 + y^2 + z^2 − u^2=0
となるのが分かる。何のことはない。これは、光を4次元のベクトルで表した式である。つまり、この式は、僕らの視野空間の在り方自体が「光」のベクトルである、ということを暗に表している式なのだ。そこでは、当然のことながら、奥行きが同一視されることによって、距離空間が相殺された形で光速度状態として現れる。つまり、「位置の交換」とは観測者を光に変身させることであり、観測者自らが光速度状態に入ることを意味するのである。僕らが光自身に変身したとすれば、もはや光は対象ではありえない。光が対象でなくなるということは、僕らは見えるもの(同一化)すべてから解放されるということである。ここに差異の思考空間が出現するのだ。
さて、この等角写像で表された3次元空間を存在の水平面(ヌースでは「アクアフラット」と言います)として見ると、光というのが物質と精神の境界面であることが分かってくる。精神を僕らの真の身体性とするならば、光とは精神の皮膚に相当するものなのだ。4次元時空の中にしか自分の居場所を発見できない僕らは、この皮膚を内側から突き破り、水中に夥しい出血を続けている。膨張する宇宙、エントロピー、一方向にしか進まない時間の矢、重力、そして、そこで衝突している二つの自我。それらはすべてこの出血に起源を持つ、女なるもの=精神が患った「人間」という名の病である。
この病には二つの代表的な症状が見られる。一つは精神を言語化することのできないロゴス、もう一つは、精神の言語化を拒否するパトスという症状である。分かりやすく科学と宗教と言ってもよい。そのどちらもが不妊の原因となるものだ。この病を癒すためには、まずは亡き父のファルスによって破られた女なるものの処女膜を再生することが必要なのだ。「位置の交換」とはそうした再生のための施術である。処女膜を再生し、物質をマリア・マテリアに変える必要がある。そうして、初めて、精神を言語化できる真のエロス=ロゴスを出現させることができる。そうしたロゴスのことを、改めて受肉するロゴス=イエス・キリストと呼ぼう。原始キリスト教が言い伝える、あの「ヴェサイカ・ピシス」の形をもう一度思い出すといい。そこには、含まれるものと含むものの一致、すなわち、0と∞の一致の形がある。それは、その呼び名通り、長い間、水中をさまよっていた「魚たちの浮き袋」となるものだ。
「位置の交換」………ψ3。幼きイエスの産声。君にはこの声が聞こえるか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ロゴス, 位置の交換, 無限遠