7月 5 2006
元素界への突入
ヌース理論では素粒子世界は潜在化したイデアと考える。潜在化したイデアは人間の無意識構造を形作っており、この無意識構造があるから、僕らは意識を働かせることができる。人間の意識進化とは、この潜在化していたイデアが、顕在化を行うことである。だから、それは人間の意識に素粒子が見えるようになることを意味する。このへんは何度も言っている通りだ。しかし、素粒子が見えるようになったときは、それは素粒子ではないとも言える。潜在化したイデアが素粒子なのだから、当然、顕在化したイデアは素粒子には対応していないということだ。では、それは何か——。
原子である。たとえば、ψ6という観察子は潜在化においては、ニュートリノ、もしくは局所時空に対応するが、「あっ、ニュートリノとは局所時空と呼んでいたものだったんだ。へぇ〜。」と言うように、ψ6の概念がそう納得して見えてきたとき、そのψ6はもはやニュートリノではなく、原子番号6番の炭素となっている、ということだ。顕在化したイデアを持った意識にとっては、局所時空=炭素というとんでもないロジックが当たり前のように成り立つ。何で………?と訝しがる声が轟々と響いてくるのが聞こえるが、ここはチビチビ行こう。ここは、こういう考え方をしてみてほしい。
客観的モノが成立する条件をヌースではトポロジカルに考える。主観としてしか把握できないモノが、どうして客観にまで育ち上がるのか。いや、そもそも主観は,客観(世界)の部分的な切り取りという意味において、世界からしか派生し得ない。しかし、最初にあるこの客観とされる世界は、客観というよりはむしろモノ自体としか呼びようのない世界である。何と気味の悪い話か——これはカント以来、哲学が抱いてきた最重要課題の一つと言っていいものだ。
当然、この主観-客観のグルグルルートは無意識構造が人間に強いている業(カルマ)の一つなのだが、ヌースは、そこで、このカルマの構造に、群論でいうところのSU(2)対称性のカタチが暗躍しているということを主張している。つまり、僕らの意識に客観的なモノという認識が現れてくるためには、複素2次元空間における回転対称性がないと無理だ、と言っているわけだ。はじめにSU(2)ありき。SU(2)は光とともにありき。SU(2)は光の命であった。ということにでもなろうか。。だから、3次元空間でただモノが廻っていても、それは客観ではなく主観的なモノの回転にすぎない。事実、ここで起こっているモノ自体と知覚の分裂に、やれモノが先だの、いや、観念が先だのと言って、哲学者たちが長年の間、論争を続けているのである。
SU(2)が3次元球面と同型であることから考えて、SU(2)対称性とは4次元空間上の3次元球面の回転対称性に相当するだろう。1次元球面(円環)が3次元方向に回転して2次元球面ができるように、3次元球面は2次元球面が4次元方向に回転して生まれるものと想像て゜きる。4次元の回転とは、意識の他者の視線への移動ではないか、という話はもう何回もしてきた。ここから見たリンゴ、あいつから見たリンゴ、彼女からみたリンゴ………こうした主観的イマージュが折り重なって「客観的なリンゴが存在する」という確信が成り立っているのは心理的にもごく自然に納得がいくところだ。
素粒子でいうとSU(2)対称性はアイソスピン対称性が成立している空間である。アイソスピンというのは電子のスピンがもう一回り大きくなったようなスピンで、三つの直交するスピンでアイソスピン対称性を構成している(二つの直交が弱アイソスピン対称性)。アイソスピンにも同じようにプラス1/2とマイナス1/2というのがあって、これらはそれぞれ陽子と中性子のスピンに対応させられており、アイソスピン対称性はそれらの区別がつかない核子の状態を意味する。ヌースは陽子を客観的モノのイデア、中性子を客観的時空のイデアにそれぞれ対応させているので、正確に言えば、これらは弱アイソスピン対称性と言った方が適切かもしれない。(以前話した人類総体の「前」と「後ろ」の関係を思い出してほしい)。
さて、客観的モノ、客観的モノと執拗に連呼してきたが、このモノは必ずも実際のモノである必要はない。客観的事物として見なされるもの、例えば、目の前の空間を指差して、ここを点Aとしよう、と言ったときの点Aでも構わない。つまり、モノを無限に縮めていったものでも、それは無限に縮まったモノであるから、モノに変わりはない。要は、モノの存在を概念として考えてみようと言ってるわけだ。するとモノ概念が存在するためにそこには最低、以下の三つの要素が必要となってくることが分かる。
1………客観的な位置概念(点)
2………客観的な空間概念(時空)
3………それを見ている主体概念(知覚球面)
実を言うと、この三位一体概念が僕らが重水素と呼んでいるものである(水素原子には内面(客観的な時空概念)がない)。つまり、客観的な時空の中に客観的な点を措定し、それが主観的なものへとズレて認識されているという状況。これが第一の原子の実体なのだ。これは、知覚球面を反環と見た場合の円心と反環の関係に当たる。円心が陽子と中性子、反環が電子である。その意味で言えば、原子に見られる核子と電子の円心関係は、円心と反環を対化に持つ次元と言えるだろう(これが「ヒト」だ)。僕らが見ている重水素原子とは、おそらく、それら三位一体のイデアの構図が、4次元のルートを通って射影され、縮んで見えているだけなのである。
7月 7 2006
光のサルベージ
前々回、「アクアフラット、再び」のところで例に出した”奥行きの一点同一化”について引き続き書いてみる。
そこでは無限遠が無限小と一致していることが素朴ながらも直観的に見てとれた。その描像からは点と直線は全く区別がつかないということが分かるだろう。僕らが広大な広がりとして概念化している3次元空間にしても大して事情は変わらない。嘘だと思うならば、対象の中心点を想定して、そこを中心にその0点が常に見えるように君も回転してみるといい。中心点0の背後に想定される無限遠は常に0点と同一視されることがすぐに分かるはずだ。内面意識に慣れ親しんだ僕らには即座には理解しがたいことかもしれないが、このことは、僕らの知覚に映し出されている無限遠の球面の内壁は無限小の球面の内壁に相等しいということを意味している。つまり、光そのものへと変身した外面知覚においては、「モノの外部も内部も同じ場所」なのである。ここに現れるのがヌース流4次元知覚である。
無限大=無限小、無限小=無限大、こうした領域の抉り出しのことを僕は「微分化」と呼んでみたい。かのドゥルーズも知覚の強度が生起している場所のことを〈微分化-差異化〉と呼んでいたが、これは全く正しい。ヌースの考え方からすれば、知覚は網膜でも視覚中枢でもなく、光子や電子という微粒子領域そのもので起こっているのだ。アンカーヘッドを切除して光に変身するということは、知覚野をミクロ世界へと接続させるにことよって、真の主体の位置を対象の中心点に移動させるということであり、そのとき、三次元意識の中でモノを挟んで向かい合っていると想像されていた自己と他者との位置関係は一気に反転し、互いに背中合わせの自他となって、モノの内部へと移動するということなのである。こうした主体の認識の変更をヌースでは「位置の等化=ψ5」という。つまり、天球面が対象の内壁と全く同じものに見えてくれば、位置の等化は完了となる。ドゥルーズの〈微分化-差異化〉の概念は、ベルクソンが唱えた差異、すなわち純粋持続の概念から来ているが、実際、当のベルクソンも次のように言っている。
「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。」(『思想と動くもの』)
ただ、ベルクソンは唐突にそう書いているだけで、その理由をつまびらかにはしていない。ドゥルーズにしても同じだ。差異化の位置は確かにミクロの微粒子にあるとは書いているが、明確なロジックがあるわけではない。外面知覚がこうして幾何学的に描像されてくれば、それは知覚的事実としてイメージされてくる。このように無限大=無限小が、知覚から実際に抽出され概念化されてくることが、ヌースが「人間の外面の顕在化」と呼ぶ出来事なのである。哲学は潜在的な外面の位置を生の現場や、実在、実存という言葉で語ってはきたが、それがどこにあるか、その場所をはっきりとは示しきれなかった。それは、モノの中の無限小領域にある。世界は素粒子世界の内部にあるのだ。
さて、恣意的に話を進めよう。僕が観測者の視線とは虚軸である、と言ったことを思い出して欲しい。この微分の考察に視線虚軸説を加味すると、面白い接続が想像されてくる。外面の獲得を位置の微分化δ/δxと考え、モノの背後の奥行き方向に想像された線分を「− i」とすると、前々回、「水」の字形で示したアクアフラット上のx,yzという座標系は、それぞれ(- i・δ/δx、- i・δ/δy、- i・δ/δz)と表記できることになる。
はて、これは何かに似ていないか?そう、実は、物理学が量子力学において使用する量子化された運動量と極めて似てくるのだ。量子の世界では位置や運動量といった物理量は演算子に置き換えられ、演算子は量子状態を記述する波動関数に作用することによって、具体的な物理量となる。それらを正しく列挙すれば、次のようになる。
px⇒ – i(h/2π)・δ/δx
py⇒ – i(h/2π)・δ/δy
pz⇒ – i(h/2π)・δ/δz
違いは定数(h/2π)だけだ。僕は前に物理学が扱うベクトルとは対象から観測者へと向けられた力の方向性だと言った。これは、物理世界の諸力は、モノの力に起源があるのではなく、モノが知覚や認識という観測者の実存に向かって変換されているために起こっている力だという意味である。その意味で粒子の運動量ベクトルもまた観測者の存在と深く関係している。ここに挙げた粒子におけるx、y、z方向の運動量の量子化とは、対象から観測者に対して放たれたx、y、z方向への知覚の強度の表現形式であると言っていいのかもしれない。例えば、ビルを正面から見た像(px)、側面から見た像(py)、真上から見た像(pz)、そして、それらを総合して得られるビルという像。。これはおなじみ設計図の様式である。これによって、建築家は建物の全体像を意識にイメージする。ここに生まれる建物全体のイメージとは何か——それはまさに反転した光と呼んでいいものである。時空に発散している光ではなく、観測者に焦点化された光。それが外面の光というものなのだ。その光は、決して形になることのないビルの三次元像であるpx、py、pzを、統合された像の強度1/2m・(px)^2+(py)^2+(pz)^2として送り出す。1/2mの正体は何かまだ分からないが、この式は自由電子のエネルギー演算子と呼ばれるものである。
OCOTは「電子とは光の抽出」と言っていたが、僕から言わせてもらえば、電子とは光の救出(サルベージ)である。半導体開発も宇宙開発も悪いとは言わないが、水面下に深く潜ってしまったアインシュタインの光を、シュレディンガーの光へと変えていくこと。それが、21世紀という時代の物理学の努めではないのか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: シュレディンガー, ドゥルーズ, ベルクソン, 位置の等化, 内面と外面, 無限遠, 素粒子, 量子力学